改札口の向こう側で
「瑞希さん!」
歩いてそのままマルベリーブリッジを通り過ぎようとした私の腕を掴んだのは、栄一君だった。
いきなり腕を掴まれて驚いた私は、足を止める。
何事かと思って、そのまま栄一君を見上げる。彼は足を止めると、私を見下ろしてほんの少し目を細めた。
「――ごめん。急に呼び止めて。あの、少し時間ある?」
栄一君はまだ実家に住んでいるという。
私もまだ、引っ越しはしていなかった。もう終バスも終わってしまって歩いて帰るという私に、少し話したいから送らせてくれないかと、栄一君が言った。
そうして帰るのもまた、5年ぶりでひどく懐かしくて、胸が締め付けられた。
あの時とは違うスーツ姿の栄一君に、もう、君付けで呼ぶのもおかしいかもしれないと、ふと笑ってしまう。
「変わらないね、瑞希さん」
「栄一君は、変わったね」
並んで歩いているから、栄一君がどんな顔をしているのかわからなかった。
5年という歳月は、一人の少年から青年に変わるほどの長い年月なんだと目の当たりにした。目の前の栄一君は、高校生の時のような屈託のなさは消え、まだ若いながらもあの頃よりもずっと大人びた顔をして笑うようになっていた。
「俺、今年の4月で就職したんだ。今日は、歓迎会。すごい飲まされた」
あれから5年。
あんなに遠かった未来は、過ぎてしまえばあっという間だった。
私たちがつき合っていたのは、たった数か月でしかない。
離れていた時の方がよっぽど長くて、忘れてしまっても仕方ないくらいなのに。
「偶然。私も職場の新入社員歓迎会だったの」
二人で並んで歩く夜道は、5年前と何も変わらない。大通りを歩いていく。もう1時だというのに、まばらに走っていく車のテイルランプが、栄一君の横顔をくっきりと浮かび上がらせる。
「そうなんだ。書店やめたって聞いたけど」
「うん。今はデザイン事務所で働いてるの。私は雑用係なんだけど」
俯きながら歩いているから、履いているピンクベージュのパンプスのつま先が見える。あの頃は、スニーカーとか、とにかく智を追いかけるのに楽な靴ばかり履いていたなと思い出す。思い出して、つい笑ってしまうと、妙に胸が痛かった。
栄一君が変わったように、私もオフィスカジュアルのコンサバ系の服を着ている。書店で働いていたときは、とにかく動きやすい服装だった。こんなきちんとしたOL風の服は着ていなかったと、振り返る。
あの頃とは、二人ともやっぱり違うんだ。
「栄一君は、どんな会社に入ったの?」
そう言って顔を上げると、栄一君は一つ一つを思い出すようにじっと考えながら、時折目尻を緩ませる。
「あの頃、俺、夢をあきらめてもいいから、瑞希さんを幸せにしたいってそればっかり考えていたんだ。
今思うと、ほんとガキだよな。呆れられても仕方ないっつうか……」
懐かしさをこらえきれなくなったように、くしゃっと前髪を掴んで笑う。
「俺ね、今、航空機メーカーに就職したんだ。小型のジェット機を開発している会社。
あの頃叶えたかった夢を、ようやく叶えたんだ」
栄一君の言葉に驚いたような、少しほっとしたような、いろんな感情がないまぜになって胸の中で蘇る。
「――よかったね。あの頃、叶うといいなって言ってたものね」
あの頃はコンビニの帰り道に、いろんなことを話して帰った。満天の星空の下で語った彼の夢は、今でも鮮やかに思い出すことができる。
子どもじみた夢だったけどね、そんなふうに言って笑う彼に、そんなことはないと、私は首を横に振る。
「今でもどっちが良かったのか、わからないんだ」
ぽつりと栄一君が呟いた。何がどっちなのかわからずに、私は問いかけるように彼の顔を見る。
彼は足を止めて、まっすぐに私を見た。
まぶたが少し痙攣しているのは飲み過ぎたせいなのだろうか。その真剣なまなざしに、こらえきれずに目をそらしてしまった。
「――あの頃、瑞希さんと別れてから親とも反発して、俺結構荒んでたんだ。
で、もう先のことなんてどうでもいい、今こんなに辛いのに、夢が何になるんだって悪態ついてた。
その時さ、リサに言われたんだよね。
自分を見返すつもりなら、夢を叶えてみろって瑞希さんが言ってたって。
それで、俺、ふざけんなって。あんたになんて振り回されないって、なおさら荒んでさ。
それからしばらくして、伊藤さんとかあの人の話を聞いて、瑞希さんが俺とどうして別れたのかやっとわかった。
それからは猛勉強。瑞希さんを見返してやるって――いや、瑞希さんの気持ちに答えたいって辛い時を乗り越えられた。
それで今、こうして夢を叶えている――その礼を、あなたにしたかったんだ」
まっすぐな栄一君の言葉が、胸に響いた。
あの時、私が手放した未来は、彼の中で着実に育てることができた。それが嬉しかった。ただただ、嬉しかった。
気がついたら、目の前がぼやけていた。
あの時もこうやって、泣いた。視界がぼやけて、息苦しくなるほど前が見えない、そんなふうにあの時は泣いた。
今はあの時とは違う。ぼやけた視界は温かく、私のしたことにほんの少しでも意味があったことが嬉しかった。
泣きながら、首を横に振る。
「夢を叶えられたのは、栄一君が頑張ったからだよ……」
途切れ途切れに返す私に、栄一君は軽く頷く。
「あの時、瑞希さんと付き合っていたら確かに、俺、楽な方に流れていたかもしれない。
だから、あの時はあれでよかったんだって、自分に言い聞かせてた。
別れた事にも意味があるんだって。
だけど、そうじゃない未来のこともずっと心のどこかにあって、俺は前に進めないままだったんだ」
栄一君の言葉に、顔を上げる。
「――うそ」
私たち、同じことを考えていた? 5年間。
帰れない過去のことばかり振り返って、その場所に捕らわれて、一歩も進めずにがんじがらめになっていた。
ああすればよかった、こうすればよかったって、思い出ばかり数えて。
「嘘じゃない。
俺はあれからずっと、瑞希さんのことばかり考えて過ごしていた。
他の誰と付き合っても、瑞希さんと引き比べては、瑞希さんはこうだった、瑞希さんならこうした。
そんなことばかり考えて、誰とも上手くなんていかなかった」
お互いの視線が、ぶつかる。見つめ合った栄一君の顔は、涙ではっきりと見えなかった。
「だって、さっき、彼女が……」
「彼女?」
「そう。一緒にいた、あの人は彼女じゃないの?」
優しそうに彼女に向かってほほ笑んでいたじゃないか。あんな笑顔、誰にでも向けるの?
「ああ! 違う、違う。あの人は、同じ職場の先輩。
たまたま同じ方向だっていうんで、一緒に帰ってきたんだ。
あの人は、タクシー乗り場で別れてきたよ。
それで慌てて、瑞希さんを追いかけたんだ。
5年間、一度も会えなかったのに、今日、あなたに出会った。
それはやっぱり、意味のあることだと、俺には思えたんだ」
気がついたら、駆けだしていたと彼が言う。今を逃したらもう二度と会えない、そう思ったら体が動いていたと、続けた。
「俺はずっと、あなたが好きだ。
今でもずっと、瑞希さんが――好きだ」
それまで緊張していた栄一君の顔が、ほっと緩んだように眉尻が下がる。その穏やかな顔のまま、栄一君の左手が私の腕を掴んだ。
そのまま引き寄せるように、こらえきれなくなったように両腕を延ばして、私を包み込む。
されるがままに抱きしめられて、彼の腕の中で身動きもできないまま、それでも嬉しかった。
「ごめん。
嫌だったら突き飛ばしてもいい。
俺はずっと、あなたをこうして抱きしめたかった。
もう一度会えたら、絶対離さないって、それだけを思っていたんだ。
だから、少し、こうさせて――」
抱きしめる腕に力が込められる。
自分でも気がつかないうちに、ぎゅっと彼を抱きしめ返していた。その背中をぎゅっと掴んで、腕の中で泣いた。
「他につき合っている奴がいる?
誰か、好きな人でも職場にいたりする?」
そう聞かれて、首を横に振る。
「――よかった」
心底ほっとしたようなため息と一緒に、彼の安堵した声が聞こえてきた。
彼の腕の中は、5年前とは違うまるで知らない男に人のようだった。スーツの固い生地の感触が、頬にあたって少し痛いけれど、それが妙に心地よかった。
「私も、私もずっと栄一君のこと忘れられなかった――」
声が震えて、うまくいえたかどうかも分からなかったけれど、彼は一瞬私の体を離して私の顔を覗き込むと、とても嬉しそうに再びほほ笑んだ。
※ ※ ※ ※ ※
「瑞希さん!」
呼び止められて、辺りを見回す。改札口を抜けた辺りには、待ち合わせの人がたくさんいて、どこから声がしているのか、全くわからない。
いつもの帰り道。電車は緩やかにホームに入り、たくさんの足音とともに電車から降りる。人の波に乗るように歩いていき、改札口に向かう、変わらない毎日。
だけど、改札口の向こうでは彼が手を振っている。
私はその姿を見つけて、微笑んで片手を振りかえす。
「栄一君! 今日は帰り早いね」
もう、誰に遠慮をすることもない、私たちの恋。
5年前には想像もできなかった、二人の未来は、今はこうして当たり前の日常になりつつある。
「ああ。だから帰りを待ってたんだ。今日は智は、家で待ってるの?」
「うん。もうきっと帰ったら、お腹へったーって、うるさいよ」
帰った時の智の姿を思い浮かべて、思わず笑って持っていた買い物袋を掲げると、彼がそれを受けとる。
「帰ろうか」
優しく微笑みながら言う栄一君の言葉に、私も自然とほほ笑み返す。
改札口の向こう側で、私たちは手を繋いで歩き出す。
私たちの未来は、きっと、ずっと続いていく――。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。




