第八話 呼吸
息を吸うように、魔素を吸う。
最初にそう思ったのは、鑑定の日の夜だった。
宝珠に触れたとき、光が手のひらに吸い込まれていった。
あのとき、体の中に何かがすうっと流れ込んでくる感じがした。
冷たくて、細かくて、ざらざらしたもの。
それが魔素だとわかったのは、座学の後だ。
【魔素吸収】と【魔素放出】。
空器という、誰も知らない職業についていた、二つのスキル。
吸って、吐く。それだけ。
空気くん、と誰かが言った。
うまいことを言うな、と思った。自分でも、そう思ったから。
◇
夜の井戸の縁は、少しだけ冷たい。
兵舎の裏は、夜になると誰も来ない。
見張りの騎士さんも、ここまでは回ってこない。
だから、練習するにはちょうどいい。
両手を胸の前で合わせて、目を閉じる。
周りの空気に、意識を向ける。
魔素は、どこにでもある。
地面の近くは少し濃くて、井戸の水面の上はもっと濃い。
兵舎の壁際は薄い。昼間、たくさんの人が魔法の練習をしたせいかもしれない。
それを、ゆっくりと吸い込む。
最初の頃は、すぐにいっぱいになった。
自分の体と同じくらいの大きさの、見えない袋がある。そんな感じだった。
袋がいっぱいになると、それ以上はどうやっても入らない。
吸い込む速さも、ひどくゆっくりだった。一つ数えて、ほんの少し。
でも、毎日続けているうちに、気づいたことがある。
袋が、少しずつ大きくなっている。
昨日より、今日のほうが、たくさん入る。
一昨日より、昨日のほうが、速く吸える。
ほんの少しずつだけど、確かに。
それに気づいてから、練習は夜だけではなくなった。
朝、目が覚めたら吸う。
走りながら吸う。素振りをしながら吸う。
食事のときも、座学の間も、ずっと少しずつ吸っている。
吸って、いっぱいになったら、こっそり吐く。また吸う。
訓練では、相変わらずうまくいかない。
走ればすぐに息が上がるし、木剣はまだまっすぐ振れない。
でも、これだけは、やればやるほど伸びていく。
それが、少しだけ嬉しかった。
◇
吐くほうは、もっと難しかった。
吸った魔素を、手のひらから押し出す。
それだけだと、ふわっとした風が吹くだけだ。
実技の時間に笑われた、あのそよ風。
何度やっても、同じだった。
どれだけたくさん吸っても、吐き出すとそよ風になる。
たくさん吸ったぶん、少し長く吹くだけ。
変わったのは、相部屋の夜だった。
部屋には、四人いる。
僕と、下級の職業の二人と、シキくん。
シキくんは、不思議な人だ。
違うクラスの人らしいけれど、修学旅行の班で一緒だった記憶はない。
たぶん、僕が覚えていないだけだと思う。僕は人の顔を覚えるのが苦手だ。
無口で、目つきが少し怖い。
でも、意地悪なことは言わないし、僕が笑われているときも笑わない。
訓練では、いつも汗一つかいていない。
それに、鑑定の日の、あの火。
シキくんが指先に火を灯したとき、周りの魔素が動かなかった。
ほかの人が魔法を使うとき、魔素は必ず手のひらへ流れ込む。
でも、あの火の周りだけ、魔素がしんと静まり返っていた。
あれは何だったんだろう。
うまく言葉にできない。
見間違いだったのかもしれない。
「……おい」
その夜、寝台の上で吸う練習をしていたら、シキくんに声をかけられた。
「ランプ」
「え?」
言われて見ると、部屋の真ん中に置いたランプの火が、妙に小さくなっていた。
ほかの二人の寝台の側では普通に燃えているのに、僕のほうへ傾いた側だけ、ちろちろと弱々しい。
この部屋のランプは、油ではなく魔素で燃えている。
周りの魔素を少しずつ吸い込んで、火に変える仕掛けになっているのだと、ミーナさんが座学で教えてくれた。
王宮の灯りは、ほとんどがこの仕組みらしい。
そのランプの周りの魔素を、僕が先に吸ってしまっていた。
「あ……」
慌てて吸うのをやめた。
ランプの火が、少しずつ元の大きさに戻っていく。
「ご、ごめん」
「別に」
シキくんはそれだけ言って、寝台から起き上がった。
ランプのそばまで歩いていくと、身をかがめて、口をすぼめた。
ふっ、と短く息を吹く。
ランプの火が、一瞬で消えた。
魔素で燃えていても、火は火らしい。
「寝るぞ」
シキくんは、何事もなかったように寝台へ戻っていった。
暗くなった部屋で、僕は天井を見つめていた。
口をすぼめて、細く吹く。
当たり前のことだ。ろうそくを消すとき、誰だってそうする。
口を大きく開けて吹いても、火は消えない。
細く、強く吹くから、消える。
……細く。
◇
次の夜、井戸の縁で試してみた。
吸った魔素を、手のひらから出す前に、ぎゅっと握り込む。
手のひらの中の、もっと小さなところに押し込めるように。
それから、指の隙間から、細く押し出す。
ぱん、と小さな音がした。
井戸の脇の草が、根元から大きくしなった。
そよ風とは、まるで違う。
心臓が、どきどきした。
もう一度、やってみる。
今度は、もっと小さく。もっと固く。
ぱん。
井戸の縁に立てかけてあった桶が、かたん、と倒れた。
思わず、声が出そうになった。
それから毎晩、圧縮する練習を続けた。
小さく、固く押し込めるほど、吐き出したときの勢いは強くなる。
十日もすると、少し離れた場所の小石を弾き飛ばせるようになった。
空気の大砲、みたいなものだ。
ただ、わかっている。
これは、魔法じゃない。
実技の時間、風の魔法使いの職業を授かった子が、風の刃を飛ばしていた。
見えない刃が、木の的をすっぱりと切り裂いた。
魔素を風に変えれば、切ることもできる。真空を作って、相手の動きを止めることもできるらしい。
僕のは、ただ押すだけだ。
小石を弾くのがせいぜいで、的を切るなんてとてもできない。
それに、魔素を魔法に変えずに吐き出すと、その分だけ周りの魔素が濃くなる。
僕が吐いた直後は、近くにいる人の魔法が少しだけ強くなるらしい。
一度、実技の時間に試したら、隣の子の火が急に大きくなって、本人が驚いていた。
「うわ、なんか今日調子いい」
その子はそう言って、僕のほうは見なかった。
味方の魔法を、少しだけ強くできる。
でも、敵の魔法も、同じように強くしてしまう。
使いどころが、ない。
やっぱり、空気くんだ。
◇
それでも、一つだけ、誰にも言っていないことがある。
魔素が、見える。
見える、というのは少し違うかもしれない。
目を閉じていても、わかる。
どこが濃くて、どこが薄いのか。どっちからどっちへ流れているのか。
誰かが魔法を使おうとすると、その人のほうへ魔素が引き寄せられていくのが、手に取るようにわかる。
吸って、吐いて、を繰り返しているうちに、どんどんはっきりしてきた。
最初は、自分の周りのことしかわからなかった。
今は、広場の端から端まで、なんとなくわかる。
ほかの人も、みんなこれくらいわかっているんだと思っていた。
でも、たぶん違う。
実技の時間、ミーナさんが「魔素の流れを読んで」と言うと、みんな眉間に皺を寄せて目を閉じる。
そして、ほとんどの人が首をかしげる。
あんなにはっきり流れているのに。
……そういえば。
井戸の縁で練習していた夜に、一度だけ。
渡り廊下の柱のあたりで、魔素が少しだけ乱れていたことがある。
誰かが立っているときの、乱れ方だった。
振り向かなかった。
誰だったのかは、わからない。
もし、灯だったら。
灯は、今は大魔導士だ。
みんなに頼られて、毎日すごい魔法を撃っている。
噂は、こっちの兵舎まで聞こえてくる。
僕のことを気にしている暇なんて、ないはずだ。
気にしてほしいとも、思わない。
思わない、はずだ。
◇
「明日、出発だ」
召喚されてから、ちょうど一月が経った日の夕方。
訓練の終わりに、広場に全員が集められた。
上級の組も、中級と下級の組も、一緒だった。
ベルンハルト団長が、前に立っている。
「東部の大森林へ向かう。三日かけて森の入り口まで行き、そこで野営する。森に入るのは、四日目の朝だ」
学生たちの間に、緊張が走った。
「お前たちは、この一月でよく鍛えた。上級の者は、森の魔物程度なら後れを取ることはない。中級、下級の者は、騎士団員と組んで動け。勝手な真似はするな」
団長の目が、ゆっくりと全員を見渡した。
「魔物は、訓練の的とは違う。向こうも、生きるために必死だ。それだけは覚えておけ」
解散になって、みんながざわざわと動き出した。
前のほうに、灯がいた。
天城くんと何か話している。
一度だけ、こっちを振り返った気がした。
僕は、手のひらをそっと握った。
中に、魔素が溜まっている。
召喚されたばかりの頃より、ずっとたくさん。
これで何ができるのかは、まだわからない。
でも、吸うことだけは、やめずにいようと思った。




