突然の訪問者
次の日、保育園に行くと麻子先生に呼び止められた。
「あの、智君のお母さん」
言いにくそうに困った顔をしている先生に、どうしたのだろうかと首を傾げた。
「どうしました? なにかありました?」
「あの……、こんなこと本当はお話したくないんですけど……」
とても口ごもりながら辺りを見回してから、麻子先生が口を開いた。
「それが、先日、匿名の電話がありまして。特定の保護者同士が、必要以上に仲良くするのは、子ども達にもよくないんじゃないかって内容だったんです」
「は?」
「保育園のお迎えに来ている男女の保護者が親しくしていると、まるで浮気や不倫をしているようでみっともないって。人の親だということを忘れずに振る舞ってほしいと……」
まだ年の若い麻子先生も、こんな匿名の電話の内容をどう伝えていいか苦心しているようだった。苦心しているにもかかわらず、そのまま伝えてしまっているところがまだ若い先生らしいっちゃらしい。
で、麻子先生の口ぶりから間違いなく男女の保護者というのは私と鈴木さんのことだろう。そりゃ、確かにね傍から見れば子どもがいるからこそ、夫婦ものだと思うだろうし……。他人の男女が親しくしていたら、そりゃ恋愛に結び付けたくなっちゃうのは、いかにもゴシップ好きの奥様方だ。
「それって、私と鈴木さんのことですよね?」
「ええ……でも、保育園としては保護者同士の交流に関しては、ほんとに口出しするつもりはありませんし、お二人の事情も知っていますから、問題がないっていうのも分かってはいるんです。でも、苦情という形でお電話いただいてしまった以上、こちらも一応お耳に入れておかないと……と思いまして」
なるほど。麻子先生の言い分も分かる。保育園の先生も大変だね。そんなことまで注意しなきゃいけないなんて。
「大丈夫です。鈴木さんとはママ友みたいなものですから」
「はい。わかっているんです。鈴木さんもお母様方と交流するのはとてもいいことだって、園長も他の先生方も安心していたんです。でも、匿名の電話に、お二人の個人情報を流すわけにはいかなかったので、向こうの話を聞くだけになってしまって……」
心底困ったような申し訳なさそうな麻子先生の唸るような言葉に、私はふと微笑んでしまった。
「大丈夫ですよ、気にしてませんから。そういうことなら、園の周辺ではなるべく話をしないよう気をつけます」
そういうと、麻子先生はあからさまにほっとしたような顔をして、息を整えていた。
「よかった、南里さんにそう言っていただけて。失礼なことを申し上げて、怒られるかと思っていたんです」
あはは。失礼なことを言っているのは電話の人であって、麻子先生じゃないからね。
鈴木さんのことを思い出して、ふと、先日のことを思い出した。
あれから、連絡はない。
もっと押せ押せで来るのかと思ったら、ちょっと意外だった。
ママ友かあ……。
保育園から職場に向かう道の途中で、思わず空を見上げてしまった。
確かに千冬ちゃんを預かったり、一緒に遊んだり、そんなやりとりはママ友のそれと言っても過言じゃない。
でも、そんなふうに言われちゃうならやっぱりもう会わない方がいいんだろうな。
仕事前の時間に申し訳なかったが、鈴木さんに電話をした。
「君から電話くれるなんて、珍しいね。どうした?」
さらっと言われて、言葉に詰まる。どうしてこの人、こんなふうに物慣れてるんだろう。
「実は――」
さっき聞いた麻子先生の話をすると、鈴木さんはうーんと唸った。
「ちょっと待って。俺は聞いてないよ、そんな話」
智が登園した時には、もう千冬ちゃんが来ていた。ってことは鈴木さんの方が早く先生に会っていたはずだ。
きっと麻子先生、鈴木さんには言えなかったんだろうな……。そんなこと言おうもんなら、そんなふうに考える下衆な保護者がいることの方が、よっぽど恥ずかしいとか何とか言って、切り捨てそうだもんな。
「あー。そこら辺は、まあ。同性の方が言いやすいというか、ねえ。
まあそういうことですから、園の回りではなるべく他人のふりします」
「園の周辺じゃなければ、今まで通りで構わないってこと?」
「え? ええ、まあ……」
「それって、この間の話はオッケーってこと?」
突然の切り返しに、ぶっと受話器越しに咽てしまった。
「おいおい、大丈夫か?」
電話の向こうで呆れたような声が聞こえてきて、鈴木さんの顔を想像してしまった。
「まあ、そんな話は俺としてはどうでもいいんだけどね」
一刀両断だ。そんな話っていうのは、この間の話ですかね。それとも、今の話?
「簡単な話、君と俺が結婚してしまえば、なんの問題もない話じゃないか?」
だからどうして、そこまで飛躍するんだか。
今まで連絡がなかったくせに、やっぱり押せ押せだった。
「ゴリゴリ押して来ないでください……」
「はは。君は案外と鈍いからね。直球じゃないと気が付かないだろ?」
なんだかそれって、バカにされてる気がするんですけど……。そりゃ、男女のことは疎いですけど。恋愛の駆け引きとか、全くわからないですけどね。
「あ、ごめん。ちょっと、仕事入った。切るよ」
鈴木さんがそう言い終るのが早いか、ぷつっと電話は切れた。それからすぐに、あとで連絡するとのメールを受信した。
鈴木さんと電話が終わり、私も仕事だと気合を入れて、本屋へ向かう。
いつもと変わらない仕事を繰り返し、そろそろお昼になるころだった。
「瑞希―、お客さん」
伊藤ちゃんが顎でレジの方を指し示しながら、少し生真面目な顔をして小さな声で呟いた。
「何、クレーム? だったらすぐに言いなよ」
クレームはそんなに多くないけど、たまに本が破れてたとか、縛っているひもの後が付いてるとか、本を探してもらってるのに連絡が来ないとか、まあちょいちょいクレームが入ることもある。その類かと思って、レジに行って、「お待たせしました。いかがなさいましたか?」と声をかけると、レジの横には淡いピンクのスーツを着ている中年の女性が立っていた。
「南里瑞希さん?」
そう問われ、「はい?」と髪を耳に掛けながら顔を上げると、そこには先日会った栄一君のお母さんが立っていた。
「栄一君の……」
思わずそう言うと、栄一君のお母さんはにこりとほほ笑んだ。
「栄一と仲良くしていただいているそうですね」
柔和な感じの声は、どことなく栄一君と雰囲気が似ている。
「栄一の母です。栄一からあなたのお話を聞いて、少し、あなたとお話がしてみたかったの。お時間、少しよろしいかしら?」
そう言われ、後ろの壁にかかっている時計を見ると、お昼休憩まであと十分もなかった。
「あの、私、12時ちょうどから休憩なんです。少し待っていただければ」
「じゃあ、同じビルのコーヒーショップで待ってるわ」
栄一君のお母さんはコーヒーショップの名前を告げると、軽く一礼して外に出た。
「どうしたの? 瑞希」
お母さんが出て行ってから伊藤ちゃんが小声で話しかけてきた。
「うん……。栄一君のお母さんだって」
「はあ!?」
伊藤ちゃんは驚いている。
「いきなり? なんかやらかしたわけ? 子どもが出来たとか……」
「あるわけないでしょ」
バカなことを言う伊藤ちゃんを一刀両断し、12時になったのを見計らって店長に声をかけた。
店長に休憩に行くことを告げ、事務所に戻って財布を取ってから、店外へ出た。指定されたコーヒーショップに行くと、そんなに広くない店内は軽食を取る人達で席が埋まっていた。四人掛けの席に姿勢を正して座っていた栄一君のお母さんを見つけると、頭を軽く下げてから、レジでコーヒーを注文した。
「ごめんなさいね、お昼休憩ならランチができるお店の方がよかったかしら?」
コーヒーだけをトレイに乗せた私を見て、心配顔で栄一君のお母さんが私を見ている。
「いいえ。お弁当を持ってきているので、あとで食べます。お気になさらないでください」
栄一君のお母さんに進められて、向かいに座る。
「そう。急に押しかけてしまってごめんなさいね。土曜日にお会いして、ちょっと気になっていたものだから」
その言葉になんて返事をしていいのか戸惑い、「いいえ」と首を軽く横にふる。
「栄一から聞いたんだけど、瑞希さん――っておっしゃるのよね? シングルマザーで3才のお子さんを育てているそうね」
そう言う栄一君のお母さんの表情は、穏やかにほほ笑んでいて、責めるようすではない。
「うちの――この前の美羽っていうんだけど、栄一の妹なのよ。あの子が今4才なの。その子がまあ、オテンバでね。女の子でも手を焼いているのに、まだ小さい男の子を一人で育ててるなんて、大変だわー。栄一から聞いて、驚いちゃったのよ、私」
まるで近所の話好きのおばさま――のように少し早口でしゃべる。そう捲し立てられても、やっぱりなんて返事をしていいのか迷う。
「まだ、お若いのよね?」
「――えっと、22になります」
「あら! やっぱり、まだお若いのね」
栄一君のお母さんがふふと小さく笑う。
「そんなにお若いから、お子さん育てて、たくさんお仕事して、バイタリティーに溢れてるのね。すごいわ」
とりあえず、お母さんが何を言いたいのかわからずに、そう言えばまだ自己紹介していないなと思いつつも、「いえ、そんな」なんて辺り障りのないことを言ってお茶を濁していた。
栄一君のお母さんは、ずいぶん明るい人のようだった。
コーヒーを飲みながら、ひとしきり世間話をしていた。話の継ぎ目にコーヒーを飲むと、栄一君のお母さんもコーヒーを飲んで深呼吸していた。
「それでね――」
それまで流暢に話していた栄一君のお母さんの声のトーンが少し、低くなった。それで、ああ、本題だな――。と、持っていたコーヒーを置いた。




