千冬ちゃんとパパ2
千冬ちゃんはおふろに入って体が温まったのと、お父さんから連絡があったので、それまで緊張していた糸が切れたのか、途端に眠くなったようだった。
「パパ、すぐこれる?」
確認しながらも、目をこしこしとこすっている。
「千冬ちゃん、眠くなっちゃった?」
すぐにはこれないんだって、なんて言ったらがっかりしてしまうに違いない。話題を逸らしながら、千冬ちゃんの様子を見る。
「んー。ねむくない。パパくるなら、まってるから」
そう言って、きゅっと口を縛る。だけど、そうしている間も瞼がとろんと重そうだった。分かったよ、と返事をするともうすでに舟をこいでは、はっと目を覚ますのを繰り返していた。
これは、寝てしまうのは時間の問題だ。
千冬ちゃんがあどけない寝顔を見せたのは、それから10分もしないうちだった。眠ってしまった千冬ちゃんを抱き上げると、寝室に連れて行き、智の隣に寝かせる。あどけない二人の顔を見ながら、智の額にそっと触れた。
それにしても……と考える。先生がお父さん以外の連絡先を言わなかったのと、お父さん以外の連絡先に電話をしなかったところを見ると、千冬ちゃんの保護者はお父さんしかいないのだろう。しかも、頼れる親戚も近くにはいないってことだ。千冬ちゃんは父子家庭で、もしかしたらお父さんが忙しくて千冬ちゃんの毎日の世話が行き届いていないのかもしれない。お父さんが毎日これだけ仕事が遅かったなら、お風呂に入る時間もないだろうし、洗濯だって、そうこまめにしていられないだろう。部屋も散らかっているのだろうし。千冬ちゃんの毎日の生活を想像したら、なんとなく千冬ちゃんの寂しい気持ちを想像して胸が塞がる思いだった。
保育園を出るときの千冬ちゃんの言葉を思い出していた。他のお友達の親は時間になったら迎えに来るのに、自分のお父さんはいつも最後まで来ない。先生たちも「遅いね」って会話をすることもあるだろう。そのたびに千冬ちゃんは不安だったのかもしれない。お父さん、ちゃんと迎えに来てくれるかな。って。二の次三の次にされてしまう自分の存在に、自分がちゃんとお父さんに好かれているのか、不安になるのも無理のない話だった。
千冬ちゃんのことを考えていると、携帯電話から連絡が入った。千冬ちゃんのお父さんがもう着いたのかと思ったら、栄一君だった。
「今日、仕事終わったら連絡くれると思ってたんだけどー?」
出たらのっけから少しむっとした口調で投げやりに言われた。
あ……。
すっかり、忘れていた。そう言えば、残業で会えないとメールした後、終わったら電話するって言ったような、言わなかったような……?
「瑞希さん、終わったら電話するってメールにあったけど?」
う……。ズバッと心の中を読んだような、見事なセリフが返ってきた。
「えーっと、ごめん。ちょっと、いろいろ忙しくて……」
なにから話していいのか戸惑っていると、
「浮気?」
といきなり聞かれた。
……ちょ、いきなり何を言うですか……。
「違うよ!」
「ムキになるところが、怪しい」
「ムキになってないよ! 変なこと言うから」
慌てて訂正すると、栄一君がまあいいや、と呟いた。
「一緒に帰れなかったから、連絡あったらそっちに行こうと思ってたんだよ。会えなくて、俺は寂しいんですけど?」
少し拗ねたような口調で栄一君が言う。
「ごめん。あのね……」
事情を説明しようとした時、携帯に着信があった。
「あ、ごめん、ちょっと連絡待ってる人から連絡入っちゃった。一旦、切るね!」
「は? え? ちょっと……」
栄一君に待っててもらおうかと思ったんだけど、話しがすぐに終わるかもわからなかったので、とりあえず切ってしまった。後で、たくさん謝らないときっと機嫌治らないだろうな……と思いつつ、きっと、千冬ちゃんのお父さんからだろう電話に出る。
電話の主は案の定千冬ちゃんのお父さんからだった。
「今、仕事が終わって駅に着いたところです。こちらは車なので、お宅まで伺います」
そう言われたので、目印になりそうなものを伝えようとしたら、
「カーナビがあるので、住所がわかれば十分です」
と、パシッと言われてしまった。
「そうですか、じゃあ、お気を付けて」
そう言って電話を切ると、なんだかどっと疲れた。なんか、仕事の延長のような。せっかく今日は、コンビニバイトもなかったのにちっとものんびりできなかった。
栄一君にも会えなかったし。
それから20分くらい経ってから、インターホンが鳴った。出ると、30代くらいのスーツ姿の男性が立っていた。いかにもバリバリ仕事しますと言ったサラリーマンだ。
「鈴木です」
短く名乗ったその声は、電話の声よりも落ち着いていた。
「あ、お待ちしてました。どうぞ」
オートロックを解除して中に入ってもらう。家の前のインターホンがまた鳴らされて、玄関を開ける。千冬ちゃんのお父さんは、出てきた私の顔を一瞬じっと見てから、頭を下げた。
「千冬を預かっていただいて、ありがとうございました。娘を連れ帰ります。どこですか?」
用件だけを手短に言うその人は、てきぱきしていて、すごく堂々とした感じでいかにもやり手っぽいイメージだった。スーツの仕立てもいいし、なんて言うか、スマートな感じだった。
「それが、千冬ちゃん眠っちゃったんです。……あの、中へ、どうぞ」
中に促すと、千冬ちゃんのお父さんは「いえ、それには及びません。千冬は起こして構いませんから」と片手を挙げて固辞する。
「御主人がお戻りの時に、あらぬ誤解をされては困りますから」
至極真面目な顔をして、そんなことを言った。
その言葉に驚いてしまった。そうか。子どもがいるんだから主人がいると思うのは、当たり前のことだよね。自分の中でその観念がすっかり抜けていた。
「……あの、大丈夫です」
主人、いないんで。そう言おうと思ったけど、さすがにそれはやめておいた。なんか、安い昼ドラのセリフみたいだったから。
「そうですか?」
訝しげな顔をしながら私を見る。
「ええ。ご心配には及びませんので、よろしかったら、どうぞ。それに千冬ちゃんよく寝ているんで、抱っこして連れて行ってあげた方がいいと思いますし」
そう言うと、千冬ちゃんのお父さんは観念したようにネクタイを少し緩めると、「では」と中に入った。
リビングに通すと千冬ちゃんのお父さんは辺りをきょろきょろ見回して、千冬ちゃんを探していた。
「寝室で寝ているんです。あの、どうぞ」
そう言って寝室に促すと、寝室の明かりを最少に絞って付けた。部屋に入ると、二人とも相変わらずよく眠っている。
千冬ちゃんのお父さんは、布団を勢いよくめくると、千冬ちゃんの頬を叩いた。
「おい、千冬、起きろ! 帰るぞ!」
ぱんぱんと二回、千冬ちゃんの頬を叩いて、眠っている千冬ちゃんの体をごろりと手前に転がす。そのままベッドから落としてしまいそうな勢いだった。
「ちょ! それじゃ、千冬ちゃんがかわいそうですよ! せっかく寝てるのに!」
驚いてつい声を荒げてしまった私のことなど、まるっきり無視して千冬ちゃんに「おい!」と声をかけている。
「お父さん、寝かせてあげてください。千冬ちゃん、疲れているだろうから……」
「疲れる? この子は保育園で遊んで、こちらでお世話になってたんですよ? 疲れることなんてないでしょう」
そう言うと、無造作に千冬ちゃんの腕を掴んだ。
「あの、起こすにしてももう少し優しくしてあげてください。それじゃ、千冬ちゃんが痛そうです」
千冬ちゃんのお父さんの腕を掴んで制すると、彼は盛大なため息を吐いた。
「うちは父子家庭なんで、この子を甘やかすことは出来ないんですよ。これがうちのやり方なんです」
ぴしゃりとはねつけるように言われて、思わず手を引っ込めた。
なんかそのセリフ、私も同じようなことを言った覚えがある。……傍から聞いている方は、こんな感じなのかと思うとため息が出た。栄一君に言った時のことを思い出して、これじゃ、怒られても仕方ないよな……。と改めて反省してしまう。
「あの、うちも私一人で育ててるので、つい甘やかすことは出来ないって思ってしまいがちなんですけど……。本人にとって不可抗力なことに関しては、甘やかすと言った次元じゃないと思うんです。そういう時は、自分が楽したいだけじゃないのかなって一度考えることにしているんです。今回は、甘えてるわけじゃないですよね。だから……」
思わず千冬ちゃんを庇うようにして、千冬ちゃんのお父さんの腕を掴んだ。
すると、千冬ちゃんのお父さん――長いから鈴木さんと呼ぶことにした。鈴木さんは、ぱんっと腕を払いのけた。
「なんですか? 父子家庭だから碌に子育てもできていないとでも、おっしゃりたいんですか? 預かっていただいたことは感謝しておりますよ。でもね、説教される謂われはない」
ぴしゃりと撥ね退けられて、鈴木さんは不愉快そうに片眉を上げた。
「私は仕事で疲れているんです。家に帰ってまで、千冬に手を取られたんじゃ、休まる暇がないんでね。あなたも一人で育てているのなら、そこらへんもお判りでしょう」
鈴木さんの口調は穏やかだったけれど、顔は明らかに怒っていた。そして千冬ちゃんを見ると、忌々しげに舌打ちをしてから、仕方ないと言ったように千冬ちゃんを抱きかかえた。
「独身の方のお宅に長居するわけにもいきませんから、お暇しますよ。千冬をありがとうございました。交通費などは、これで精算してください」
玄関まで足早に進んでから、靴を履きながらそう言うと、靴箱の上に飾ってある花瓶の横に5千円を叩きつけるようにして置いていった。
「お金なんて、いりません!」
驚いて返そうとすると、鈴木さんはこちらを見ようともしなかった。
「お返しします!」
そう言っても受取ろうとはしない鈴木さんのスーツのポケットにお札を入れると、彼は再び舌打ちをした。
「感謝していますけど、恩を着せられるのはまっぴら御免なんでね」
その言葉に、カチンときた。
「別に鈴木さんのために千冬ちゃんを預かったわけじゃありません! 千冬ちゃんが一人で寂しそうだったからです。こっちこそ、あなたにそんなことされる謂われはないです!」
すると、鈴木さんはわざとらしく大きなため息を吐いた。
「私はね、借りを作るのが嫌なんですよ。特に、女性にはね。女ってのは、一つ借りを作るとどこまでも図々しくなる」
その言葉を自分の中で咀嚼してから、「はあ?」と呆れ声を出してしまった。
それって、私がこのことをきっかけに鈴木さんに言い寄ろうとするんじゃないかってこと?
な、何をうぬぼれているんだ!? この男は!
かなりカチーンと来て、絶句して言葉も出てこなかった。怒りで頭が真っ白になるっていうのを体感したのは、今回が初めてだ。それ以外のことで真っ白になったことは今までにも何度もあったけどさ。
怒っている私を尻目に、鈴木さんはさっさと玄関を出ていった。
あ! と思った時にはもう鈴木さんはいなかった。
……千冬ちゃんのお父さんが、あんなに感じ悪い人だとは思わなかった……。もっと気のいい、いかにもお父さんといった人を想像していたのに、ぜんっぜん違う! やり手の冷たい高慢な仕事人って感じで、ほんとに感じが悪い。ああ、私の嫌いなタイプだ……。っつか、今嫌いなタイプになったんだけどさー。
部屋には千冬ちゃんのカバンと靴が残されていた。
慌ててそれを手にとって、マンションを出ると、鈴木さんは目の前に止めた車に乗り、エンジンをかけているところだった。慌てて窓を叩くと、むっと眉をしかめた鈴木さんが、窓を開けた。
「まだ何か、言い足りないことでも?」
その言い方にむっとして、カバンと靴を持ち上げて目の前に突き出した。
「言ってやりたいことは山ほどありますけど、お忘れ物を届けに来ただけです!」
ふんっと鼻息を荒くしてそう言うと、鈴木さんは「ああ」と何事もないようにそれを手に取った。
「わざわざ申し訳ない」
私の方を見ずにそれだけ言うと、窓を閉めてさっさと車を出していった。
……な、な、なんて奴だ!
せっかく届けたのに、嫌味を言って、お礼もそこそこに走り出すとは!
走り去る車を見送りながら、ムカッ腹が立って仕方がない。あの可愛い千冬ちゃんが半分あんな奴でできているとは、思いたくない! と憤慨しながら、マンションへ戻った。
部屋に戻り、寝ている智を見るとほっとした。
そして、千冬ちゃんの不安げな顔を思い出す。千冬ちゃんはお父さんが優しいと言ってたけど、本当にそうなんだろうか。もしかしたら……と考えもしたけど、外の顔と家の顔が違う人なんて山ほどいるだろうし……とその時は能天気に考えていた。




