第62話 平野へ至る道筋
寝ていると、もう空が赤くなり始めていた。
時計を見ると、もう3時半だ。そろそろこの家の問題児も帰ってくるのだろう。
朝、パンを1切れ食べただけなので、さすがに腹が減った。今日ばかりは絶対に幸伶とは顔を合わせたくないので、今のうちに台所に行って何か持っていこう…。
俺は未だにまともに動かない体を無理やり起こして、1階に降りた。
やはり、まだあいつらは帰ってきていないらしい。
俺は適当に菓子パンを引っ張り出して、いつもの居間で封を開けた。
テレビはおろか、電気もついていないこの空間は、異様な静けさに包まれていた。その中で、壁掛け時計の駆動音だけがほんの少し鳴り響く。
少し前なら、ここにヒグラシやツクツクホウシの鳴き声も混じっていたのだが、それすらもない。
普段は聞こえない、自分のそしゃく音さえはっきりと聞こえてくる。
英春「…これが、俺が求めた静けさか…?」
そのとき、ふと思った。いつもいつも、頭ごなしに幸伶の賑やかさを否定していなかったか…?
俺は散々、静けさを追求した。その結果、どうだ?
今、俺が立っている状況は、まさに孤独。
去年までの、あの敵に囲まれた時とはまた違う、1人だけ取り残されたような気分。
そう考えると、菓子パンを食べる手が止まった。
それが手からちゃぶ台に落ちる時、友人たちの温かさが手からこぼれ落ちていくような気がした。
俺は、悔やんだ。自分では分からないが、もしかしたら、泣いたかもしれない。
とにかく、悔やんだ。
そうしている間も、日はどんどん沈み、やがて澄んだ空が織りなす夕日の輝きが、縁側から入り込んで居間の一角を照らした。
それそろ、幸伶たちが帰ってくる。普通なら、ここでしっかりと謝罪するべきなのだ。しかし、俺はその場から逃げるように2階の自室に駆け込んだ。
俺は、怖かった。幸伶たちの心情が。彼らは何を考えている?俺に失望したか?俺を部外者として扱うか?
考えたらキリがない。こればかりは、どうしても、不安要素として残り続ける。
怖くなって、俺は自室の布団の中で過ごしていると、玄関の引き戸を開ける音がした。
幸伶たちが帰ってきたのだ。
下では、一見するといつもどおりに聞こえる会話が耳に入る。が、どことなく普段とは違う雰囲気は感じ取れた。やはり、俺に対する悪い噂をしているのだろうか…。
しばらくすると、階段を登る音が聞こえてきた。
そして、俺の部屋がノックされる。
幸伶「英春くん………。」
望美「ヒデ…、少しいい……?」
俺はまた対人関係の恐怖を自分で勝手に感じて、返事ができなかった。
幸伶「英春くん、ってあれ、鍵が開いてる…。」
望美「え…、ちょっと、勝手に入っていいの…?」
幸伶「…本当はダメだけど、英春くんの返事がない以上、不安だし、入るしかないよ…。」
望美「だ、だよね…。」
その会話が聞こえたあと、戸が蝶番のきしむ音をたてて、ゆっくりと開いた。
幸伶「ひ、英春くん…。」
望美「ひ、ヒデ……。」
俺は、2人が入ってくる前に布団から出て、部屋にあった座椅子に座った。2人には、今、背を向けている。
さあ、俺は散々な物言いを言われる覚悟はできているぞ…。
…だが、幸伶が言い放った言葉は、俺の予想を覆した。
幸伶「ごめんなさい!!」
英春「……え……。」
何も考えずに、驚きの言葉が出た。幸伶特有の、少しふざけたような謝罪の仕方ではない。本気の謝りだった。
望美「私も、ごめんなさい。」
幸伶「ごめん、僕、英春くんがずっと苦しんでたこと、知らなかったんだ…。なのにあんなに騒いで、本当に、……ごめん……。」
望美「私も、ヒデに散々迷惑かけて…。」
そう言う2人の声は、少し震えていた。少しすると、すすり泣く声も聞こえてくる。
その状況に耐えられず、俺も自分の考えを乱さないためにも、発言した。
英春「…俺にも、悪目があった…。なんでも頭ごなしに否定した…。…俺も謝らせてくれ…。本当に、申し訳ない……。」
俺は、席を立ち、精一杯目をこすって涙を流す2人の前に立ち、深々と謝罪の意味を込めたお辞儀をした。
幸伶「…英春くん、顔を上げてよ…。」
望美「そうだよ…。」
英春「…ああ。」
お互いに、"許す"という言葉は発さなかった。だが、心の中では分かっている。
俺たちは、お互いの価値観を分かち合える。尊重し合える。
和城「…2人はなんとかなったのか…。」
疾照「…まずは一安心ですね…。」
英春「和城、疾照……。」
和城「僕も、謝らないといけない…。僕も…、悪ふざけをしてしまった自覚がある…。」
疾照「…私もです。日頃の何気ない言葉が、英春さんを苦しめていたんです。…本当に、すみませんでした。」
そう言って、申し訳なさそうにお辞儀をする2人に、俺は次の言葉をかけた。
英春「…もう済んだことだろ。…さっきも言った通り、俺にも悪い部分があった…。…これからは、お互いの意思を尊重し合う、それが共通認識で大丈夫か?」
幸伶「うん。」
望美「もちろん。」
和城「ああ。」
疾照「ええ。」
英春「そうか。なら、この話題はおしまいだ。さて、時間も時間だ。夕食にするか。」
望美「せっかくならさ、みんなで作ろうよ。疾照、今日の夕飯の献立なんだっけ?」
疾照「今日はグラタンの予定ですね。今季初ですよ。」
和城「うわ、よりにもよってそれかよ。」
英春「よし、ならとっとと準備するか。幸伶、お前は分量係な。」
幸伶「えー?僕もフライパン持ったりしたいよ!」
和城「パンを炭にする人間がフライパン持ったら火事起こすだろ。」
幸伶「あ、たしかに。」
疾照「認めるんですか…。」
望美「まあまあ。ほら、はやく台所に行こうよ。」
そうして、俺たちは、前よりも澄んだ気分で、笑い合うことができるようになった。
かろうじて残る夕焼けに照らされた秋咲きのコスモスが、妙に祝福しているかのように、風に揺られていた。




