【第7話:夕暮れの向こう側、夜の約束】
「……あ。ねえ、ピュア君。これ、知ってる?」
セミの声が本格的に響き始めた、7月の終わり。
ラムネさんは瓶ラムネのビー玉をチリンと鳴らしながら、駄菓子屋の壁に貼られた一枚の古びたポスターを指差した。
そこには、達筆な文字で『市民夏祭り・花火大会』と書かれていた。
「あ、それ。来週の土曜日ですよね。僕の学校でも、みんなその話題ばっかりですよ。ラムネさんも行くんですか?」
「行くも何も、私、市役所の職員だからね? 当日は朝から本部のテントで案内係させられるの。最悪でしょ、完全に強制労働だよ……」
ラムネさんはベンチの背もたれにぐったりと寄りかかり、低いモゴモゴ声で盛大にため息をついた。
お堅いスーツを着崩したいつもの姿だけど、心なしか「当日の激務」を想像して今からげっそりしているみたいだ。
「そ、そうなんですね……。お祭りなのに、お仕事なんて大変ですね……」
「そうなの。……でもさ」
ラムネさんは急に体を起こすと、トロンとしたタレ目で、じっと僕の顔を覗き込んできた。
「夜の8時に対象者がハケたら、私の仕事も終わりなんだよね。……その時間、ピュア君は何してんの?」
「え……? ぼ、僕ですかっ!? 僕は、その……友達と一通り屋台を回った後は、特に予定はないですけど……っ」
不意打ちの質問に、一瞬で声のキーが跳ね上がる。
まさか、これって。
「ふーん、予定ないんだ」
「な、なんですかっ!?」
「じゃあさ」
ラムネさんは手元に残ったラムネの瓶をベンチに置き、少しだけ恥ずかしそうに、でも僕を試すような意地悪な笑みを浮かべた。
「夜の8時半。神社の一番奥にある古い木製のベンチ。……仕事終わりの私に、君のその甘ったるいチョコ、一本差し入れしてよ。……そしたら、一緒に花火、見てあげてもいいけど?」
ドクン、と心臓が跳ね上がった。
夕暮れの駄菓子屋。いつもなら「じゃあね」と別れるはずの僕たちが、初めて交わす**『夜の約束』**。
「お、お姉さん……それって、デート、じゃなくて……その、二人きりで、じゅ、十分……じゃなくて、会うってことですか……っ!?」
ダメだ、頭に血が上りすぎて過去最高に噛みまくっている。
僕の真っ赤な顔を見て、ラムネさんは満足そうにクスリと低く笑った。
「デートだなんて、17歳の男の子は言うことが大胆だねぇ。ただの、仕事終わりの水分補給に付き合ってって言ってるだけ。……それとも、高校生は夜遅くに出歩いちゃダメだった?」
「子供扱いしないでくださいっ! 行きますっ、絶対に行きますから!」
「あはは、カミカミのくせに威勢がいい。よし、約束ね」
ラムネさんはそう言って、いつの間にかカバンから取り出していた、真っ赤な『激辛ハバネロせんべい』を僕の口元に突きつけてきた。
「じゃあ、約束の印に、これ一枚食べなさい」
「だ、だから辛いのは無理だって――んぐっ!?」
「はい、あーん。あはは、やっぱりいいリアクション!」
口の中に広がる激痛に涙目を浮かべる僕と、それを見て楽しそうにお腹を抱えて笑うラムネさん。
だけど、僕には分かっていた。
彼女が僕をからかう時の、その握りしめた小さな手が、さっきからずっと微かに震えていることを。
大人びた香水の匂いの向こう側で、彼女も僕と同じように、初めての「夜の境界線」を越えることに緊張しているんだ。
「……じゃあ、来週の土曜日。遅れたらお仕置きだからね、太陽君」
夕暮れの光が、僕たちの影を長く、長く伸ばしていく。
その影の先は、もうすぐ訪れる、甘くて刺激的なお祭りの夜へと繋がっていた。
(続く)




