【第4話:夕立の軒下、香水の匂いが近すぎて】
ピチピチ、パチパチと、トタン屋根を激しく叩く音が路地裏に響いていた。
「うわ、最悪……。完全にやられた……」
学校帰りの僕を襲ったのは、文字通りのゲリラ豪雨だった。
天気予報なんてこれっぽっちも信じていなかった僕は、当然傘なんて持っているはずもなく、カバンを頭に載せていつもの駄菓子屋へと命からがら逃げ込んだのだった。
店先のおばあちゃんは「あらあら、大変だねぇ」と奥からのんびり声をかけてくれたけれど、外は真っ白になるほどのドシャ降り。とてもじゃないけど、すぐに帰れるような状態じゃない。
僕は濡れた制服のブレザーを脱ぎ、赤いスチールベンチの端っこで、小さくなって雨雲を睨みつけていた。
――その時だった。
「つ、つめたっ……! はぁ、最悪……。バケツひっくり返したみたいじゃない……」
雨のカーテンを割るようにして、ローファーの足音が飛び込んできた。
水飛沫をあげて軒下に滑り込んできたのは、息を切らせたラムネさんだった。
「あ……」
「あれ? ピュア君。君も捕まったんだ」
ラムネさんは僕を見ると、濡れて張り付いた前髪を邪魔そうにかき上げながら、低めのモゴモゴ声で力なく笑った。
その姿に、僕は息を呑む。
昼間の仕事帰りなのだろう。ネイビーのスーツ姿のままだ。けれど、今日の雨のせいで、白いブラウスが肌にピッタリと張り付いてしまっていた。
濡れた生地の向こう側に、彼女のキャミソールのラインや、大人びた身体の輪郭が、夕暮れの薄暗い光の中で生々しいほどに透けて見えている。
「っ……!!」
心臓がドクン、と跳ねた。
僕は慌てて思いっきり左側――彼女とは真逆の方向へと顔を背けた。
心臓がうるさい。バカじゃないのか僕。どこ見てるんだ。相手は26歳の、あの市役所の氷室さんだぞ。
「な、何、その全力で拒絶された感じ。ちょっと傷つくんだけど……」
「ち、ちがっ……違いますっ! 拒絶じゃなくて、その、目のやり場に、じゅ、十分……じゃなくて、困るっていうか……っ!」
「目のやり場?」
ラムネさんは首を傾げ、自分の胸元に目を落とした。
そして「ああ、なるほどね」と、すべてを察したように意地悪く口元を歪める。
「ふーん。ピュア君ってば、意外とそういうとこ見てるんだ? エッチだねぇ」
「見てませんっ! 視界に入っただけですっ!!」
耳の先までボッと熱くなるのが自分でも分かった。
からかおうとして僕の隣へと歩み寄ってくるラムネさん。狭い軒下。ベンチに並んで座ると、いつも以上に二人の距離が近い。
ふわり、と、雨の匂いに混ざって、甘い香水の香りが僕の鼻腔をくすぐった。
駄菓子屋の匂いじゃない。彼女が昼間、大人として身にまとっている、綺麗で、少し背伸びしたくなるような『都会の匂い』だ。
それが、雨の湿気でいつもより濃く漂っている。
「……冗談だよ。ほら、そんなに怒んないで。これでも飲んで落ち着きなさいって」
ラムネさんはおばあちゃんから買ってきたばかりの瓶ラムネを、僕の手に握らせた。
いつもなら「冷たっ!」ってなるはずなのに。
雨に濡れた彼女の手は、驚くほど冷え切っていた。
「……ラムネさん、手、すっごく冷たいですよ」
「んー? 公務員は冷血だからね。ちょうどいいの」
そう言って笑う彼女の横顔は、いつもより少しだけ青白くて、どこかくたびれて見えた。
そういえば昼間、市役所の窓口で見た彼女は、山のような書類に囲まれて、理不尽そうな市民の小言に何度も頭を下げていたっけ。
大人の世界は、僕が思っているよりずっと、冷たくて厳しいのかもしれない。
「……じゃあ、これ、使ってください」
僕は、ベンチに置いてあった自分の制服のブレザーを取り上げると、勢いよく彼女の肩へと掛けた。
男子高校生の、ちょっと汗臭いかもしれない、お徳用チョコの匂いが染み付いた、不器用なブレザー。
「え……?」
ラムネさんが、驚いたように目を丸くする。
「僕、男ですから、これくらい平気です。……氷室さん、風邪ひいたら、お昼の仕事困るでしょうから」
背伸びじゃない。カミカミでもない。
ただ、彼女を温めてあげたいという、僕の真っ直ぐな本音だった。
「……太陽君」
ラムネさんは、僕のブレザーの襟をぎゅっと両手で掴むと、自分の身体を縮めるようにして身を包んだ。
そして、顔を半分ほどブレザーに埋めたまま、さらに低い、本当に小さなモゴモゴ声で呟いた。
「……あったかい。チョコの匂いがする」
「う、うるさいです。お徳用パックですから」
「ふふ、ありがと。……ちびすけのくせに、生意気」
ブレザーに隠れて、彼女の表情はよく見えない。
だけど、耳の先まで真っ赤になっているのは、僕だけじゃなかった。
外はまだ、激しい雨の音が世界を包み込んでいる。
この雨が、もう少しだけ降り続いてくれればいいのにと、僕は生まれて初めて願ってしまっていた。
(続く)




