【第3話:お堅いお姉さんの、お堅くない残香】
カポン、チリン。
夕暮れの路地裏。いつもの通い慣れた駄菓子屋の店先に、その音が響いた。
僕はベンチの右端に腰掛けたまま、文字通り体がカチコチに強張っていた。
「……あー、今日も疲れた。おじいちゃん達の世間話に付き合ってたら脳ミソが完全に溶けたわ……」
横から聞こえてくるのは、昼間のあの高くて澄んだ美声とは正反対の、低くて少しモゴモゴとした気だるげな声。
隣にいるのは、ネイビーのジャケットをベンチに放り出し、白いブラウスのボタンをふたつ外して、ストッキングのヒールを半分脱ぎ捨てている『ラムネさん』だ。
いつもの、少しだらしなくて色っぽい、僕の知っているラムネさん。
だけど、今の僕には、彼女の胸元にあの『市民課 氷室 冴香』という名札がはっきりと見えているような気がして、どうしても直視できない。
「んー? なに、ピュア君。今日は一段と小さくなって座ってんじゃん。借りてきたチワワみたい」
「つ、つ、チワワじゃありませんっ! ……あの、ラムネさん」
「なぁに?」
ラムネさんは、真っ赤な激辛カツを齧りながら、トロンとしたタレ目で僕を覗き込んできた。
僕は唾をゴクリと飲み込み、ずっと喉に引っかかっていた言葉を、上ずった声で絞り出す。
「……今日、の昼。市役所、に……いましたよね?」
言った。言ってしまった。
ラムネさんはイカカツを口に咥えたまま、一瞬だけピクッと眉を動かした。
そして、何事もなかったかのようにラムネ瓶を傾け、喉を鳴らして飲み干す。
「さあ? なんのことかしら。人違いじゃない?」
「ち、違いますっ! 絶対にラムネさんでしたっ! 髪をこう、きっちり丸めて、眼鏡かけて、すっごく高くて綺麗な声で『日向様』って……あ! ぼ、僕の本名……っ!」
勢いで、自分の名前まで口にしてしまった。
あ、と気づいた時にはもう遅い。
すると、ラムネさんは咥えていたイカカツをゆっくりと咀嚼し、ゴクリと飲み干してから、ふっと低くクスリと笑った。
「知ってるよ、『日向 太陽』君」
「……っ!」
「書類にバッチリ書いてあったもんね。太陽君、か。……うん、いつも耳まで真っ赤にしてるピュア君に、ぴったりな名前じゃん」
お堅いスーツを着崩したラムネさんが、僕の本名を呼んだ。
その瞬間、頭のてっぺんまでボッと熱くなる。昼間の「氷室さん」の冷徹な仮面の下に、確かにこの意地悪なお姉さんがいたんだと確信して、心臓がうるさいくらいに跳ねた。
「な、なな、何でお昼はあんなに他人のフリしたんですかっ!? すっごい冷たい笑顔で、僕、本当に怖かったんだから……っ!」
「あはは、カミカミ。声高いってば」
ラムネさんはベンチの背もたれに体を預け、楽しそうに目を細める。
「だって、あそこは私の『戦場』だもん。きっちりスーツ着て、完璧な大人のフリしてなきゃ、理不尽な世の中と戦えないの。……でもさ、まさかピュア君があそこに現れるなんて思わないじゃん?」
彼女はそう言って、少しだけ悪戯っぽく唇を尖らせた。
「君があまりにも緊張してカミカミでさ。私、笑うのこらえるの必死だったんだからね? 『わかりまひた!』って、可愛すぎでしょ」
「う、うるさいですっ! 忘れてくださいそれっ!!」
顔を手で覆って悶絶する僕を見て、ラムネさんは満足そうに「んー」と声を漏らす。
そして、手元に残ったラムネの瓶を、僕のノートの上へとそっと置いた。
夕日に照らされたクリアブルーのガラス瓶。その中で、ビー玉がチリンと涼しげに転がる。
「……ま、お互いに『昼の顔』がバレちゃったわけだけど」
ラムネさんは少しだけトーンを落とした声で、モゴモゴと呟いた。
「ここ(駄菓子屋)にいる時は、今まで通りでいようよ。私は君の『ラムネさん』で、君は私の『ピュア君』。……その方が、なんか秘密基地っぽくて楽しいでしょ?」
「……っ」
ずるい、と思った。
そんな風に少しだけ寂しそうに、でも愛おしそうに笑われたら、高校生の僕なんか一撃でノックアウトだ。
「……わかり、ました。じゃあ、ここでは『ラムネさん』ですね」
「うん、よろしい。じゃあ、今日頑張った太陽君に、これあげる」
手渡されたのは、またしても真っ赤な激辛スナックの袋。
「いやだから、辛いのは無理だって言ってますっ!!」
「あはは! いいから食べなさいって!」
夕暮れの駄菓子屋。
僕たちは名前を知って、ほんの少しだけ近づいた。
だけど、ラムネ瓶の中のビー玉みたいに、綺麗で、でもどうしても手が届かない大人の彼女を、僕はもっと知りたいと思ってしまっていた。
(続く)




