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黎明は夜より出でて  作者: 伊勢谷照
第12章【咎無き罪人】

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第百三十五話 新たなる名Ⅱ


「お待ち下さい、叔父上─陛下」


 サイラスは権力を欲したことなどない。

 学者として、家族と共に慎ましくあの森で暮らす。自分のこの片腕が届く者を守って生きていく。それが己の目的であり義務だと彼は考えている。


「母の言うとおり、私はただの愚かな病人でございます。執政官となって、かつての兄のように民を導き陛下をお支えする資質など持ち合わせてはいないのです」


 執政官となり、大衆のために生きる。それは怪物と呼ばれた彼には出来ないことだ。クラヴィスのように他人を慮る心を持つ者こそが─


─いや


 サイラスは思い出す。思い出してしまう。ただただ戦に魅了された男が、国家の民草を照らす太陽として崇められ、神となったことを。


─できる。


 民を程良く騙し、持ち上げ、搾取し、都合の良いように操る方法を、サイラスは歴史から多く学んでいる。しかしやはり、国政に関わりたいとは思わない。レジナルドの存在が発覚する危険が増してしまうし、スノッリも都会の生活は合わないだろう。


「それに、私はこの身体でございますから…国家の第二人者という立場と権威は、片腕と片足にはあまりにも重すぎるのです」

「……では、その手足を使えば良い」

「は?」


 突然顎で差されたフロールフは、立場も忘れて顔をしかめた。


「その者を雑務や連絡を任せる役職として採用する。役職の名前は……クラヴィス、適当に考えておけ……」

「陛下、この者は解放奴隷ではございません」

「ならばすぐに解放しろ」


 テオドールの心はもう決まっていた。気怠げに座り、早く議論を打ち切りたくて仕方がないと言った様子である。こうなっては、どんな言葉も泥濘に柱を建てようとするようなもので、彼には届かない。


「はあ……報告に来ただけだというのに……文句ばかりだな」

「当然でしょうテオドール、突然議席すら持たない者を執政官にするなど、議会が許すはずがないのですよ」

「議会が許さずとも、私が許す。皇帝である私が」


 それは、ローランの根幹を揺るがす発言だった。皇帝という地位が生まれてもなお、ローランは共和制国家を名乗っている。あくまでも皇帝は議会と民を繋ぐ第一人者であるという考えを持っているからだ。たとえそれが、元老院を黙らせて独裁体制を敷くための方便だったとしても。


「陛下、今の言葉は聞き捨てなりません」


レイチェルが果敢に口を挟んだ。


「貴方様は、神君のご遺言を守るため、他氏族を排除し叔父様を執政官に任命なさろうとしているのでしょう。そんな貴方様が、神君の掲げた政治体制を否定するような御言葉を口にしてしまっては、アーノルド様と同じです。あの方は遺言を都合よく捻じ曲げ、禁じられていた領土拡大を行った。貴方様のご言い分ならば、アーノルド様はその咎で亡くなったのでしょう?」


 大叔父とはいえ皇帝を挑発するような言葉に、アルタイルは青ざめ、妹を庇うように前へと立った。


「陛下、申し訳ございません!」

「兄上、何を謝ることがあるのです!わたくしは何も間違ったことなど申しておりませんわ!」

「レイチェル、頼む!今は兄の言うことを聞いてくれ!」

「落ち着け、皆のもの」


 押し黙っていたクラヴィスが、ようやく口を開いた。


「アルタイルは23歳。エドガーは20歳、そしてデリラが産んだザロウ氏族の嫡子すらまだ21歳だ。国政を担うにはあまりにも若すぎる。サイラスよ、我々の甥にはまだ多くの学びと研鑽が必要だ。それは分かってくれるな?」

「ええ」

「勿論お前に負担をかけるつもりはない。あくまでも私の補佐、そしてアルタイルが一人前になる前の守役として、どうか力を貸してほしい」


 父の分まで頼み込むかのように、クラヴィスは膝に両手をつき、深く頭を下げる。


─他に選択肢はない、か。


 サイラスの33歳という年齢とて、執政官となるには脅威の若さだ。増して彼は議会の椅子に座ったことすらない。それでも、恐らく自分にも務まるだろう─という確信じみた予感はあった。 


─しかし、レジーは。


「旦那様」


 フロールフが、姿勢を直すふりをして身を屈め、低く囁く。


「これ以上固辞すれば、貴方の立場は悪くなるばかり。そして血に呪われたこの一族に、もはや選択肢は残されていないでしょう」


 その声は不思議と穏やかだ。レジナルドに解かれた呪いの下にあった決意を、彼は初めて主人に吐露した。


「私は、貴方様を、レジー様を、スノッリ様を、必ずお守りいたします。いつ、どこで、どの立場であったとしても」


 フロールフは、心の何処かで覚悟していた。 次々と男児が死に、それでもなお呪いを解くことのできない氏族の中で、主人が無視され続けるはずがないと。 

 背もたれに挟んだクッションから、柑橘類に似た香りがする。それはフィアナが好んで使う香水と同じ匂いだ。

 フロールフは、青ざめ口を引き結ぶフィアナをちらりと一瞥した。

 末の息子を怪物と罵りながら、密かに柔らかいクッションを用意する。そんな彼女が最も恐れていた事態が訪れたのだ。 

 結局のところ、この哀れな老女の子どもは等しく、血の因果からは逃げられないのだろう。しかしフロールフは彼の手足だ。どのような因果の渦の中でも、決して離れることはない。サイラスを守り、そして彼が愛するレジナルドとスノッリを守る。それこそ、己が豚小屋から出た意味だと─ようやく思うことができるようになった。


「私は貴方様の手足。貴方様が執政官にならざるを得ないのならば、私もまた、それに仕える何者にでもなりましょう」

「……ふ」


 サイラスはほんの微かに笑って、根負けしたように息を吐いた。


「頭をあげてください、クラヴィス様」


 そして、皇帝に向き直り不格好ながらも丁寧に礼をする。


「陛下、謹んで拝命いたします」

「……やっとか」


 テオドールは窓の外の日時計を見ると、テーブルの上のワインに口をつける。


アングィスという名は、些か格好がつかないな……」

「ゲイル兄上がつけてくださったのです。立てぬ私が蛇とからかわれていたとき、兄上は寧ろ、蛇の狡猾さや機能的な身体構造は素晴らしいものだと励ましてくださいました」

「サピエス」


 兄の思い出を残す名も、テオドールの前では砂の山に過ぎなかった。あっという間に捨てられてしまったそれを、追いかける暇も与えられない。


「サイラス・ドルス・サピエス。これからはそう名乗れ……」

「……承知いたしました」


 碩学サピエス。学者の称号として非常に誉れ高いそれを、喜ぶことはできなかった。


「姉上も、社交の場でサイラスを中傷するのはこれきりに……面倒なので」

「貴方が皇帝となったことは、ローランにとっての不幸ですよ」

「ええ、私にとってもね……しかし、他になり手がいなかったもので……はあ……ドルスが生きていれば」  


 かつて、人生を玉座へ向けて歪められた男は、ドルスの名を口にした途端、神経質な仕草でワインを飲み干した。 


「……ドルスがいれば……いや、そもそもアーノルド兄上が……」

「大叔父様?」


 ルーカスが、臆せず気遣わしげな言葉をかける。


「ドルスがいれば……私と妻は……」 

「父上、もうお帰りになりますか」

「なぜ……アーノルド兄上は……あのようなことを……あのような……」


 皆が顔を見合わせる。歳を重ねるたび、テオドールは無気力になり、そして時折不安定な発作を起こすことが増えてしまった。


「クラヴィス、温かいお茶をお出ししてあげましょう。ゲメッルス、奴隷を呼んできて」

「オレたちが淹れた方が早いですよ、叔母上」


 デリラが指示を出し、ゲメッルスは颯爽と立ち上がる。しかし、ドアを開けた瞬間にエドガーが悲鳴を上げた。転がるように後退り相棒の影に隠れた視線の先に、闇のような黒衣が広がる。


「ヴァネッサ……」


 誰からともなく名を呼ぶ。気鬱のためふせっていた筈の彼女は、乱れきった黒髪の下で、ジっとテオドールを見つめた。 


 



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