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第七話 夜風

 手のひらの上で、炎が渦を巻いていた。


 両手で抱えるほどの大きさだ。

 赤く、それから橙色に揺れて、熱が頬をじりじりと焼いている。


「そのまま。息を止めないでください」


 セオドールさんの穏やかな声が、すぐ後ろから聞こえた。


「魔素を押し込もうとしないこと。集まってくるのを待って、受け止めるだけでいいんです」


 言われたとおりに、肩の力を抜いた。


 手のひらに向かって、細かい砂のようなものが流れ込んでくる。

 最初の頃は、何もわからなかった。

 今は、それがどこから来て、どこへ逃げていくのか、少しだけわかる。


 逃げていく分を、指先でそっとすくい上げるように。


 炎が、一回り大きくなった。


「……そこまで。放ってください」


 腕を前に突き出す。

 炎の塊が、訓練場の奥に立てられた石の的へまっすぐ飛んでいった。


 轟、と音がした。


 的の表面が黒く焦げ、ひびが走る。

 熱い風が、遅れてこちらまで吹きつけてきた。


「お見事です、灯さん」


 セオドールさんが、手を叩いた。


「中級の火炎魔法を、ここまで安定して撃てるとは。正直に申し上げて、私が同じことをできるようになったのは、魔法師団に入って三年目でした」


「い、いえ、そんな」


「謙遜はいりませんよ。魔素の扱いが、日に日に良くなっています」


 顔が熱いのは、たぶん炎のせいだけではない。


 ◇


 この世界に来て、二週間と少しが過ぎた。


 私たち上級の職業を授かった者は、王宮の奥にある訓練場で指導を受けている。

 石畳はきれいに掃き清められ、周りは手入れの行き届いた植え込みに囲まれていた。

 休憩のたびに冷たい果実水が運ばれてきて、昼食には柔らかいパンと肉の煮込みが出る。


 部屋も一人一部屋だった。

 大きな寝台に、ふかふかの布団。窓からは庭園の噴水が見える。

 最初の夜は、あまりに豪華すぎて逆に眠れなかった。


「灯、すげぇな今の」


 休憩の時間に、久我くんが果実水の杯を片手に声をかけてきた。


「的、割れてたぞ」


「割れてはないよ。ひびが入っただけ」


「同じようなもんだろ」


 久我くんは、それだけ言うと、また訓練場の端へ戻っていった。

 ベルンハルト団長が、木剣を担いで待っている。


 剣士の組の訓練は、私たちとは全然違った。


 天城くんと久我くんは、毎日ベルンハルト団長と打ち合っている。

 最初の頃は二人がかりでも簡単にあしらわれていたのに、今は何本かに一本、団長の木剣を弾き返せるようになった。


「天城、今の踏み込みはよかった。次は、もう半歩深く入れ」


「はい」


「久我、受けた後の返しが遅い。見切りのスキルに頼りすぎるな」


「……っす」


 天城くんの木剣が、光をまとった。

 聖剣技というスキルらしい。木剣なのに、打ち合うたびに白い火花が散る。


 セオドールさんの話では、二人とも身体強化の魔法を使っているのだという。

 本人たちは、魔法を使っている自覚がまったくないらしいけれど。


「団長、次は何をすればいいですか」


 打ち合いが一段落すると、天城くんは決まってそう聞いた。

 ベルンハルト団長が型を示すと、天城くんはそれを、言われた回数どおりに、正確に繰り返す。

 久我くんも、聖騎士の子も、弓聖の子も、みんなそうだ。


 言われたことを、言われたとおりにやる。

 それで、みるみる強くなっていく。


 すごいことだと思う。

 ただ、ほんの少しだけ、学校の小テストみたいだな、と思ってしまった。


 答えのわかっている問題を、順番に解いていくような。


 ……私だって、同じかもしれないけれど。


 ◇


「本日は、儂が代わりを務めますでな」


 その日の午後、訓練場に現れたのはセオドールさんではなかった。


 灰色の長い衣に、杖。

 鑑定のときに宝珠を運ばせていた、あのおじいさんだった。

 セオドールさんは、王宮での会議に呼ばれているらしい。


「大魔導士殿。先ほどの炎、遠目に拝見しておりました」


「あ、ありがとうございます」


「一つだけ、よろしいかな」


 おじいさんは、杖の先で石畳を軽く叩いた。


「魔素を集めるとき、手のひらばかりを見ておられる。それでは、手のひらに届いた魔素しか扱えませぬ」


「え……」


「魔素は、空気のようなもの。手のひらに来る前から、もう流れておりまする。その流れを、少し遠くから見てごらんなされ」


 言われた意味が、すぐにはわからなかった。


 もう一度、手のひらを前に向ける。

 目を閉じて、手のひらではなく、その先の空気に意識を向けた。


 ……流れている。


 訓練場の植え込みのほうから、細い川のように魔素が流れてくる。

 手のひらに届く前に、その流れに沿って、少しだけ引き寄せる。


 炎が、さっきよりもずっと速く膨らんだ。


「ほう」


 おじいさんが、白い髭をしごいた。


「呑み込みが早うございますな。結構、結構」


 それだけ言うと、おじいさんはほかの子のほうへ歩いていった。


 手のひらの上の炎を見つめる。

 さっきまでと、同じ量の魔素しか集めていないはずなのに、炎が一回り大きい。


 魔素を無駄なく使えるかどうかは、職業とセンスで決まる。

 座学で、ミーナさんがそう言っていた。


 職業は、もう変えられない。

 でも、センスなら。


 ◇


「ねえ、聞いた? 空気くんの話」


 夕食の席で、隣に座った女の子が言った。

 治癒術師の職業を授かった、同じクラスの子だ。

 彼女は上級ではないけれど、治癒の魔法は貴重だからと、時々こちらの訓練にも呼ばれている。


「魔法の実技でさ、そよ風しか出なかったんだって。みんな大爆笑だったらしいよ」


「……そう、なんだ」


「職業も『空器』でしょ? ほんとに空気じゃん、って」


 悪気はないのだと思う。

 ただの噂話だ。教室でも、こういう話はいくらでもあった。


「でも、魔素の流れはすごく感じ取れてたって、ミーナさんが」


「え、そうなの?」


「……たぶん」


 自分で言っておきながら、声が小さくなった。

 ミーナさんから直接聞いたわけではない。透の組にいた子が、そう話しているのを小耳に挟んだだけだ。


 女の子は「ふうん」と言って、すぐに別の話を始めた。


 私は、皿の上の肉をつついた。


 透とは、もう何日も話していない。


 座学の日に、少しだけ顔を見た。

 手を振ったら、会釈だけ返してくれた。

 それきりだ。


 会いに行こうと思えば、行けるのだと思う。

 兵舎はそれほど遠くない。


 でも、行ってどうするのだろう。


 透は、昔から何も言わない。

 困っていても、つらくても、助けてとは言わない。

 小学生の頃、上級生に絡まれていたときも、「大丈夫」と言って笑っていた。

 結局、私が先生を呼びに行った。後で、少しだけ怒られた。「余計なことしないでよ」と。


 それに、今の私には、ここでやらなければいけないことがある。


「灯ちゃん、明日の朝、また魔法の練習見てくれない?」


「あ、うん。いいよ」


「やった。灯ちゃんの説明、ミーナさんよりわかりやすいんだよね」


 頼られている。

 大魔導士になってから、みんなが私に話しかけてくれるようになった。

 魔法のことを聞かれたり、相談されたり。


 あと二週間もすれば、森へ魔物を狩りに行く。

 みんなが怪我をしないように、私が強くならなければいけない。

 帰るために、魔王を倒さなければいけない。


 ◇


 夜、眠れなかった。


 部屋の窓を開けると、冷たい風が入ってきた。

 庭園の噴水の音が、かすかに聞こえる。


 少し歩こうと思って、部屋を出た。

 見張りの騎士さんに会釈をして、回廊を抜ける。

 気づくと、王宮の端の、兵舎が見える渡り廊下まで来ていた。


 兵舎の裏に、井戸がある。


 その井戸の縁に、誰かが座っていた。


 月明かりで、眼鏡が光った。


 透だった。


 透は、両手を胸の前で合わせるように構えていた。

 目を閉じて、じっと動かない。

 しばらくすると、合わせた手のひらをそっと開いた。


 ふわ、と夜の空気が揺れた。


 井戸の脇に生えた草が、少しだけなびいた。

 それだけだった。


 透は、また手のひらを合わせた。

 目を閉じる。開く。草がなびく。

 何度も、何度も。


 声をかけようとして、口を開いた。


 ……でも、声は出なかった。


 透は、一人で練習している。

 誰にも見られないように、こんな夜中に。


 それを見られたと知ったら、透はきっと嫌がる。

 昔みたいに、「余計なことしないで」と言われるかもしれない。


 私は、渡り廊下の柱の陰で、しばらく透を見ていた。


 透の周りの空気が、かすかに渦を巻いている。

 昼間に私が集める魔素とは、何かが違う気がした。

 どこが違うのか、私にはわからなかった。


 やがて、私はそっとその場を離れた。


 部屋に戻って、寝台に潜り込む。

 ふかふかの布団が、今日はなぜか少し重かった。

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