二人の別れ
栄一君の腕の中で、なすがままになって、もういっそそのままでもいいんじゃないかと思っていた。
私を抱きしめる腕は力強く掴んだかと思うと、一瞬だけその力が緩まったりする。
私の首に額を当てながら、彼は泣いていた。
時折洩れる嗚咽や、震える指先に、栄一君が泣いているんだと思った。
「……ごめん」
そう言ったのは、私の方だ。泣くのを堪えて抑えた声を出したはずなのに、言った途端に涙が出た。
「この間まで、普通に笑ってたじゃん!
智と一緒に映画見に行って、公園行って!
あの時、瑞希さん笑ってたじゃん!!
それなのに、その時にはもう、別れることを考えてたのかよ……!」
そう言われて、言葉が出なかった。
楽しかったよ。
私だって、楽しかったよ!
口を開いたら、そう言ってしまいそうだったから……。
本当は別れたくない。
そう言ってしまったら、この先の何が変わるんだろう。
……きっと何も変わらない。
彼は、私と一緒にいる間はきっと、私と智を含めた将来を考えて行動していくんだろう。
今はまだ高校生だから、進学にはご両親の協力とか、先生の助言を聞かなきゃいけない。
だからこそ夢を後押ししてくれているけれど、これが就職になったら、彼は間違いなく好きな分野だけど一番なりたいものには手を延ばさずに、そこそこの落ち着いたところで妥協してしまうだろう。
それできっと、それが俺の幸せだからってごまかしながら、これでよかったんだって自分に言い聞かせて生きていくんだ。
これから先にできる子どもには、お父さん、昔は設計技師になりたかったんだぞ、なんて言いながら。
いや、口には出さないで、飛行機を見るたびに過去を懐かしむのかもしれない。
私はそんな人生を彼には、歩ませたくない。
「私もね、私と智と、栄一君の人生を考えたことがあったよ。
だけどね、それは私の望む未来じゃない……。
私は栄一君の重荷には、なりたくないんだ……」
「重荷!? そんなわけないじゃん! 好きなんだから一緒にいたいと思うのは当たり前だろ!!」
「今はね。一緒にいられればいいよ。
だけどこの先は、そんなことも言ってられない。
私たちだって同じ。栄一君とこのままつき合っても、その先のことは考えてない。
もし別れたら? 智はあと三年たったら小学校に入るんだよ。
その時、母親が年下の学生と付き合ってるなんて知られたら、智が何か言われるかもしれない。
まして、別れたりしたら? まだ若いお母さんみたいだから男遊びしてるんだね、なんて言われるかもしれない。
私はどんなに笑われてもいいけど、智がそれで何かあったら、――きっと私後悔する……」
そう言うと、栄一君の腕を振りほどいた。
「だから、智には普通の家庭をあげたいの。そのためだったら私、何でもするよ!」
気がついたら、頬に涙が伝っていた。
智の為だったらなんでもする。
そして、栄一君のためなら、嫌われてもいい。
私の言葉に、栄一君は両腕を下ろして、じっと私を見ていた。その瞳には怒りのような、焦りのような、ゆらゆら揺れる影みたいなのが見えた。
どうしていいかわからない焦りのようなものが、栄一君を苛立たせているのは分かった。
栄一君は側にあった自転車に思いっきり蹴りを入れる。
苛立つ衝動を私にぶつけるわけにもいかず、そばに倒れて掛けていた自転車に八つ当たりした。
自転車はぶつかった衝撃で大きな音を立てて、右を向いていたハンドルがガードレールに当たり、タイヤが少し跳ね上がった。ホイールが擦れて音を立てて、タイヤが空回りしていた。
「俺だって、あんたを守るよ! 誰かに何か言われたって、そんなこと……」
栄一君は勢い込んでそう言ってから、語尾を濁して押し黙った。
「クソ!!」
そう言うと、倒れた自転車にけりをもう一発入れる。
さすがにそれ以上蹴り飛ばすと、自転車が壊れてしまいそうだったから、彼の腕を掴んで制した。
二人とも押し黙り、栄一君は黙って自転車に向かう。
何も言葉が出なくて、私は為す術もなくそのままその場所に立ち尽くしていた。
すると、控えめなクラクションの音がした。
二人同時に振り替えると、そこにいたのは車から降りようとしている鈴木さんだった。扉のしまる音が周囲に響き、スーツ姿の鈴木さんがこちらに向かって歩いてきた。
泣いているところを見られたくなくて、思わず顔を背けた。
「何だよ、あんた!?」
警戒心むき出しで、栄一君が鈴木さんに怒鳴るように言った。反対に鈴木さんは私と栄一君を交互に見ると、つかつかと私と彼の間に割り込んできて、私の腕を掴み上げた。
「俺が、この子の相手だよ」
落ち着いた口調だった。私の位置からは鈴木さんの顔が見えない。
「はあ!?」
栄一君の怒気を含んだ声が響いた。
「何で……」
どうして鈴木さんがここにいるのか、訳が分からなかった。
鈴木さんは私の顔を見ると、指で涙をぬぐう。
「今日、君が話すって言っていたのを聞いたからね、コンビニの帰りに行きそうなところを来てみたら、案の定話し込んでいる二人が見えたからね、思わず出てきてしまったんだ」
そう言うと、鈴木さんは片手で私を抱えるように自分の懐に押し入れた。
「瑞希から聞いていると思うけど、そういう事だから。
君の気持ちはわかるけど、やっぱり君はまだ高校生だからね」
まだ、のところに力を入れて鈴木さんが言う。呼ばれたことのないいきなりの呼び捨てで、呼ばれた時には肩が少し強張ってしまった。
私の話を聞いて、どうやら鈴木さんはこの茶番につき合ってくれる気になったらしい。
まっすぐに栄一君を見る鈴木さんは、どっからどう見ても大人の人だった。
「っざけんなよ! なんだよ、それ!!」
今にも掴みかからんばかりの栄一君は、黙って拳を握っている。それを挑発するように、鈴木さんはまっすぐに前を向いていた。
どうしていいかわからないまま、息を殺していた私は、顔を上げることもできずにただ黙っている。
ざっと足音が聞こえた。
思わず顔を上げたると、踵を返して自転車に向かう栄一君が見えた。こちらに視線を合わせもせずに、堪えるように唇を噛みしめていた。
そして何も言わずに自転車を起こしてそれを引いてきた道を戻っていった。
その後ろ姿がだんだんぼやけていく。街灯の明かりが滲んで広がり、栄一君は目の前にいるはずなのに、その姿はもう滲んで見えない。
嘘だよ、全部ウソだよ。
今まで通り、一緒にいようよ――。
全部なかったことにして、そう追いすがりたくなる自分を見透かしてか、鈴木さんが私の腕をずっと掴んでいた。




