第六話 魔法
訓練が始まって四日目の朝、俺たちは初めて兵舎ではない建物に集められた。
王宮の西の端にある、石造りの細長い部屋だ。
長机がいくつも並び、正面の壁には大きな板が掛けられている。
窓から差し込む光で、舞い上がった埃がきらきらと光っていた。
これからは、体の訓練と並行して座学も行うらしい。
驚いたことに、部屋には上級の連中もいた。
天城、久我、灯。聖騎士に弓聖。
前のほうの机にまとまって座っている。
数日ぶりに見る顔は、どれも少しだけ引き締まっていた。
「なんであいつらもいんの」
「座学は全員一緒なんだってさ」
後ろの席で、誰かがひそひそと話していた。
灯がこちらを振り返り、透の姿を見つけて小さく手を振った。
透は軽く会釈を返しただけだった。
「はい、皆さん席についてください」
部屋の正面に、若い女が立った。
深い青の衣を着ている。魔法師団の団員らしい。
年は二十を少し過ぎたくらいだろうか。髪を後ろで一つにまとめ、手には分厚い本を抱えていた。
「今日の座学を担当します、魔法師団のミーナです。団長は別のお仕事があるので、今日は私が代わりに務めます」
ミーナは本を机に置き、正面の板に白い石で大きな円を描いた。
「まずは、魔法の仕組みからお話しします。剣を使う職業の方も、聞いておいてください。実は皆さんにも関係のある話なので」
◇
「この世界の空気には、魔素が満ちています」
ミーナは、円の中に小さな点をいくつも描き込んだ。
「目には見えませんし、ほとんどの人は感じることもできません。でも、確かにそこにある。私たちが魔法を使うときは、この魔素を集めて、別の形に変えているんです」
円の横に、炎の絵が描かれる。
「火の魔法なら、集めた魔素を火に変える。水の魔法なら、水に。風の魔法なら、風に」
ミーナは、炎の絵の横に、少しずつ大きくなる炎を三つ描き足した。
「より強い魔法、上の等級の魔法を使おうとすれば、それだけたくさんの魔素が必要になります」
「じゃあ、いっぱい集めればいいだけ?」
髪を染めた男子が、手も挙げずに聞いた。
ミーナは苦笑した。
「それが、そう簡単でもないんです。集めた魔素が、全部魔法になるわけではありません。ふつうは、集めた魔素の二割ほどしか魔法として形になりません。慣れた人で三割。とてもセンスのある人でも、五割くらいでしょうか」
「残りは?」
「散ってしまいます。どこへ行くのかは、よくわかっていません」
なるほど、と思った。
地獄の釜で湯を沸かすとき、薪をどれだけくべても、熱の一部は外へ逃げていく。
たぶん、それと同じようなものだ。
ただ、八割も逃げるとなると、ずいぶん効率の悪い釜だ。
「どれだけ無駄なく魔素を魔法に変えられるかは、二つのことで決まります」
ミーナは、指を二本立てて見せた。
「一つは、職業。その魔法に合った職業を授かっている人ほど、魔素を無駄なく使えます。火の魔法使いなら火の魔法、水の魔法使いなら水の魔法、というふうに」
ミーナが、もう一本の指を折った。
「もう一つは、その人自身のセンスです。魔素を感じ取る力と、それを扱う力。これは生まれ持ったものもありますし、訓練で伸ばすこともできます」
部屋の何人かが、頷きながら板を見ている。
「つまり、魔法そのものは、この世界の誰にでも使えます。剣士の方でも、です」
「え、マジ?」
「ただし」
ミーナが、少しだけ声を強めた。
「剣士の方がどれだけセンスに恵まれていても、魔法の職業を授かった人の魔法には、まず敵いません。とてもセンスのいい剣士が、センスのない魔法使いの初級魔法と同じくらいなら出せるかもしれない。その程度です。やっぱり、職業とスキルの力は大きい」
俺は職業もスキルも持っていない。
この世界の理屈で言えば、俺の魔法は無駄だらけになるはずだ。
その代わり、多少強い火を出したところで、「センスがあるんだろう」で済まされる。
悪くない。
「それから、剣を使う方々」
ミーナは、前のほうに座る久我たちを見た。
「皆さんも、実はもう魔素を使っています。体を強くしたり、剣の切れ味を上げたりするのは、身体強化や武器強化という魔法なんです」
久我が、少し意外そうに自分の手のひらを見た。
「剣士や騎士の職業の方は、こうした魔法をとても身につけやすいんです。自分の体や、手に持った武器にだけ働く魔法なので、魔素もあまり使いませんし、扱いも簡単です。慣れてしまえば、ほとんど意識しなくても使えるようになります。魔法を使っている、という感覚すらない方も多いですね」
「最後に、スキルについて」
ミーナは、板の隅に小さく文字を書き足した。
「スキルは、鑑定で授かったものだけではありません。訓練を積めば、後から新しいスキルを身につけることもあります。どうすれば身につくのか、はっきりしたことはわかっていません。ただ、職業に合ったスキルほど身につきやすい。センスがあって、訓練に励んで、感覚を掴んだ人ほど、新しいスキルに目覚めやすいと言われています」
部屋の空気が、少しだけ変わった。
特に後ろのほう、中級や下級の連中の目の色だ。
今は地味な職業でも、頑張ればどうにかなるかもしれない。そういう顔をしている。
透は、ずっと黙って板を見ていた。
◇
昼までは、地図の勉強だった。
前に王女が見せたものよりも、ずっと細かい地図だ。
特に、東部の大森林のあたりが詳しく描かれている。
「森に入るのは、この西側の入り口からです。ここから川沿いに進むと、少し開けた場所に出ます。迷ったら、まず川を探してください。川に沿って下れば、必ず森の外に出られます」
ミーナが、指で川の流れをなぞった。
「森の奥、この辺りから先は、強い魔物が出ます。訓練では入りません。覚えておいてください」
地図を見ながら、学生たちが慌てて書き留めている。
俺は書くものを持っていないので、頭に入れておくことにした。
地獄の区画を覚えるより、よほど簡単だ。
「あの、一つ聞いていいですか」
灯が手を挙げた。
「この国って、昔からこの大きさなんですか。地図を見ると、大陸のほとんどが王国みたいなので」
ミーナの手が、一瞬止まった。
「……今の形になったのは、私がまだ小さい頃ですね」
ミーナはそう言って、すぐに地図へ視線を戻した。
「歴史のことは、また別の機会にお話ししましょう。今日は森のことを覚えていただかないと」
灯は「わかりました」と言って手を下ろした。
ただ、納得した顔ではなかった。
俺も、少し引っかかった。
今の形になった、ということは、前は違う形だったということだ。
◇
午後は、外の広場で魔法の実技だった。
上級の連中は、別の訓練場へ移っていった。
残ったのは、いつもの中級と下級の面々だ。
ミーナと、魔法師団の団員が数人、それに見張り役のロイドがついている。
「まずは、魔素を感じてみましょう」
ミーナが、全員を輪になって座らせた。
「目を閉じて、肌で空気を感じてください。風とは違う、細かいものが流れている感じがしたら、それが魔素です。わからなくても大丈夫。初めはほとんどの人がわかりません」
言われたとおり、目を閉じた。
わかるも何も、ここに来た初日から感じている。
肌の上を、細かい砂がさらさらと流れていくような感触だ。
ただ、改めて集中してみると、それだけではなかった。
流れには、濃いところと薄いところがある。
広場の真ん中は薄く、木陰のほうは少し濃い。
輪になって座った学生たちの周りでは、魔素がかすかに渦を巻いている。
地獄の妖気を読むのと、そう変わらない。
慣れてしまえば、こちらのほうが素直なくらいだ。
「……あの」
小さな声がした。
目を開けると、透が手を挙げていた。
「なんか、ざらざらしたのが、こっちからこっちに流れてる……気がします」
透は、木陰のほうから広場の中央へ、指でゆっくりと線を描いた。
ミーナが、目を丸くした。
「初日で、流れの向きまでわかるんですか?」
「……たぶん」
「すごいですね。魔法師団の新人でも、そこまで感じ取れる人はなかなかいませんよ」
学生たちが、ちらりと透を見た。
ただ、その目に感心の色はなかった。どうせまぐれだろう、という顔だ。
「では、次は実際に魔法を使ってみましょう。手のひらに魔素を集めて、自分の職業に合った形に変えてみてください」
ミーナが手本を見せた。
手のひらの上に、ぽっと小さな火が灯る。
俺は、その手元をじっと見ていた。
ミーナの手のひらに向かって、周りの魔素が細く流れ込んでいく。
集まった魔素が、ある一点でくるりとねじれ、火に変わる。
その瞬間、集まった分の大半が、霧のように散っていった。
火になったのは、三割といったところか。
周りの学生たちが、次々と手のひらを構えた。
何も起きない者がほとんどだ。
たまに、ちろちろと小さな火花が散ったり、手のひらがほんのり湿ったりする程度だった。
俺も、手のひらを上に向けた。
今度は、鬼気は使わない。
周りの魔素を、ミーナがやっていたように手のひらへ寄せる。
砂を掌に掬い集めるような感覚だ。
集める量は、少なめにしておく。
集まったところで、さっき見たねじれを真似て、くるりと回す。
手のひらの上に、火が灯った。
大きさは、ろうそくより少し大きいくらい。
揺れもせず、まっすぐに立ち上っている。
ただ、やはりこぼれる。
集めた魔素のうち、火になったのは半分ほどだった。
残りは、ねじれる前に指の間から逃げていった。
鬼火なら、こんな無駄は出ない。
「おお、シキくん、安定してますね」
ミーナが、少し驚いたように言った。
「初級の火の魔法使いなら、まずはこれくらいできれば十分ですよ。火がぶれないのは、いいことです」
「はあ」
「火の魔法使いって、そんなもんでしょ」
近くの学生が、どうでもよさそうに言った。
周りもすぐに、自分の手元に目を戻した。
それでいい。
視線を感じて顔を上げると、広場の端でロイドが腕を組んでこちらを見ていた。
目が合うと、何も言わずに肩をすくめた。
「では、透くんもやってみましょうか」
ミーナに促されて、透が両手を前に出した。
透の手のひらに、魔素が集まっていくのがわかった。
速さはゆっくりだ。ただ、集め方がやけに丁寧だった。
こぼれる量が、ほかの誰よりも少ない。
透が、集めた魔素を手のひらから押し出した。
ふわ、と風が吹いた。
前に座っていた学生の前髪が、少しだけ揺れた。
それだけだった。
一拍置いて、誰かが吹き出した。
「空気くんが、空気出した」
「そよ風じゃん」
「扇子のほうが強いって」
笑い声が広がる。
透はうつむいて、手を下ろした。
ミーナが慌てて「最初は誰でもこんなものです」と言ったが、笑いは収まらなかった。
俺は、透の手のひらを見ていた。
あいつが集めた魔素は、量こそ少なかったが、ほとんど漏れていなかった。
ただ、何にも変えずにそのまま吐き出したから、そよ風にしかならなかった。
回廊を、灰色の衣の老人が通りかかった。
足を止めて広場をしばらく眺め、また杖をついて歩いていった。
俺は手のひらの火を消して、さっきの話を思い返していた。
ふつうは二割。センスがあって五割。
もし、集めた魔素を一つ残らず火に変えられたら。
初級の魔法でも、とんでもない火になるだろう。
……まあ、そんな芸当ができる奴がいれば、の話だが。




