【第8話:夜の境内に、チョコと火花】
ドーン、と、お腹の底に響くような地鳴りが遠くから聞こえた。
夜空がほんの一瞬、鮮やかな赤や青に染まり、ゆっくりと闇に消えていく。
市民夏祭りの花火大会が、ついに始まっていた。
「……はぁ、はぁ、……っ」
神社の本殿を通り過ぎ、さらに奥へと続く鬱蒼とした鎮守の森。
賑やかな露店の灯りや人混みの喧騒が、嘘みたいに遠のいていく。僕は浴衣の裾を気にしながら、スマートフォンの画面を確認した。【20:32】。
「遅れた……っ。いや、まだ2分、じゅ、十分……じゃなくて、ギリギリセーフか……っ!?」
友達との付き合いをなんとか切り抜け、境内の裏手にある木製の古びたベンチへと走る。息を切らせて木々の隙間を抜けたその瞬間、僕はまたしても、その場に釘付けになった。
薄暗い街灯の下。木製ベンチの左側に、その人は座っていた。
「遅い。遅刻。お仕置きね、ピュア君」
振り返ったラムネさんは――いつもと違う、紺色の落ち着いた『浴衣姿』だった。
お堅いスーツはどこにもない。まとめられた黒髪からは、うなじが白い肌を見せていて、夜の闇の中でドキッとするほど艶っぽかった。
だけど、浴衣の胸元はやっぱり少しだけ緩んでいて、帯もどこか苦しそうに緩められている。やっぱり、この人はどこまでも『ラムネさん』だ。
「す、すみませんっ! 友達とはぐれるのに時間がかかって……って、ラムネさん、浴衣……っ!?」
「ん? 本部のテントにね、顔を出す時だけ着替えさせられたの。あー、もう、慣れない草履で足は痛いし、帯で苦しいし、本当に脳ミソ溶けるかと思った……」
いつもの低いモゴモゴ声で愚痴をこぼしながら、彼女は自分の隣――ベンチの右側をぽんぽんと叩いた。
「ほら、突っ立ってないで座りなよ。……で? 私の水分補給は?」
「あ、はい! ちゃんと、じゅ、じゅうぶん……じゃなくて、買ってあります!」
僕は慌ててカバンから、道中のコンビニで冷え冷えのやつを買っておいたお徳用のチョコレートバーを差し出した。
ラムネさんはそれを可愛い小さな手で受け取ると、「ん、合格」と嬉しそうに目を細めた。
カサリ、と銀紙を剥く音が響く。
並んで座るベンチ。夜の静けさのせいで、彼女の浴衣から漂う甘い香水の匂いと、少し汗の混じった大人の香りが、夕方よりもずっと近くに感じられた。
「……んー、甘。生き返るわぁ……」
ラムネさんはチョコをパクリと齧ると、小さく息を吐いた。
「太陽君って、いつもこんな甘いもの食べてるんだね。……でも、悪くない。疲れた体に染みる」
「……喜んでもらえて良かったです」
僕がそう言って微笑むと、ラムネさんはチョコを持ったまま、じっと僕の浴衣姿を見つめてきた。
「ピュア君も、浴衣似合ってるじゃん。いつもより、ちょっとだけ背が高く見える」
「子供扱いしないでください。これでも、もうすぐ18歳ですから……」
「知ってるよ。……もうすぐ、大人になっちゃうんだよね」
ラムネさんの声が、ふっと低く、切ないトーンに変わった。
遠くで、またドーンと大きな花火が上がる。その光が彼女の横顔を照らし、タレ目の奥にある寂しげな光を映し出した。
「大人になったらさ、太陽君。……こんな駄菓子屋のベンチなんて、来なくなっちゃうのかな」
「え……?」
「もっと綺麗な女の子と、もっとお洒落な場所でデートしたりするんでしょ? 私みたいな、くたびれた公務員のお姉さんなんか、忘れちゃうくらいにさ」
夜の闇のせいだろうか。
いつも余裕たっぷりで僕をからかってくるラムネさんが、今はひどく小さくて、壊れそうな女の子みたいに見えた。大人のブレーキなんて関係ない、彼女の本音が、夜の空気に溶け出している。
心臓が、今日一番の大きさでドクンと鳴った。
僕は、気づけば彼女の浴衣の袖を、ぎゅっと強く握りしめていた。
「忘れませんっ……!!」
声のキーは跳ね上がっていたかもしれない。カミカミだったかもしれない。
でも、僕は彼女の目を真っ直ぐに見つめて、言い切った。
「僕が大人になっても、二十歳になっても、何歳になっても……! ラムネさんの隣がいいです。駄菓子屋のベンチで、激辛お菓子を食べて、噛みまくって、からかわれて……それが、僕の一番大好きな時間なんです。だから、置いていかないでください……っ!」
ド直球の、告白まがいの言葉。
夜空に、ひときわ大きな黄金色の枝垂れ柳の花火が咲き誇り、境内を昼間のように明るく照らし出した。
光の中で、ラムネさんは目を見開いていた。
そして――彼女の顔が、耳の先から首筋まで、隠しようがないほど真っ赤に染まっていくのが、はっきりと見えた。
「……っ、バカ。本当に、ピュア君はバカ……」
ラムネさんはバッと顔を背けると、残ったチョコを勢いよく口に押し込み、モゴモゴと震える声で呟いた。
「……甘すぎ。心臓が溶けるかと思ったじゃん……」
「え?」
「うるさい、チワワ! ほら、花火見なさい!」
彼女はそう捲し立てたけれど、僕の袖を掴む彼女の指先は、さっきよりも優しく、だけど絶対に離さないというように、きゅっと力が入っていた。
夜の境内で、響く火花。
僕たちの秘密基地は、夕暮れを超えて、もう誰も止められない夜の熱量へと踏み出していた。
(続く)




