助言
ずっと頭のどこかにはあった。私と智の存在が、彼にとって重荷になる時が来ると。
だけど、彼が今は高校2年生で、まだまだ高校生活が長いと思っていたから、そんな先のことまで考えていなかったというのが、正直なところだ。
今この時が楽しかったら、それで十分だったから。
でも、一年後、二年後はあっという間にやってくる。
あと一年もすれば、彼の将来ははっきりとレールの向こうに見えているんだ。
その時の選択肢に、私が含まれていてはいけない。
お昼休みの後、私はどうやってその後の一日を過ごしたのか、自分でもよくわからなかった。
それでも今日だけは栄一君に会いたくなくて、今日は用事があって智のお迎えの後も、バイトの帰りも会えないとメールをした。声を聴こうとも、思えなかった。
今、生身の自分で接してしまったら、きっと訳も分からない怒りをぶつけてしまいそうだった。
「ちょっと、大丈夫?」
バイトの帰り際伊藤ちゃんに声をかけられた。
「顔色悪いよ? お昼、なんかあったの?」
心配そうに言われたけれど、本当のことは伊藤ちゃんにも話せない。もし知ったら、栄一君のところに突っ込んで行ってしまいそうだったから。
「んー、ちょっと風邪気味かも。今日は早く上がるね」
深くツッコまれたくなかったからそう言って、レジの後ろの壁にかかっている時計を見上げた。終了時間ぴったりに切り上げて、みんなに声をかけてから事務所に引き上げ、そのまま帰った。
お迎えもさっさと智を引き取った。鈴木さんとすれ違ったけど、朝の話を思い出してさも知らない風を装って先を急いだ。
帰り道に、智に何度も「ママ、どうしたの?」と聞かれた。
「ちょっと、お風邪かな?」
智にまで適当もいいところだと思いながらごまかすと、智はぎゅっとしがみついてきた。
「おカゼ、ちょうだい」
よく智が風邪を引いたときに智をぎゅっと抱きしめて、「ママにお風邪ちょうだい。そしたら早くよくなるからね」と言っているのを覚えていたらしい。
同じようにぎゅっとしがみついてきて、その可愛さに、少し救われた気がした。
智が心配するくらい、ひどい顔をしているのだろう。何をする気にもなれない。同じ考えがぐるぐると頭の中にある私は、相当険しい顔になっているのだと思う。
そう思うと、智に申し訳なくて、心の中でこんなママでごめんね、と謝った。智のことよりも、今、栄一君のことを考えてしまっている。考えたくないと思うのは、それがずっと頭の中にこびりついていて離れてくれないからだ。
コンビニのバイトも店長とのっちに無理を言って30分先に上がらせてもらった。私の顔色は相当悪かったらしく、風邪だというと二人とも納得し、ひどくならないうちにと早上がりを許してくれた。休んでもいいと店長は言ってくれたけど、家にいたらいろいろ考えてしまいそうでそれも気が進まずに、とりあえず収入が減ると困るから早上がりで、と釈明しておいた。
二人に嘘をついて申し訳ないと思いつつも、心の中がカサカサしてもう他のことはどうでもよかった。
これで帰りに栄一君がコンビニにのぞきに来ても、会うことはないだろうと思うと、ほっとした。歩きながら携帯の画面を見ると、メールと着信が入っていた。
メールは栄一君だった。今日はどうしたのかというメールだったので、とりあえず風邪でと返信しておいた。
そして、着信は鈴木さんだった。
ん? 珍しいな。
掛け直そうかどうしようか迷ってから、やっぱりやめることにした。今また迫るようなことを言われても、ちょっと返す気力はなかったから。
ため息交じりに携帯をしまおうとすると、今流行りの曲をオルゴール風にした着信音が、静かな住宅街の中の道路で響いた。
画面を確認すると、電話をかけてきたのは鈴木さんだった。
手に持っているのに出ないというのもなんだか悪い。でる気が起こらないながらも、仕方ないと思い、通話ボタンを押して電話に出た。
「おい、どうしたんだ?」
鈴木さんの第一声がそれだった。
「どうしたって、何のことですか?」
朝電話をして、帰りに顔を合わせただけで、いつもと何が違ったわけじゃない。
それなのに突然そう言われて、そんなわけもないのにもしかして昼間のことを誰かから聞いたのかと、ドキッとした。
「君、ひどい顔してたぞ。何があった?」
まるで怒っているようなその声に、なんだか急に今まで張りつめていた糸が切れたような気がして、気がついたら鼻の奥が痛かった。
「何がって……。何もないですよ」
ついムキになって、そう返答する。自分でもわからないくらいいらいらして、自然と口調が険しくなってしまった。
「おい、どうしたんだ? いつもと感じが違うぞ」
そこまで言うと、ふうと一つため息が聞こえてから鈴木さんの抑えた声が聞こえてきた。
「電話じゃわからないから、ちゃんと説明しろ」
ちゃんと説明しろって言われても、なんて返事を返せばいいのかわからずに口ごもってしまう。
「ごめんなさい。ちょっと、今日嫌なことがあって……」
「嫌なこと? 朝のことでまた何か言われたのか? なんなら俺の方から園に苦情を入れてもいいんだぞ?」
なんだか電話の向こうの鈴木さんの方がムキになっているようだった。どうやらさっきまた後で連絡するって言っていたのを律儀に覚えていて、電話を入れてくれたらしい。
鈴木さんも朝の件をどうやら気にかけていたらしい。
「園のことじゃないんです。私的な事なんで、ほんと、大丈夫です」
そう言うと、数秒間沈黙があった。一瞬、あれ? 切れちゃったかなと思ったけれど、電話の向こうで遠くの方でテレビの音が聞こえてきて、切れたわけじゃないっていうのは分かった。
「私的な事なら、なおさら話したら? っていうか、君はどこにいるんだ?」
「仕事帰りです。コンビニ」
「ああ、コンビニでバイトしてたんだっけ。じゃあ、今外を歩いているんだね?」
「はい」
短く返事をすると、舌打ちが聞こえてきた。
「本当は迎えに行きたいところなんだが、千冬が寝たばかりだし、一人でおいていくわけにもいかないから行けないけど、夜道はやっぱり危ない。変な奴に追いかけられないように、電話につき合ってやるから、何があったのか、話した方がいい。誰かに言った方が、気持ちは楽になるんじゃないか」
ガチャンと冷蔵庫の音がした。どうやら缶ビールを出したようで、プルタブを開ける音がかすかに聞こえた。どうやら話につき合う気満々らしい。
誰にも話すつもりはなかったのに、こうして聞いてくれようとする心遣いが嬉しかった。
それで鈴木さんに話をすることにした。
話しているうちに実家のそばまで来てしまったので、着かないように近くのベンチと砂場しかない公園の柵に軽く腰掛けた。
今日栄一君のお母さんに会ったことを全部話すと、一瞬驚いたようだったけど、とりあえず最後まで口を挟まずに聞いてくれていた。
昼間、栄一君のお母さんと会って言われたことを話し終ると、思い出してまた鼻の奥がつんと痛くなった。
泣いちゃだめだと自分に言い聞かせる。
「そんなことを言われたのか――」
話しをしている私の語尾が震えるのが分かっていたようで、鈴木さんはため息交じりにそう呟いた。
少しの沈黙があった。
それで、私はつい言ってはいけないことを言ってしまった。
「ねえ、鈴木さん。私、智を産まなきゃよかったのかな……」




