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【第2話:氷の窓口と、裏返った僕の声】 「……っ、は、ひ、ふ、へ、ほ……」

学校の放課後。

 僕は自宅から少し離れた総合市役所のロビーで、自分の頬を両手でパチパチと叩いていた。

 目的は、大学の奨学金申請に必要だとかいう『世帯全員の住民票写し』を手に入れるためだ。

 けれど、今の僕の課題は書類の書き方ではない。

 口の体操だ。

「よし。落ち着け、日向太陽。今日は絶対に噛まない。大人っぽく、スマートに書類を提出するんだ……」

 そう、僕はいつもあの駄菓子屋のベンチで、お姉さん――『ラムネさん』に子供扱いされている。

 昨日だって、激辛イカフライに悶絶して、声のキーを跳ね上げながらカミカミで言い訳して、最終的には飲みかけのラムネ瓶を頬に押し当てられて顔を真っ赤にする始末だ。思い出すだけで耳の先が熱い。

 だからこそ、僕は変わりたかった。

 もうすぐ18歳。法律上は大人になるんだから、いつまでも「ちびすけ」のままじゃいられない。

「35番の札をお持ちの方、2番窓口へどうぞー」

 館内アナウンスが響き、僕は手元の番号札を見た。『35』。

「よしっ」と小さく気合を入れ、制服のブレザーの襟元をきっちり直してから、2番窓口へと歩み寄る。

 スマートに、大人の男らしく、受付の人に挨拶を――。

「お待たせいたしました」

 ――瞬間、僕の思考は完全に消し飛んだ。

 窓口の向こう側に座っていたのは、ひとりの女性職員だった。

 埃ひとつないネイビーのスーツを隙なく着こなし、白いブラウスのボタンは上まできっちりと留められている。艶やかな黒髪は、ミリ単位の乱れもなく後ろで綺麗なシニヨン(お団子)にまとめられ、知的でシャープなフチなし眼鏡をかけていた。

 絵に描いたような、お堅くて、冷徹で、そして、恐ろしいほどに美しいエリート公務員。

(……え? あ、あれ……?)

 僕は、差し出そうとしたクリアファイルを握りしめたまま、完全にフリーズした。

 眼鏡の奥にある、綺麗に整った切れ長の目。

 凛とした鼻筋。

 薄いピンク色のリップが塗られた、形の良い唇。

 間違えるはずがない。

 髪型も、服装も、纏っている雰囲気も180度違うけれど、その顔立ちは間違いなく、昨日僕の目の前でストッキングの足をぷらぷらさせながら瓶ラムネをラッパ飲みしていた『ラムネさん』だった。

「……日向様、でしょうか? 本日は住民票の写しのご請求ですね。申請書を拝見いたします」

 女性職員――ラムネさんが、鈴を転がすような、高くて澄んだ『完璧なビジネスボイス』で僕に微笑みかけてくる。

 隙のない、美しくもどこか冷たい、完璧な大人の笑顔ビジネススマイル

 そこには、あの駄菓子屋でのモゴモゴとした低い声も、僕をからかうような意地悪な視線も、1ミリだって存在していなかった。

「あ、は、はいっ! わかりまひた!……あ、わかりましたっ!!」

 ダメだった。

 口の体操なんて何の意味もなかった。

 あまりの衝撃と、目の前の「綺麗な大人のお姉さん」の迫力に圧倒され、僕の声のキーは昨日以上に跳ね上がり、おまけに見事なカミカミを披露してしまった。

 恥ずかしさで、一気に顔が血の引くように熱くなる。

(終わった……。こんなお堅い職場で、変な高校生だと思われたに違いない……!)

 僕が絶望しながらうつむき、震える手でクリアファイルを差し出した、その時。

 書類を受け取る彼女の指先が、ほんの少しだけ、僕の指に触れた。

 仕事用の冷たい指先。

 だけど、彼女は書類に目を落としながら、僕にしか見えない絶妙な角度で――眼鏡の奥の瞳を、ふっと細めたのだ。

 それは、昨日激辛イカフライを僕の鼻先に突きつけてきた時と、全く同じ『悪戯っぽいラムネさん』の目だった。

「――ご丁寧にありがとうございます、日向様。……緊張なさらなくて、じゅ、じゅうぶん大丈夫ですよ?」

 彼女は、あえて僕のさっきの噛み方をなぞるように、一瞬だけ言葉を詰まらせて微笑んだ。

 そして、流れるような手つきで書類に受付印を押す。その親指の先には、昨日書類をたくさん扱ったのだろう、うっすらと朱肉の赤が残っていた。

「(……っ! バレてる……! 僕がピュア君だって、完全に気づいてる……っ!?)」

 心臓が、さっきまでの恐怖とは全く違う理由で、トランス状態みたいに激しくドクドクと脈打ち始める。

 彼女の胸元には、光り輝く市役所のバッジ。そしてアクリル製の名札。

 そこには、僕の知らない彼女の『昼の顔(本名)』が刻まれていた。

 ――『市民課 氷室 冴香』。

「では、書類を発行いたしますので、あちらの待合席でお待ちくださいね」

 完璧な一礼。

 僕はロボットみたいなぎこちない動きで頭を下げ、逃げるように待合席へと歩いた。

 氷室、冴香、さん。

 それが、ラムネさんの本当の名前。

 冷たくて、綺麗で、絶対に僕みたいな高校生じゃ手の届かない、完璧な社会人の名前。

 座席に腰掛けた僕は、カバンの中から、学校の購買で買っておいたお徳用のチョコレートチョコレートバーを取り出した。

 ぎゅっと握りしめると、手のひらの熱のせいで、銀紙の向こうのチョコが少しだけ柔らかく溶けていくのが分かった。

(……今日の夕方、あの駄菓子屋に、どんな顔して行けばいいんだよ……っ!)

 夕暮れ時の秘密基地が、急に待ち遠しくて、そして死ぬほど恐ろしくなっていた。

(続く)

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