【第5話:炭酸の抜けない、僕たちの距離】
カラリと晴れ渡った翌日の夕方。
路地裏の空気は、昨日の豪雨が嘘みたいに澄み切っていた。
いつもの赤いスチールベンチ。僕はそこに座り、手元のノートを開きながらも、意識は完全に右斜め後ろ――駄菓子屋の入り口へと向いていた。
「……あ」
カチ、カチとヒールの音が響き、彼女が現れる。
ネイビーのスーツに、きっちりまとめた黒髪。
手には、紙袋。そこから覗いているのは、クリーニング屋の白いビニールに包まれた、僕の制服のブレザーだった。
「……はい、これ。昨日のお礼。ちゃんと綺麗にしてもらったから」
ラムネさんはベンチの左側に腰掛けると、紙袋を僕の膝の上にぽんと置いた。
いつもの低音モゴモゴ声。だけど、なぜか今日は僕と目を合わせようとせず、すぐに正面の路地裏を見つめてしまう。
「あ、ありがとうございます……。わざわざクリーニングまで、じゅ、十分……じゃなくて、すみません」
「いいってば。風邪ひかれたら仕事困る、なんて生意気言ったのはどこの誰よ」
そう言って、彼女はいつものように「カポン」と涼しげな音を立てて瓶ラムネを開けた。
チリン、とビー玉が転がる。
いつもなら、ここからすぐに激辛お菓子を突きつけてからかってくるはずなのに、今日のラムネさんはどこか静かだった。
「……あの、ラムネさん?」
「ん?」
「今日、激辛のやつ、食べないんですか?」
僕が覗き込むと、ラムネさんはラムネ瓶を口元に当てたまま、少しだけ気まずそうに視線を泳がせた。
「……今日はいいの。なんか、胃がびっくりしそうだから」
「胃? ラムネさんがですか?」
「うるさいなぁ。大人だって胃が休みたい日くらいあるの。それよりピュア君さぁ……」
ラムネさんはふぅ、と小さくため息をつき、僕の制服の袖をツンツンと指先で突いた。
「君のせいで、私、昨日からちょっと調子狂ってるんだけど」
「え……? ぼ、僕のせい、ですかっ!?」
声のキーが跳ね上がる。心臓が嫌な音を立てた。昨日、生意気にブレザーなんて貸したから、やっぱり迷惑だったんだろうか。
「そうだよ」
ラムネさんはラムネ瓶をベンチに置くと、両手で自分の顔を覆うようにして、モゴモゴとさらに声を低くした。
「……昨日、君のブレザー借りて帰ったでしょ。家でさ、ハンガーにかけようとしたら、なんか……すっごいチョコの匂いがして。……私、普段甘いものなんて全然食べないのに、気になっちゃってさ」
彼女の手の隙間から、少しだけ覗く耳の先が、うっすらと赤くなっているのが見えた。
「今日の昼休み、市役所の裏のコンビニで、気づいたら普段絶対に買わないような『フォンダンショコラ』とかいう激甘のスイーツ、買って食べてたの。……私のキャラじゃないのに。完全に君のチョコの匂いに当てられた。どう責任とってくれるわけ?」
「っ……!!」
脳内がパニックを起こす。
昼間、あの完璧で冷徹なエリート公務員の氷室さんが、僕のせいで、コンビニの甘いスイーツをこっそり食べていた?
そのギャップの破壊力に、僕の顔は激辛フライを食べた時以上に真っ赤に染まった。
「そ、それって……僕の匂いが、気になった、ってことですか……?」
口から出た言葉は、自分でも驚くほどド直球だった。
背伸びでもなんでもない、ただの男としての、剥き出しの言葉。
「っ……な、なにいってんの……バカじゃないの君」
ラムネさんは顔を覆っていた手をバッと離すと、今度はベンチに置いたラムネ瓶を両手でぎゅっと握りしめた。
完全に余裕を失った顔で、早口にモゴモゴと捲し立てる。
「ほら、ラムネの炭酸抜けるから早く飲みなよ! ほら、君の分も買っておいてあげたから!」
「あ、ありがとうございます……って、これ、炭酸じゃなくて、僕の心臓が抜けるかと思いました……」
「……もう、声高すぎ。チワワ」
ラムネさんは真っ赤な顔のまま、ぷいっと横を向いてしまった。
だけど、その手の中で、ラムネ瓶の中のビー玉がチリン、チリンと、彼女の激しい鼓動を表すように、不器用に鳴り響いていた。
10歳年上の、完璧な大人のお姉さん。
その頑丈なブレーキが、僕のチョコレートの甘さで、少しずつ、でも確実に溶け始めているのが分かった。
(続く)




