アクシデントは重なるもので
夏が終わり、私は相変わらずバイトの毎日を送っている。栄一君は二学期が始まって、またいつものように夕方の電車で私と智が帰るのを待っている。
あの日から、一緒にいたりするのが当たり前になっている。嬉しいような、ちょっと気恥ずかしいような気持ちだった。
で、今日は水曜日でコンビニバイトがないから、栄一君といつもより長く寄り道するつもりだった。……のに、伝票の打ち間違えが発生して、その訂正のお手伝いの残業をすることになってしまった。どうやら教えたばかりのバイトの子が全部同じ間違いをしていて、初めからすべて打ち直さないといけなくなった。
慌てて保育園に連絡して延長保育をお願いし、栄一君にはメールを送った。残念ながら、今日は夜デートはなしだ。
保育園には7時30分までしか延長が出来ないから、それまでには必ずお迎えをよろしくお願いします、と念を押された。
……それが、もう、7時20分。慌てて作業をやめて、智を迎えに行った。まだ残っていたけど、事情を話して残りは社員さんに押し付けることにした。自分のミスじゃないし、と心の中で言い訳しながら、罪悪感を覚えながらみんなに平謝りで仕事を上がる。走って保育園に行くと、帰り支度を済まされた智が下駄箱の前でちょこんと座っていた。
「先生、セーフ!」
と言いながら、息を切らせて駆け込むと、先生が小さく笑った。そして、私の後ろを覗き込むようにすると、首を傾けながら困ったようにため息を吐いた。
「もう、30分になりますよね」
ため息交じりの先生の呟きに、腕時計を確認すると、ちょうど30分になったところだった。
「ちょうど、30分ですよ?」
そう言うと、先生がもう一つため息を吐いて、智の横に座る女の子を見下ろした。
「どうしたんですか?」
腕組みをしながら渋い顔をしている先生に言うと、先生はうーんと一つ唸ってから、口元を押さえながらふうっとまた息をした。
「千冬ちゃん、お迎えがまだなんですよ」
玄関に掛けられている時計に目を向ける。ああ、そうだ。鈴木千冬ちゃんだ。座っていた女の子をもう一度見て、頭の中で名前を反芻した。どうも、異性のお友達の名前って憶えづらいんだよね。なんて考えていたら、千冬ちゃんが私のことをじっと見ていた。
「もう何回も同じことがあって……。本当は7時30分には園を閉めないといけないんです。それが、毎日遅れてこられて……。ちょっと困ってるんです……」
いつになく愚痴めいたことを言う麻子先生は、しばらくしてからはっと口を押えた。それから一瞬千冬ちゃんを見る。千冬ちゃんは今日みんなで作ったお制作の作品を手でいじりながら、俯いている。その様子を確認した先生は、ほっとするようにふうっと胸を押さえて息を吐いた。
「ええっと、今のことは、聞かなかったことにしていただけます……?」
困ったように呟く麻子先生に、同意を示すようにくすっと笑いかけた。麻子先生がこんな顔をするのはとても珍しい。本当に困っているんだろうな、というのは私でもわかった。
「ちふゆちゃん、パパ、今日どうしたんだろうね……」
先生が千冬ちゃんに声をかけると、千冬ちゃんは泣きそうな顔になった。
「パパ、ちふゆのことすきじゃないから、もうおむかえにこないかもしれない」
泣くのを堪えた顔で、千冬ちゃんがそうつぶやく。
「ちいちゃん」
泣きそうな千冬ちゃんを慰めようと、智が手を伸ばして頭をいい子いい子している。
「だいじょうぶだよ。さとるのママもわすれんぼうだけど、おむかえはちゃんとくるから。ちいちゃんのパパもくるよ!」
にかっと笑ってそう言う智に、先生は微笑みながらもすぐに目をそらし、ため息を吐いた。
「先生、何かお困りなんですか?」
そりゃ、所定の時間に迎えに来ないのはお困りだろうけど、そうじゃなくて、いつもよりも麻子先生がせっぱつまっているような感じがした。麻子先生は私の言葉に少し考えているようだったが、こらえきれずにといった様子で吐き出した。
「あの、今日主任先生がお休みなんです。いつもは、少し遅くなっても私か主任先生のどちらかがお迎えに見えるまで残っていたんですけど……。今日は、主任先生もいなくて、本当に困ってしまって……」
そう言われてみれば、いつもいるはずの年上の主任先生の姿が見えない。
「7時30分には施錠しないといけないんです、本当は。守衛さんは一応大目に見てくださってますけど……」
そう言って腕時計に目をやった麻子先生は、時計の針がもうとっくに30分を過ぎているのを知っているのに、眉間にしわを寄せた。
「それに、私も今日は用事があって、30分にここを出ないと間に合わないんで困ってるんです」
「何か、約束でもあるんですか?」
もしかして、麻子先生デート? なんて思っていると、麻子先生は間髪入れずに「いいえ」と呟いた。勢い込んで言ってから、バツが悪いような顔をして戸惑いながら、次の言葉を続けた。
「……実は、父が入院していまして、今日手術なんです。園が終わったらすぐに面会に行くつもりだったんです。それが、運悪く、主任先生が風邪を引いてしまわれて……」
「え!?」
そんな理由なら、麻子先生が急いでいるのも、こんなに困っているのも頷ける。
「手術自体は終わっているんで問題はないんですが、うち、父一人子一人なので、やはり目が覚めた時には側にいてあげたいというか……」
困った顔をして項垂れている麻子先生が呟く。
「ええ!? そんな理由なんですか!? それは、早く行ってあげた方がいいです」
麻子先生のお父さんが入院しているのも知らなかったし、先生が父子家庭なのも初耳だった。でも、そう言うことなら、麻子先生が困ってため息ばかりなのも頷ける。確か、病院の面会って9時くらいまでだよな、と考えながら、時計を確認した。
わたわたしながら腕時計を見ていると、麻子先生が首を横に振った。
「でも、千冬ちゃんを放っておくわけにはいきませんから……」
ちらりと視線を向けると、千冬ちゃんも所在無げに俯いている。あ、そっか。千冬ちゃんのお迎えが来ないと、先生、帰れないのか。まさか、時間が過ぎたから置いていきます、ってわけにはいかないだろうし。だから、ずっとため息をついていたんだ。
「あの……、そういうことなら、千冬ちゃんのお迎えが来るまで、私が預かりましょうか?」
恐る恐る提案すると、麻子先生がぱっと顔を上げた。ちょっと喜びの混じった表情で私を見ると、しばらくしてから落胆した顔になる。
「……お申し出は、とっても嬉しいんですけど、園の決まりで、保護者の方からの申し出がない限り、保護者以外にお子さんを引き渡すのは禁じられてますから」
杓子定規にそう言うと、麻子先生は小さく微笑んで私にお礼を言った。
「……」
私は少し、考えた。
そりゃ、普段だったらそんなこと言い出さないけど、麻子先生には早くお父さんの所へ行ってあげてほしい。しかも、園の最終預かり時刻も過ぎているわけだし……。
「あの、本来なら先生の勤務時間は終了されているはずなんですよね? だったら、千冬ちゃんのご両親に、お迎えに来られないのでうちに預けると連絡を入れるのはいかがでしょうか? もちろん、言い出したのは私なので、私の方からもその旨は説明させていただきますし。電話してそのままお話が出来れば、千冬ちゃんのお迎えが来るまで私、園の前で待ちます。保護者の方も、ご自分の事情で遅れているのですから、嫌とは言えないと思うんですけど」
そう言うと、麻子先生はでも……と困ったように呟いた。
その時、園の電話が鳴って、私たちは同じタイミングで、驚いて動きを止めた。
「多分、千冬ちゃんのお父さんです」
ぱっと顔を輝かせて、麻子先生が電話に向かう。振り返ると、智と千冬ちゃんは持っていたカバンから昼間作った折り紙を取り出して、動物ごっこをしているようだった。そんな様子を眺めていると、思いつめたような顔をして麻子先生がこちらへ戻ってきた。
「……南里さん、申し訳ないのですが、先ほどのお話、……お願いしてもよろしいでしょうか?」
さっきよりも思いつめた表情をした麻子先生が突然そう切りだしてきて、驚いた。
「ええ、それは構いませんけど……」
さっきまで頑なだった麻子先生がいきなり意見を変えたので戸惑ったけれど、もちろん申し出を断るつもりはない。それでも泣き出しそうなままの先生は、きゅっと口を結んでから真面目な顔をして私を見つめた。
「……電話が、病院からだったんです。手術自体は成功したそうなのですが、予定の時間になっても麻酔が切れないのか、父の意識が戻らないと……」
「え!」
一瞬絶句してから、慌てて麻子先生に詰め寄る。
「先生! ぐずぐずしてちゃだめです! 千冬ちゃんは私が見ます。だから、早く病院へ行ってください!」
そう言うと、麻子先生は「ありがとうございます」と言って、目を潤ませた。先生はすぐ職員室に向かって行った。きっと年度の初めに書かされた連絡票から千冬ちゃんの保護者へ電話をかけるのだろう。ガチャリと受話器を持ち上げる音が、扉越しに聞こえてきた。
「南里さん、すみません。千冬ちゃんのお父さんに連絡したんですが、留守電で連絡が取れません。お仕事先に連絡をしたんですけど、外へ出ているとのことで、いらっしゃらなくて。一応、保育園名と急ぎだということを伝えたら、会社からも連絡を入れてくださるとはおっしゃっていたんですが。とりあえず個人的な事情で、どうしても帰宅しなければならないので、同じクラスの南里さんにお子さんを預けていることと、南里さんのお電話番号を留守電に入れておきましたので、千冬ちゃんのお父さんから連絡があると思います。それと、念のため、千冬ちゃんのお父さんの連絡先をメモしておきました。個人情報保護のため、このメモは後日回収させていただきます。改めて、千冬ちゃんのお父さんには勝手に連絡先を教えてしまった非礼を私からお詫びします。なので、千冬ちゃんのこと、お願いします!」
ばっと先生は頭を下げた。
「任せてください。先生、早く支度して、お父さんの所へ行ってあげてください」
そう言うと、先生がありがとうございます、と涙ぐみながら言って、更衣室へ駆けこんでいた。
「千冬ちゃん、お父さんが来るまで、智と一緒にいようか?」
膝を折って、同じ高さに屈んで声をかけると、千冬ちゃんは一瞬ぽかんと口を開けてから頷いた。
「やった! あそぼう、ちふゆちゃん!」
智が喜んで片手を挙げて飛び上がると、千冬ちゃんも真似して飛び跳ねていた。こんな時でも子どもたちは楽しそうで、ちょっと羨ましいとすら思える。
園の前に三人でいると、先生が門に施錠して、こちらに挨拶に来た。千冬ちゃんのことお願いします、と私に行ってから、二人に「さようなら」と声をかけていた。「先生、お父様の意識が早く戻られるといいですね」というと、先生は小さく微笑んで、それから駅に向かって駆けて行った。
残された私達三人は、しばらくはその場で千冬ちゃんのお父さんが来るのを待つことにした。
しかし、8時を過ぎてもお父さんは現れず、千冬ちゃんの顔が少し、曇ってしまった。千冬ちゃんは遊んでいた手を止めると、ぽつりと「パパ、まだかなあ」と空を見上げる。
「お父さん、お仕事忙しいんだねえ」
「うん。おとうさん、いっつもこれくらいになっちゃうの。ちふゆ、いつもいいこでまってるんだよ」
そう言うと、千冬ちゃんがにかっと笑ってみせる。けなげなことを言う千冬ちゃんにほほ笑みを返しながら、驚いていた。千冬ちゃんの服装は、上下テイストもカラーも合わないちぐはぐな服装だったし、髪の毛も後ろがくしゃくしゃに絡まっている。お昼寝をしたから? と思ったけど、智の頭は普段と変わっていない。
「ママー、おなかすいた!」
智が私にまとわりつきながら言った。普段だったらもう食事を終えている時間だ。腕時計を見ると、もう8時半を過ぎていたのでそりゃおなかもへるだろう。
「そうだね。ママもおなかすいたな。千冬ちゃんもおなかすいたでしょ? なんか、食べに行こうか?」
今から帰宅して、食事を作ったらとんでもない時間になってしまうし、千冬ちゃんのお父さんが来るのを考えると、二駅離れたうちに連れて行くわけにもいかない。ファミレスとファストフード、どちららも変わらないけどどちらで食べようかと相談すると、子ども達はハンバーガーを食べたがった。
店内に入ると、クーラーが効いていて心地よかった。立ち仕事の後に門の前に立っていたから足がもうパンパンだった。とりあえず座れてほっとする。三人分のハンバーガーセットを頼むと、お腹を空かした子どもたちの目が輝いた。
「いただきまーす」
二人してハンバーガーにかじりついている子どもたちを見て、思わず微笑んでしまう。こぼれたハンバーガーのかすを拾いながら、時計を確認した。まだ、千冬ちゃんのお父さんからの連絡はなかった。もう時計は9時を回っていた。二人が一生懸命話している姿を聞きながら、適当に相槌を打ちながらこれからどうしようか考えていた。もしも千冬ちゃんのお父さんがすでにお迎えに向かっているのならば、連絡が全くないのはおかしい。ということは、まだ仕事中か、電話に出られない状況だということだ。だったら、まだ当分お迎えには来ないだろう。
「千冬ちゃん、智のおうちに遊びに来ない?」
にこっと微笑んでそう言うと、智が「いいの?」とぱっと顔を輝かした。
「お父さんのお迎えの時間が分からないから、千冬ちゃんはお迎えが来るまで智のおうちで一緒に待ってようか?」
そう言うと、千冬ちゃんはゆっくりと考えながら、
「パパ、さとるくんのおうち、しってるかな?」
と、不安そうにつぶやいた。
「うーん、おうちは知らないと思うんだけど、パパからきっと電話があると思うから、そしたらおうちの場所を教えてあげられるしね」
そう言うと、千冬ちゃんは安心したように、うんと頷いた。
実は、さっきから気になっていた。千冬ちゃんの様子が。服装と髪形だけじゃない。千冬ちゃんの体から、なんとなく汗が饐えたような匂いがしている。もしかしたら、お風呂に入ってないのかもしれない……と思えた。智も疲れてお風呂に入らないで寝てしまう時がたまにある。だけど、一日くらいじゃそんなに傍から匂うと感じるほど、男の子でも臭くはならない。千冬ちゃん、もしかしたらもう何日も入浴していないのかもしれなかった。それに、お洋服の汚れも気になった。子どもだから一日で服を汚してしまうことはあるだろうけど、そう言った感じではない。
「千冬ちゃん、お休みの日は何してるの?」
「えっとね、パパとおかいもの」
にっこりと笑う。
「そっか。一緒にお買い物に行くんだ」
「そうだよ、あのね、パパはね、おやすみのひはあさからすっごいごはんつくってくれるの。ちふゆもときどきおてつだいするの」
嬉しそうに言う千冬ちゃんの姿がかわいらしい。千冬ちゃんがお父さんが好きな気持ちが伝わってくる。
「そうかあ。いいねえ」
笑顔で頷いてあげると、千冬ちゃんもにっこりと笑う。
「千冬ちゃんは、パパが好きなんだね」
というと、千冬ちゃんがはにかんで見せた。千冬ちゃんの外見を見て、一つの懸念が浮かんでいた。もしかしたら、ネグレクトなのかもしれない……と。だけど、千冬ちゃんはお父さんのことを好きそうだし、ひどいことをされている様子はなさそうだったから少しだけ安心できた。
子どもたちを見ながら考えていると、二人はどうにか食べ終わったようで、空になったジュースの容器に挿してあるストローを噛んで遊んでいた。




