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改札口の向こう側  作者: maruisu
第二章
41/42

再会――5年後

「っていうのが、5年前の話――」

 

 新しい職場に移って、しばらくがむしゃらに働いていた私は、契約社員からとうとう正社員になることができた。

 正社員になって、新しく配属されたのはそれまで事務一辺倒だった部署から、デザイン部の手伝いもする通称なんでも係だった。

 少数精鋭で、なんてごまかされて社員はめいっぱい働かされている。それでも愚痴を言いながらも職場の雰囲気がいいのは、やはりみんな仕事が好きなんだろう。

 新社員の歓迎会――私に初めての後輩が出来た新入社員歓迎会の二次会で、なぜか恋愛話になってみんなで暴露大会になった。


 誰だ、一番初めに、どうして皆さん結婚されてないんですか? なんて先輩たちに恐ろしい話を振ったのは。


 みんなそれぞれ過去の恋愛話を面白おかしく話して盛り上がっていたいたところに、こちらに水を向けられて一通り話す羽目になった。

 そうか、あれから5年も経つんだとしみじみと懐かしい。


「ええ!? 南里さんは鈴木さんとなかなか結婚されないから、どうして? ってみんな言ってたのよ。

 鈴木さんが相手じゃなかったのねぇ。

 あの気難し屋の鈴木さんが、南里さんだけにはいたわりっぽいのを見せるから、てっきり――」

 職場で一番の年長、独身40歳の水上さんに言われて、乾いた笑いを返す。


 職場は違えど、鈴木さんはよくこちらに顔を出すので、どうやらみんなにバレバレだったらしい。

 今の職場はデザイン事務所で、私は事務を任されている。鈴木さんは文芸誌の担当になって、このデザイン事務所に装丁を依頼している関係でちょくちょく顔を出す。

 この職場を紹介してくれたのは鈴木さんだということは初めからみんな知っていた。


「私と鈴木さんは、そういう仲じゃありませんから」

 笑いながら片手を振ると、水上さんは「あらあ?」と間延びした声を出す。

 そう言う水上さんは、鈴木さんのことが気になっているのを知っている。


「本当に?」

「本当ですよ。というか、鈴木さん、別れた奥様とよりを戻されたんですよ」


 そう言うと、みんなが「え!?」と言って、一斉にこちらを見た。

 あれ? みんな知らなかった?? っていうか、バラしちゃってまずかったかな?

 一瞬焦ったけれど、まあ鈴木さん幸せだから許してくれるかな? なんて心の中で舌を出す。


 私と鈴木さんは、一時期つき合ったようなそうでないようなあいまいな期間を経て、結局上手くいかなかった。

 それというのも、鈴木さんの元にある日奥さんから連絡があった。奥さんが千冬ちゃんを置いて出て行ってしまったことを後悔していること、やはり鈴木さんとよりを戻したいという強い希望があったそうだ。それで千冬ちゃんに会いたいという奥さんの希望を叶え、三人で会うことになったのがきっかけで、二人は復縁した。


 鈴木さんは初めは私に気を使って、奥さんとよりを戻す気はなかったと説明してくれていた。

 私たちは4人で出かけたり、親子らしいことを繰り返していたから。それでもやはりお母さんがいいという千冬ちゃんの希望と、彼自身が奥さんのことを嫌いになって別れたというわけではなかったので、会う回数を重ねるうちに昔の気持ちを思い出しているのは、傍から見ても十分わかるものだった。

 だったら私の出る幕はない。


 そうこうしているうちに、私たちは会う回数は減っていき、どちらともなく終わりの雰囲気を感じていた。

 私も、栄一君といるときのような気持ちを持っていたわけではなかったので、それも仕方ないと割り切るのは簡単だった。


 そして私は、一年後書店もコンビニも辞めた。

 ちょうど栄一君が高校を卒業した年だった。彼が大学に受かったのは、風の便りに聞いていた。伊藤ちゃんの友達の弟が彼と同じ学校だったらしい。世間は狭い。


 鈴木さんとは友人としての付き合いは続いていて、ある日デザイン事務所の事務職をやらないかと声を掛けられた。

 ずっとアルバイトで過ごすのももう無理がある。きちんと就職しないか、と言われ、決心したのだった。


 幸い先方も急に前任者が妊娠してしまい、急きょ人を探していた時だったから、お互い渡りに船だった。トントンと話は進み、面接をしたらその場で採用してもらえた。

 シングルマザーということも理解があり、高卒だった私を初めは契約社員として雇い、一人前になったら正社員として雇用すると約束してくれた。

 実際に働いて鈴木さんに言われた通りとても働きやすい職場だったし、経済的に安定したのはありがたかった。


 契約社員として働き始めた時から、正社員と待遇はほとんど変わらず、厚生年金に入ることもできたし、社会保険も入れてもらえた。

 経済的にはグッと安定したから、もうバイトをする必要もなかった。

 一応契約社員だったので時給換算だったけれど、かなり破格だったんだと思う。智との時間も確保できるようになった。

 そして去年、正社員になれて、今年の4月から私にも後輩が出来た。


 智はといえば、今小学3年生になって、すっかり生意気になっている。サッカーに夢中になって、毎日サッカーボールを追いかけている。将来の夢はサッカー選手だそうだ。

 まだまだ子どもらしくて、かわいらしい奴め。なんて思っていると、「俺のことは心配しないで、ママも好きなことしなよ」なんて少し大人びたことを言うようになった。

 最近は、ママ呼びが嫌みたいで、お母さん、母さん、母ちゃん、瑞希、などと人のことを呼ぶ。でも、気を抜くとついママと出ちゃうところがやっぱりまだまだ子どもらしく可愛い。


 今日も「おばあちゃんの家で留守番しているから、かあちゃん、たまには会社の人と親睦を深めてくれば?」なんて言って、送り出してくれた。っと、智のことを思い出して、ふと時計を見た。

 もう12時を回っている。

 マズイ、そろそろ帰らなきゃ。

 帰ることを切りだすと、口々に「まだいいじゃない」と引き留められる。


「もっと、南里さんの恋愛話聞きたーい!」

 と、同僚たちに言われ、困ってしまう。

「もう話すことはないですよ。人の恋愛話をつまみにしないで下さいよ。智が待ってるから、帰ります」

 笑って答えると、水上さんをはじめ、一緒に呑んでいた4人が口々にブーイングする。


「智くんの名前出すの、反則~! そう言われたら、引き留めるわけにいかないじゃないのー」


 水上さんが拗ねたようにコップをあおりながら言う。まったく、酔っぱらいめ。一番恋愛話を聞きたがっているのは、この人だ。普段は冷静沈着を装っているけど、人の恋バナが大好きだ。よく部署の違う同僚に愚痴という笑い話を聞かされた。

 飲みに行くたびに、恋愛話を聞かせてよーと迫られるらしい。

 それでもなんだかんだで解放してくれるのはありがたい。みんなに一通り謝ると、先に帰宅させてもらった。


 お店を出て駅に急ぐと、なんだかんだで、最終電車になってしまいそうだった。ホームの方からアナウンスが聞こえ、拡声器で「最終でーす」という駅員さんの言葉が改札口付近に響いた。

 マズイ! 

 ICカードを取り出して改札を抜けると、急いでホームに駆け降りる。なんとか電車に間に合って、最終に乗り込むことができた。


 八王子の駅で降りる頃にはもう、午前1時を過ぎていた。改札を抜けると、金曜日のせいかまだ結構人がいる。ちょうど4月。新歓コンパや歓迎会がいたるところで行われているんだろう。賑やかな声が聞こえてくる。

 声のする方を見ると、若い男の子たちがグループで固まって盛り上がっていた。ヒューだの、おおーだの歓声が聞こえて、みんなかなり酔っぱらっているみたい。

 ほんの少しそちらのグループを見ていただけのつもりだったけれど、そのうちの一人と目が合ってしまった。


 すぐに逸らしてそのまま歩いて行こうとすると、目があった人がこちらを見ながらにやにやと締まりのない顔をしながら近づいてきた。

 なんだか、嫌な感じがする……。

 人を小ばかにしたような、にやついた視線にさらされるのは全く初めてじゃない。

 こういう顔をしている人は、要注意だ。そう思ったから早足で通り過ぎようと思ったのに、近づいてくる。


「おねーさん!」

 男は笑いながら、妙に弾んだ声で話しかけてきた。

「ちょっと、足止めてもらってもいーい!?」

 顔は真っ赤で、なんとなく足元がふらついている。それでも上機嫌なようで、どこからどう見ても酔っぱらっているようだった。

 用がないから、と通り過ぎようとすると突然肩を掴まれた。


「ねえ、無視しないでよー」

 思いっきり、絡まれた。

 あー、だからこの時期あまり遅くなりたくないんだよね……。なんて思ってももう後の祭りだ。


「ごめんなさい、急いでるんで、ほんと……」

 目を合わせないように伏せ目がちにして、片手を振ってそのまま進もうとする。だけど、男は人の腕をつかむと「ちょっとー」とふらつきながら言う。


「無視しないでよー。ねえ、お姉さん帰るところ? これから俺たちと飲まなーい?」

 妙に間延びした声で言われ、正直面倒だなと思いながら断り続けた。それでも男はめげずにまだ、

「いいじゃん、少し。ね、ちょっとでいいから。一緒に呑もうよー」

 と言い続け、腕を離してくれない。

 うわー、勘弁してよ。この人、しつこいタイプだ。

 

 大体の人は絡んでも、断るとあまりしつこくして来ない。酔っぱらっていても、足早に過ぎ去ってしまえば追いかけてくることは少ないのに。


「本当に、困るんです」

 焦りながら言うと、男はにやにやと笑ってこちらに顔を近づけてくる。


「お姉さん、かわいいね。困ってる顔も、かーわいいー」

 そう言って、掴んだ腕を揺らした。相当酔っぱらっている。一緒にいたグループの人達が、囃し立てはじめる。

 やばい。

 振り切って逃げたら、追いかけてくるかもしれない。

 誰かに助けを求めようと辺りを見回しても、誰もこちらに目を向けることなく通り過ぎてしまう。

 みんな関わり合いになりたくないのも、急いでるのも分かるけど、お願いだから誰か助けてよー。

 焦って腕を振りほどこうとしたら、男の人がよろけて尻餅をついた。

 それが、火に油を注いだのは明白だった。男は小さく叫んでよろけて転んだ後、顔を真っ赤にしてこちらを睨み付けている。

 それから今までとは打って変わって素早い動きで立ち上がると、目つきがもうさっきとは全然変わっていた。


「おい、下手にでてりゃ、てめえ」

 さっきまでにやにやしていたくせに、突然豹変したように凄んでくる。

「ごめんなさい……」

 下手に言い返すと何かしてきそうだったから、とりあえず謝ってその場を立ち去りたかった。


「てめえ、待てよ!」

 男は私の肩を掴む。


 殴られる! 


 そう思って目を伏せた時だった。


「あんた、その人俺の連れなんだけど、何するつもり?」

 後ろから声がして、男の手が私の肩から離れた。

 そっと目を開けて、男の方を見ると、男は私の後ろを見て、鼻息を荒くしていた。


「いてえ!」

 男はそう叫ぶと、腕をぶんぶんと振っている。恐る恐る上を見ると、男は誰かに腕を掴まれていた。横から伸びている腕が、男の手首を掴んでいる。その掴んでいる力が思いのほか強いらしく、男はいてえ、いてえ! と叫んで、顔を真っ赤にさせていた。


「行けよ、じゃないと警察呼ぶよ?」


 そう言われ、男は私の後ろを見てから私に視線を移す。そして、掴まれている腕を振りほどくと「っんだよ!」と捨て台詞を吐くとグループの中に戻っていった。

 グループの人達が加勢してくるんじゃないかと思ってたけど、男が戻ると「だっせ!」と笑い声がしていたので、これ以上は何もなさそうでほっとした。


 私はほっとして、深呼吸すると助けてもらったお礼を言おうと思い、振り返った。


「すいません、助かりました。ほんと――」

 両手を揃えて頭を下げる。


「あ、いや。大したことじゃないんで」

 そう返ってきたので、顔を上げた。改めてお礼を言わなきゃ、と思った時、目の前の人は突然驚いたように目を見開くと、まじまじとこちらを見つめてきた。


「――瑞希、さん?」

 そう言われて、え? と驚いて改めて顔を見た。


「え?」

 誰だかわからなかった。


「え、分からない? 俺。って、わかるわけないか」

 あはは、と笑った顔に見覚えがある。


 ――うそ。


 驚いて、そのまま目の前の人の顔を凝視していた。彼はにこにこと笑って私を見ていると

「うわー、懐かしいなあ」

 と嬉しそうに笑って見せた。

 その明るい声に、私はどう返していいかわからずに立ち尽くしていた。


 目の前に立っていたのは、すっかり大人びた栄一君だった。

 茶色くて少し長めだった髪型は、黒い短髪になっている。そして、少し背が伸びたんじゃないだろうか。体つきも、前よりかがっしりとしている。

 そして何より、スーツを着ていた。高校生の時とは違う、きちんとしたスーツにビジネスバックを持っている。


 それでも笑った顔は昔の面影を残していた。

 

 思わず、口元を押さえていた。

 うそ……。

 言葉が出てこなくて、ただ、目の前の栄一君を見ているだけだ。


「智、元気?」

 呆然と立ち尽くしている私に、栄一君は笑顔のままでそう言った。


「うん。元気……」

「そっか。瑞希さんも、元気?」

 そう聞かれて、頷いた。


「――そっか。よかった」

 栄一君は笑顔のまま、心底ほっとしたような声を出した。

 

 五年間、忘れた事なんてなかった。

 この声。

 ずっと、ずっと会いたかった。


 今度会ったら、笑顔で「元気?」って言えるはずだったのに――。

 

 でも、実際に会えたら言葉は何も出てこない。

 久しぶり、も、元気? も、何にも言えなかった。


 一瞬で5年前のことを思い出す。栄一君と出会った時のこと、一緒に遊んだ時のこと。


 ――そして、最後の別れ。


「栄一君も、元気そうだね。スーツ姿だったから、びっくりしちゃった」

 ようやく出てきた言葉は、それだけだった。


「ん。元気。元気でやってるよ。今年就職して、社会人一年生」

 そう言って笑う顔は、5年前よりも凛々しくなっている。おかしいね、顔は変わっていないのに。表情が全然大人びて。

 そうか。高校生だと思っていた栄一君はもう、社会人なんだ。


 あの頃の未来が、こうして目の前に立っているのはとても不思議な気持ちだった。

「そうかあ。もう、そんなになるんだね」

 あの頃を思い出して、懐かしくなった。

 あの頃を思い出すと今も、まだ胸が痛いくらいなのに。


 それ以上、何を話そうか迷ってしまった。話したいことはあった。謝りたいこともある。

 だけど、なんて言っていいか言葉が浮かばない。何か言ったら、気持ちが溢れてしまいそうだった。


「――旦那さんも、元気?」

 栄一君が変わらない笑顔で言う。

 旦那さん? と考えてから、ああ、と思い出した。5年前、結婚するからって言って一方的に別れを切りだした。


「あ、んー。――うん」

 あいまいに笑った。

 栄一君の質問に、ああ、そうか。と納得した。

 彼はもう、あの時のことをそんなふうに聞けるほど吹っ切ったんだ。

 だから笑顔で「元気?」って、聞けるんだね。


 彼がもう昔のことを吹っ切っているのなら、時効かなと思えた。今更もう、何が変わるわけじゃない。


「ほんとは、結婚なんてしてないんだ。ずっと、一人」


 もう、終わったことなんだ。

 五年も前のことをまだ引きずっているのは私だけだ。


「――知ってた」

 少し考えるように、一瞬間をおいて答えた栄一君に、思わず目を瞠った。

「うそ――」


「いや、あれからしばらくして……半年くらいしてからか。3年になった春に、学校の前に瑞希さんのあの相手の人が現れたんだ。

 それで、聞いたんだ。本当は結婚してないって。

 瑞希さんが別れを切り出したのには、理由があるって聞いた……」

 

 そんなことは初耳だった。鈴木さんが、栄一君の学校に行った? 嘘、そんなこと知らない。


「それに、伊藤さんにも駅で何度か会って、瑞希さんのこと、聞いた。

 俺、その頃何にも手につかず、あんまり人に言えるようなことしてなかったんだけど、伊藤さんから話聞いて、立ち直れたんだ」


 鈴木さんも、伊藤ちゃんも、人の知らないところで何を吹き込んでいたのやら。

 まったくと思いながらも、二人の気遣いが嬉しかった。

 栄一君に会わなかったら、二人のそんなこと知らないままだった。

 

「そうだったんだ……。私、知らなかった……」

 私の言葉に栄一君が軽く頷いた。

 

 別れた後、何度も考えた。

 彼が本当のことを知ったら、元に戻れるかな? と。

 元サヤに戻って、栄一君が大学卒業するまで、ただ恋人同士として続いていたかな? と何度も何度も、夢に見るくらい考えた。

 

 ――だけど、栄一君は真実を知っても、私の元へ姿を現さなかったんだ。 

 

 彼がもしも別れた後に私を忘れられなかったのなら、その話を聞いた後にでも姿を現したはずだ。


 あのころはまだ私は変わらず書店で働いていたし、智の保育園も変わっていない。会おうと思ったら、いつでも会いにこれたはずだ。あの、リサちゃんのように。

 でも、栄一君とはあれから一度も会わずにいた。偶然姿を見かけることも、なかった。


 そうしなかったのは、それが栄一君の答えだから――。


 思わず、栄一君の顔を見上げた。

「私――」

 そこまで言いかけた時、「栄一!」と若い女性の声が聞こえた。

 栄一君が彼女の方を見て、軽く微笑むと片手を挙げた。


 その笑顔が5年前の記憶をまざまざと甦らせた。

 あの時、私に笑いかけてくれていた笑顔と、全然変わっていなかった。私が好きだった、栄一君の笑顔。


 今はその人に、笑いかけているんだね。


 私、栄一君を呼び止めてどうするつもりだったんだろう。何を言うつもりだったんだろう。

 彼があの時の私の嘘を知っていて追いかけてこなかったんだから、もう終わった話のはずなのに。


 彼女が栄一君に近づいてくる。

「ごめんねー、栄一。精算が上手くできなかったみたいで……」

 彼女も栄一君の顔を見て微笑みながら、小走りでこちらに来る。カツカツとヒールが床を蹴る音があたりに響いていた。

 近づいた彼女は私に気がつくと、

「あ、知り合い?」

 と、栄一君に聞く。


「ああ、昔ね」

 栄一君は軽く目を伏せるとそう言って、笑ってみせる。


 そうだね。もう、昔のことなんだから。


「あの、助かりました。ありがとう」

 彼女と栄一君を見て、頭を下げた。

「それと、――さよなら」

 あの日、言えなかった言葉。

 今までありがとうも楽しかったもさよならも言わずに、すべてを切り裂いてしまったような終り方だった、私たちの恋。


 ありがとうと、さよならくらいはきちんと言って終わりにすればよかった。

 そうしたら、未練を残さずに済んだだろうに。

 言えなかった言葉が、きっとまだ私の胸に疼いていたんだ。きっと、それだけ。

 こうしてさようならを言ったら、もういつもの毎日に戻る。


 それだけ言うと、踵を返して歩き出した。

「瑞希さん――!」

 後ろから声が聞こえたけれど、振り返らなかった。栄一君の返事はいらない。彼は彼で、今きっとあの彼女と幸せなんだろう。

 それでいいんだ。

 

 もう終わったことだ。


 もう5年も前の、昔のことなんだから――。

 自分に言い聞かせながら、帰り道を急いだ。

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