二人の別れ2
泣いている私を、鈴木さんは抱きかかえるようにして車に乗せた。
泣きながら千冬ちゃんをどうしたのか聞いてしまうところは、きっと子持ちの母ゆえだ。
千冬ちゃんはシッターに預けているとのことだった。
以前何度かシッターさんに預けることがあったらしいけど、千冬ちゃんがそのたびに号泣していやがるらしいので数回利用してやめたそうだ。
まして急用には対処できないらしく、改善の余地ありと評していた。
それなのに今回だけは千冬ちゃんにお願いして、シッターさんに来てもらったらしい。
そんな会話をしながら、鈴木さんが車を止めて私の頭を抱き寄せる。
「そんな心配しなくていいから」
呆れたように笑いながら、鈴木さんが言う。
スーツからは有名なブランドの男性用の香水の香りと、たばこのにおいがした。
栄一君の顔を思い出して、涙が溢れた。泣いている私に気がついて、鈴木さんの腕に力が込められる。
私、最低だ。
栄一君の横顔は、悔しさを堪えるように唇を噛みしめていた。
傷つけた。
わかっていたけど、人を傷つけるということが、こんなにも自分も痛いとは思わなかった。
でも、私の痛みなんて小さなものだ。自己満足に過ぎないんだ。
一番傷ついて、悔しい思いをしているのは栄一君なんだから。
私の痛みなんて、ただのエゴ。
そんな私の思いを見透かすように、鈴木さんは頭を二度、ぽんぽんと叩いた。
「あんまり思いつめなさんなよ。
ああするより仕方なかったんだ。
今はお互い辛い。傷をつけられた方も、分かっていてつける方も、どちらも辛い。
君の彼氏は、ずいぶんとまっすぐな少年だな。いい男だ。モテるだろ?」
笑いながらそう言う鈴木さんの声は、ずいぶん柔らかかった。
「ふざけんなって一発ぐらいは殴られるのを覚悟していたんだ。
君を大事にしているのは、痛いほどこちらも分かったからね――だけど」
鈴木さんが私の頭に置いていた手をそっと離した。
「未練は、残さない方がいい」
そうつぶやいた鈴木さんの言葉を、私はずっと反芻していた。
しばらくは、何も考えられなかった。ずいぶんぼんやりとしていたと思う。智はいつも不安そうな顔をして、私の顔を見上げている。
いつの間にか、智のリュックからグウちゃんが消えていた。どこに行ったのかは、私も分からないし、智も教えてくれなかった。
どうやら智も私に気を使っている。
子どもに気を使わせるなんて、母親失格だ――。
自分勝手だね、あんたが振ったんだろ?
頭の中で栄一君の声で何度もそうリピートされて、その度にあの日のことを思い出す。
その度にずいぶん鈴木さんに励ましてもらった。
鈴木さんと千冬ちゃんがいてくれなかったら、私も智も、全然何もできなかっただろう。
私の様子があまりにもおかしかったから、伊藤ちゃんに詰め寄られて、栄一君と別れたことを話した。
案の定伊藤ちゃんは、「栄一を一発、張っ倒してくる!」と意気込んだ。
待って、待って。
振ったの私の方だから。振られた栄一君に追い打ちをかけないで。と何度も憤慨している伊藤ちゃんを止める羽目になった。
「そりゃさ、けしかけたのは私だけどさ……」
申し訳なさそうに伊藤ちゃんが言っていた。さんざん鈴木さんの方がいいとか言っていたのは、確かに伊藤ちゃんだよね。
それが実際にそうなってしまったから、伊藤ちゃんも少し罪悪感を抱いているみたい。
そんな毎日を過ごして、栄一君と会わなくなって1か月が過ぎたころだった。
5時50分頃、レジを打っていた私に本を差し出したのは、栄一君といた事のある髪の長い女の子だった。
「あ……」
お互い、顔を見合わせて同じ言葉が漏れた。そしてお互い我に返り、私は商品をスキャニングして代金を告げると、彼女は財布から小銭を取り出した。
女の子は青いトレイにお金を載せると、
「あの、少し話できますか?」
と、口調はおずおずとしていたが、まっすぐに私を見ながら言った。
「話しって?」
「栄一のことです。ここじゃ、なんだから……」
その子は辺りを見回してから、周囲を気遣って声を潜めて言う。
「私には、話すことは何もありませんけど?」
あれから何度も何度も泣いた。正直、よりを戻したいと思う時もあった。
それでも思いとどまっているのは、それじゃ何も変わらないからだ。
私たちは付き合ったばかりの頃から、ずっと同じことで躓いている。いつまでたってもぬぐえない不安は、時がたてばたつほど、忘れたふりをしてごまかすほど大きくなっていくのだろう。だったらもう、何も考えない方がいいんだ。
すると彼女は少し怒ったようで白い肌に、さっと赤みが走った。
「栄一、あれから辛そうです」
彼女は私を睨み付けるように見ながら言う。
その子が栄一、と言った時に、なぜか急に怒りのような感情が胸にこみ上げてきた。
その怒りの感情に、いつの間にか捕らわれていた。
「6時に仕事終わるので、それからなら……」
自分でもやめればいいのにと思いながら、ついそう答えていた。
伊藤ちゃんが、「今度は一緒に行こうか?」と言ってくれたけれど、丁寧にそれを断る。
栄一君のお母さんが来た後の私は、本当にひどかったらしく伊藤ちゃんは彼女なりに心配していたようだった。
とりあえず、危なそうだったら出てきて、とお願いすると、笑って引き受けてくれた。
仕事が終わってから書店の入り口の前に行くと、女の子はヘッドホンで音楽を聴きながらファッション誌を立ち読みをしていた。
声をかけると、ヘッドホンを外して会釈したので、あいまいに頷いた。
智のお迎えがあるからあまり長くいられないけど、30分までならということで話をすることにした。元々、あまり長い話もないだろうし。
それでお店と智の保育園がある間のハンバーガーショップに行くことにした。
お店につくと、私はコーヒー、彼女はアイスティーを頼む。客もまばらだったのでテーブル席はがらんとしていた。
「それで、話しって何?」
年下の子だとわかっているからか、初めからため口だった。カバンを置いて、上着を脱ぐ。彼女も背負っていたリュックを下ろしていた。
彼女は自分のことをリサと名乗った。栄一君とは同級生で、クラスは違うけれど仲のいいグループの一人だという。
「それで、栄一君のことで話って何?」
とりあえず仕事で疲れていたから、アイスコーヒーを口に含んだ。
「あの、どうしてえいいちと別れたんですか?」
彼女の口から出る栄一という名前に、どうしても反応してしまう。ストローをいじりながら、ふと彼女の顔を見つめる。
ずいぶんストレートに聞くんだな。
きっと栄一君にも同じように聞いたんだろう。
ふと、伊藤ちゃんの言葉を思い出す。彼の回りには同じ年の子がたくさんいて。彼を心配している子がたくさんいる。
そういう事なんだね。
「年上で、子持ちだから」
端的に言うと、彼女は驚いたようで目を見開いた。
「そんなの! そんなの、えいいちは気にしないと思いますけど!?」
激高した彼女に、私は目を合わせずに淡々とコーヒーをもう一口飲む。
「そうだね。彼は気にしないよね。そういう人じゃないから」
「わかってるんだったら、どうして!?」
「私が気にするから、じゃ納得してもらえないかな? どんなに言葉を尽くしてあなたに説明しても、こればっかりは分からない」
突き放した言い方だと、自分でもわかっている。だけど、私の不安をこの子に説明してもきっとわかってはもらえない。
彼女はどこまでも栄一君の味方で、私が彼を突き放せば悲しい顔をするけれど、心のどこかでほっとしていることは間違いない。
彼女は栄一を可哀想だと思っているけど、よりを戻してほしいわけじゃない。彼がかわいそうな理由を知って、慰めたいだけ。
そして、フリーになった栄一君を励まし続けれてあわよくばと、思っていないつもりでも、そうなればいいなと心の奥底では思ってる。
「彼が辛いって知って、私がじゃあよりを戻すって連絡しても、あなたはいいの?」
そう尋ねると、彼女はグッと言葉を飲み込んだ。視線を落とすと、しばらく考え込んでいる。
「よかったじゃない。落ち込んでいる彼を慰めてあげたら? あなたが自分のことを好きだっていうのは、栄一君だって気がついているんでしょう?
彼は優しいから、きっとあなたのことをきちんと見てくれるよ」
それだけ言うと、立ち上がる。トレイを手に取って帰ろうとすると、
「あの! 栄一、本当に毎日辛そうなんです。あんなに頑張っていたのに、受験もやめるって、ふらふら遊び歩いて……。
栄一君のお父さんとお母さんも心配しているし、先生たちもどうしたんだって、栄一のこと怒って。
目つきとかもすごく変わっちゃって……」
それだけ傷つけた自覚は、私にもある。トレイを持ったまま立ち止まると、座っていた彼女の向かいに座り直す。
いつかは彼も自力で立ち直る。
「……もしも、私と別れたことで彼が荒れているんだとしたら、彼に伝えてくれる?
もしも私と別れたことで諦めてしまう夢だったら、そんなのは夢とは言えない。
私を見返すつもりなら、あの時子持ち女と別れておいてよかったと思えるくらい、何が何でも自分の夢を叶えてみたら?――って」
それだけ言うと、再び立ち上がった。
「頑張って――」
彼女に向けたのか、彼に向けたのか、自分でもわからなかった。
数年前の自分を思い出して、今の自分とはずいぶん開いてしまった隔たりを思う。
たった4歳しか違わないのに、私と彼はずいぶん違う。その4年はもう、どうしたって取り戻せないのだから。
ごみを捨てて、お店を後にした。彼女はまだ、何か言いたそうに一瞬呼びかけたけれど、もう聞こえないふりをしてそのまま歩いた。
何を言われても、もう元には戻らないのだから。
ああ、これで私と栄一君は終わったんだ。
智を迎えに行く途中、涙が溢れて仕方なかった。




