【第1話:夕暮れの赤い洗礼】
カポン、と、夕暮れの路地裏に涼やかな音が響いた。
続いて、チリン、とガラスの擦れ合う繊細な余韻。
「ふぅー……。生き返る。やっぱりこれがないと脳ミソ溶けるわ」
住宅街の片隅に、ひっそりと佇む古い駄菓子屋。
店先に置かれた、年季の入った赤いスチールベンチの左側で、その女性――『ラムネさん』は、手にした瓶ラムネを美味そうに喉へと流し込んでいた。
彼女は、どう見てもこのレトロな空間には不釣り合いな、お堅いデザインのスーツを着ている。けれど、ジャケットはベンチに放り出され、白いブラウスのボタンはふたつも外され、きっちり結ばれていたはずの黒髪はバサリと肩に解き下ろされていた。
ストッキングに包まれた足はヒールを半分脱ぎかけ、ベンチの下で爪先をぷらぷらと揺らしている。
その解放感とだらしなさが、夕暮れのオレンジ色の光の中で、どこか眩しいくらいの色気を放っていた。
「……あの、ラムネさん。それ、いくらなんでも赤すぎません……?」
ベンチの右端で、背筋をピンと伸ばして座る太陽は、上ずりそうになる声を必死に抑えながら尋ねた。
彼女のブラウスの隙間から覗く白い肌が、どうしても視界の端に入ってしまってドギマギしてしまう。緊張のせいか、いつもより声のキーが高くなってしまうのが自分でも情けない。
「んー?」
ラムネさんは少し眠たげなタレ目をこちらに向けると、昼間の澄んだ美声とは180度違う、低めの、少しモゴモゴとした気だるげな声で笑った。
彼女のもう片方の手にあるのは、どす黒いほどに真っ赤な粉がこれでもかとまぶされた、駄菓子の激辛イカフライだ。
「何言ってんの、ピュア君。この刺激が最高なんじゃん。ほら、君もそんな甘ったるいチョコばっかり齧ってないで、一口食べなよ。ほら」
すぐ鼻先に突き出される、強烈にスパイシーな匂い。
からかうように細められた瞳が、至近距離で太陽を覗き込んでくる。
「い、いやっ! 結構ですっ! 僕、辛いのは、その、じゅ、十分……じゃなくて、本当に無理ですから!」
「あはは、またカミカミじゃん。何そんなに焦ってんのさ。男の子のくせに、これくらいでビビってたら、いつまで経っても『ちびすけ』のままだよ?」
「子供扱いしないでくださいっ! び、ビビってません……っ!」
17歳の、安いプライドを容赦なくくすぐられる。
太陽は頭に血が上るのを感じながら、やけくそになってその激辛イカフライを奪い取り、口へと放り込んだ。
「あ」と、ラムネさんが小さく声をあげる。
刹那。
太陽の脳内を、突き抜けるような激痛と辛味が爆発した。
「ひ、ひぃぃっ……!!?(涙目)」
「あはははは! 期待通りのリアクション! ね? 一気に目が覚めたでしょ?」
お腹を抱えて低く笑うラムネさん。
だが、本当に涙目になって激しく咽せる太陽を見て、彼女は「冗談冗談、ごめんって」と、まだ冷たい自分の瓶ラムネを彼の頬にピタッと押し当てた。
ひやり、と冷たい温度が肌を刺す。
「ほら、これ飲みな。私の飲みかけだけど、背に腹は代えられないでしょ?」
「(ひっ……! 頬の冷たさと、ま、間接キス……っ!?)」
口の中の激痛と、脳内の大パニック。
太陽の顔は、激辛のせいだけではなく、一瞬で耳の先まで真っ赤に染まった。
しどろもどろになりながら、彼が手元に持っていた甘いチョコレートバーを強く握りしめる。
お互いの本名も、昼間の顔も、まだ何も知らない、夕暮れ時の駄菓子屋にて。
年の差10歳の、秘密の境界線がゆっくりと、甘く溶け始めていた。
(続く)




