エピソード5:恋はイリュージョン④
ユカ達3人が公園を後にする背中を見送った統治は、静かに、櫻子の隣に腰を下ろした。
時刻は間もなく17時20分。夏の日は長く、まだ周囲は明るいけれど……空を見ると、徐々に藍色が混ざり始めているのが分かる。
統治はミネラルウォーターのキャップをしめた後、それを自分の脇に置いた。そして、キャップを締められずにまごついている櫻子へ手を出してみせる。
「溢れる前にかしてくれ。俺がやる」
「本当にすいません……」
観念した櫻子が統治にペットボトルを渡すと、統治は簡単にキャップをしめて……ミネラルウォーターの脇に置いた。そして、俯いてしまった彼女の横顔を見つめ、口を開く。
「隠さずに教えて欲しい。君が楽なのは……座っているのと横になるの、どちらだろうか」
「え……?」
「その体はもう限界を越えているはずだ。自覚はないかもしれないが、君の体にはそれだけの負荷がかかっていた。その原因は排除したが、残った体の疲労は……休息で取り戻すしかないんだ」
「そ、そうなんですね……」
体のあちこちが覚えのない疲労困憊で悲鳴を上げている櫻子は、統治の言葉に少し考え込んで……。
「……このまま座っている方がいいかもしれません。布団もない場所で横になると、違うところが痛くなりそうですので……」
「分かった。1人で座っているのが辛くなったら、俺に寄りかかってくれて構わない。あと……申し訳ないが、17時45分頃になったらタクシーで『仙台支局』へ移動する。その後、俺はもう一度外に出ることになるから、何かあれば山本を頼ってくれ」
「分かりました。何から何まで……ありがとうございます」
こう言って統治に向けて軽く頭を下げた櫻子は、そのまま彼を見つめ……意を決して問いかけた。
「私の体に……一体、何があったのでしょうか。差し支えなければ教えていただけますか?」
櫻子の問いかけに、統治はしばし考えた後……彼女にも分かるような言葉で、自分が相対した事実を告げた。
「簡単に言うと、君は『痕』に――幽霊に取り憑かれていたんだ」
「幽霊に……ですか? これだけ人がいるのに、どうして私が……」
「理由はいくつか考えられる。女性の幽霊だったこともあるだろうし、俺や佐藤のことを知っていたから、直前に透名さんが佐藤と一緒にいたことで目をつけられたのかもしれない。それに、何よりも……」
統治は節子が櫻子を選んだ理由について、何となく、予測していることがあった。
そしてこれはきっと、これから本気で対応を考えなければならないことになるだろう。
『縁故』能力を持たない彼女を、これから、しっかり守っていくために。
「何よりも……俺や心愛と一緒にいる時間が、長くなったからだと考えられる」
「え……?」
「俺たち名杙直系は、あらゆるものに干渉する特性を持っている。普段の生活では何も不都合はないはずだが、その……霊的、と言えば分かりやすいだろうか。とにかく、普段は眠っている人間の素質に干渉して、引き出してしまうことがあるんだ」
かつて、統治が政宗に対して無意識に干渉した結果……彼はオーバーヒートして倒れてしまった。
そして、心愛が彼女と同じ学校の阿部倫子に同じことをしてしまった結果、彼女の持つ『縁由』という素質が更に引き出されてしまい、学校に不要な『痕』『遺痕』を招き入れる結果になってしまった。
これは、名杙直系である里穂も悩み、考えた問題。
自分たちと『違う』人間と深く関わることで、誰しもがぶつかる壁なのだと思っている。
「恐らく……透名さんは俺達との接点が多くなったことで、今まで眠っていた素質が引き出されてしまい、霊的なほころびが出来てしまったのではないかと考えられる。勿論、これで『縁故』能力が開花することはないと思うが……もしかしたらしばらくの間、軽微な体の不調が続くかもしれない」
統治は10年前、専用の修練を積んで、この影響力を限りなくゼロに近づけている。心愛も今、同じ修練を積んでいるが……それらは決して、完璧ではない。
そしてまた、統治自身も……8月に入ってからは色々なことが立て続けに起こり、無意識のうちに集中力が切れていたことがあってもおかしくない。
それらの要素がジワジワと、確実に積み重なっていき……櫻子に、ちょっとした『隙』が生まれてしまったのであれば。
「都合のいいこの器を見つけた時は、運命だとおもったわ」
「あと……櫻子さん、最初からターゲットにされとった可能性もあるし、ちょっと様子見たほうがいいかも」
先程の節子の言葉と、ユカの推測。この2つを結びつけて、今までの経験と照らし合わせたら……自ずと、この結論に達していた。
櫻子には『絶縁体』をもたせていなかったこともあり、節子にとって格好の器になってしまったのだろう。
統治の話を聞いた櫻子は、実感がないまま……自分の両手を見つめた。
今は指先にまで疲労が蓄積されていて、力を入れようとしても上手くいかない。ペットボトルのキャップすら、指先から取り落としてしまいそうになるけれど。
これも全て……自分が、取り憑かれていたから。
いきなりそんなことを言われて、「そうなんですね」と納得出来るほど……今の櫻子は、物分りがよくなれなかった。
「……すいません、おっしゃっていることがとても壮大なお話で、その、まるで小説みたいなんですけど……でも、名杙さんが私に嘘をつく理由はないですし、皆さんのお仕事を考えると、そういったことがあってもおかしくないですね」
「急にこんなことを言い出して申し訳ない。念のために今後持ち歩いて欲しいものがあるから、後で渡しても構わないだろうか」
「分かりました」
こう言って頷いてくれた櫻子は、いつも通り――統治がよく知っている、落ち着いて聡明な女性に見えた。
不意に先程、節子と『重縁』状態だった時の彼女の顔が、フラッシュバックする。
眦を吊り上げて目を見開き、勢いだけを旗頭に相手を恨んでいた彼女の顔だ。
自分は、彼女を――危険に晒した。
不可抗力が重なったとはいえ……櫻子に、この中で最も非力な彼女に、とても大きな負担をかけてしまった。
名杙直系と言われる中、色々な経験をして、真っ直ぐに歩いてきたつもりだった。
それが、今年の春には身内に足元をすくわれ、解決したかと思えば妹と仲違いして、絆を強くしたかと思えば……大切な仲間が命の危機にさらされ、親友がボロボロになるまで1人で戦っていた。
自分は一体、何が出来ただろう。
助けられてばかり、間に合わないことばかり。
そんなことで、名杙という大きな家を背負い、上に立つことなど出来るのだろうか。
目指していたはずの『名杙統治』が、揺らぐ。
経験値は全て幻想、実際はあの時から――あの合宿に参加した時から、何も変わっていないのではないか?
そう思ったら――寒気がした。
もしも今後、彼女をより大きな危険に晒してしまったら――自分は、どうすればいいのだろう。
「名杙さん……?」
統治が俯いていることに気がついた櫻子が、どこか心配そうに声をかける。
「名杙さんもお疲れですよね。私はもう大丈夫ですから、今から支局に移動して休んだほうが――」
「――俺は、どうすればいいと思う?」
「え……?」
統治からの、とても、漠然とした問いかけ。櫻子は思わず息をのんで、彼の横顔を見つめる。
いつも穏やかで、一定のラインから曇ることのない横顔は……今までに櫻子が見たことないほど、分かりやすく迷いを帯びていた。
統治が誰かに意見を求めるのはとても珍しい。櫻子自身も初めてのことだ。ここで見当違いなアドバイスをしたくないし、彼が弱音を吐き出してくれたのであれば……寄り添いたいと思う。
櫻子は口元を引き締めると、半分眠りそうになっていた頭を起こし、気持ちを切り替えた。そして、ベンチの上で背筋を正すと……その横顔に問いかける。
「どうすれば……とは、お仕事に関することですか? お家のことでしょうか、それとも……全部ですか?」
櫻子の問いかけに、統治は地面を見下ろしながら……一度、長く息を吐いた。そして、苦い顔で頭を振る。
自分の中の問題を櫻子に尋ねたところで、彼女にいらぬ不安を与え、迷惑をかけるだけだ。
そう思ったら、先程の発言が……急に、情けなくなってしまった。
「……急に変なことを言い出してすまない。これは、俺が1人で考えなければならない問題で――」
「――そんなもの、どこにもありません」
話を終わらせようとした統治を、櫻子の凛とした声が遮った。
「透名さん……?」
統治が驚いて軽く目を見開くと、視線の先に居た彼女は統治を真っ直ぐに見据え、とても優しい声で同じ言葉を繰り返す。
「1人で考えなければならない問題なんか……どこにもないんですよ、名杙さん」
「透名さん、何を……」
「名杙さんのご事情は間違いなく、私が考えるよりもずっと……ずっと難しくて、きっと、普通の世界しか知らない私には察するに余りあるような、計り知れないほどのプレッシャーがあるのだと思います。それを私が理解することは……出来ないかもしれません。でも、それでも、お話を聞いて、一緒に考えることは出来るかもしれない。名杙当主の狙いと私の役割は、そこにあると思っているんです」
「……」
櫻子の言葉を受けた統治の心に、先程よりもはっきりと迷いが生じた。
これまでの統治は……あまり迷わずに生きてきた。否、迷いなど生じてはいけないと思っていた。
自分はいずれ必ず、多くの人の上に立つ。その時に大きな決断をいくつもしなければならないのに、現時点で迷いばかり生じていては、先が思いやられるから。
5月、心愛との関係がこじれた時は、政宗に話を聞いてもらったけれど……でも、あくまでもそれだけ。自分の生き方や立ち位置、将来など、『名杙統治』に関する相談は、政宗にもしたことがあるかどうか、しっかり覚えていない。
それに……心の奥にいる本当の自分は、こんなに自信が持てないなんて、知られたくなかったから。
いつもイヤホンで音楽を聞いて、外の音を遮断する。
余計な情報を入れて、自分が迷わないように。
自分の世界に入り込んで――出した結論に自信を持つために。
口を閉ざしてしまった統治を、櫻子は更に強い眼差しで見据えた。そして……一度躊躇った後、意を決して口を開く。
「見くびらないでください。私は――貴方とお見合いをすると決めた日に、全てを『知る』覚悟をしました。今の私では、人としても……女性としても、まだまだ未熟だということは承知しています。それでも……それでも私は、少しだけでも寄り添いたい。だから、耳を傾けてはいけませんか?」
こう言い切った櫻子の両手は、彼女の膝の上で小刻みに震えていて。
彼女の『覚悟』を目の当たりにした統治は、その強さに圧倒されて……父親の『先見の明』に、白旗を上げるしかない。
統治が言葉を見失うほど、芯が強い一般女性なんて……探そうと思って出会えるものではないのだから。
「お兄様は1人で考え過ぎなのよね。この家にお嫁にきてくれるかどうかは、透名さんが自分で決めるべきだから、彼女が決めたことを応援してあげればいいんじゃない?」
先日妹から指摘されたことは……的確だったのだと認めるしかない。
「私はこれからも、佐藤さんとユカちゃんを応援したい。あの2人が幸せになれるお手伝いが出来るなら、協力したいんです。これは……駄目なことでしょうか」
あの時と同じ感想が胸に去来して……統治は思わず、苦笑いでため息をついた。
最近の自分は、彼女に異を唱えられないことばかりなのだから。
「……君は時に、とても卑怯な聞き方をするな」
この言葉を批判だと受け取った櫻子は、ビクリと両肩を震わせた後、統治から静かに視線をそらす。
「そ、そうですか……? お気に触ったのであれば申し訳ありません……」
「いや、俺の言い方が悪かった。相手の話や結論を引き出すのがとても上手いと感じたんだ。これは仕事で慣れているせいもあるかもしれないが……やはり、君の才能だと思う」
「ありがとう……ございます」
唐突に褒められた櫻子は、萎縮しながらも軽く頭を下げた。統治はそんな彼女を見つめつつ……手元のスマートフォンで時間を確認する。
時刻は間もなく、17時35分になろうとしていた。これだけの人の多さと、櫻子の負担を考えると、そろそろ動き出した方が良い頃合いだ。
彼女にこれ以上無理はさせられないし、統治自身も、18時からは政宗と合流して夜の見回りなのだから。
「……そろそろ時間だ。公園の外にタクシーを呼んである。歩けるか?」
「あ……」
櫻子もまた、自分が了承したリミットになってしまったことに気付き、どこか残念そうな声をもらした。
統治は先に二人分のペットボトルを持って立ち上がると……あいている手を彼女に向けてそっと差し出した。
「名杙さん……?」
「近いうちに……改めて、俺の話を聞く時間を作ってくれないだろうか。それまでに、自分の中で整理をしておこうと思う」
「わ、分かりました。あの……それは分かったんですけど、えっと……」
そう言ってオズオズとその手を見やる櫻子の反応に、統治は自分の行動の軽率さを少しだけ後悔していた。
過去に一度、心愛にやろうとして……不機嫌にさせてしまったことも、思い出してしまったから。
「今日は人が多い。透名さんも本調子ではないし、はぐれないようにしようと思ったんだが……やはり、子ども扱いに感じるだろうか」
「……いいえ、そんなことありません。助かります」
櫻子は笑顔でコクリと頷くと、彼の手を取って立ち上がった。そして、いつもよりゆっくりとした速度で移動しながら……隣を歩く統治を見上げる。
少しは……彼に近づけただろうか。
前だけを見ている今は分からないけれど……でも、少しは彼の気を紛らわせることが出来た。自分がここにいた意味はある、そう思いたい。
櫻子が足元を確かめながら歩いていると……公園の入口付近に、短冊を書いて笹飾りに吊るすコーナーが設けられていることに気がついた。
長机とカラーペン、多数の短冊が用意されており、皆が銘々の願い事を書き込んで……笹につるしていく。
多くの人の願いを受け取った笹は、夕暮れ時の風になびいて……サラサラと涼し気な音と共に揺れていた。
「名杙さん、名杙さん」
「どうかしたのか?」
立ち止まって手を引っ張る櫻子に気付いた統治もまた足を止める。櫻子はそんな彼に、視線で目的地を促した。
「あの……1枚だけ、願い事を書いていきたいんです。すぐに終わりますから……駄目でしょうか」
「それは構わないが……」
「ありがとうございます。名杙さんもご一緒にいかがですか?」
「俺も?」
「はい。いつも頑張ってる名杙さんの願い事は、きっと、神様も優先して叶えてくださると思いますよ」
こう言って楽しそうに笑う彼女に、統治も結局……珍しく、流されてしまって。
2人は『同じ願い事』を記載した短冊を、笹の枝葉にくくりつけた。
……統治が告白しなかった。(白目)




