第九話 初陣
王都を出て三日目の夕方、俺たちは大森林の入り口に着いた。
森は、思っていたよりも静かだった。
背の高い木々が壁のように連なり、その奥は昼間でも薄暗い。
風が吹くたびに、葉擦れの音が波のように遠くまで広がっていく。
騎士団は森の手前の草地に天幕を張り、その夜はそこで休んだ。
焚き火を囲む学生たちの顔は、どれも少し硬かった。
上級の連中だけは、どこか浮き足立っているようにも見えたが。
◇
四日目の朝、森に入った。
隊はいくつかの組に分けられていた。
上級の連中は、騎士団長と魔法師団長が直々に率いる。
中級と下級は、騎士団員を一人か二人ずつつけた小さな班に分けられた。
俺の班には、透と、相部屋の下級の二人がいた。
引率は、ロイドだ。
「よろしくな。ま、気楽にいこうぜ」
ロイドは相変わらず鎧の留め具を半分外したまま、欠伸を噛み殺していた。
俺たちには、訓練用ではない本物の剣が配られていた。
魔法の職業の者も、身を守るために一本は持たされる。
腰に下げると、ずしりと重い。
金棒に比べれば、小枝のようなものだが。
森の中は、外とは空気が違った。
魔素が濃い。
肌の上を流れる砂の感触が、王都にいたときよりもずっとはっきりしている。
奥へ進むほど、さらに濃くなっていくのがわかった。
「……濃い」
隣を歩く透が、小さく呟いた。
誰に言うでもない声だった。
「奥のほう、もっと……」
透はそこで口をつぐみ、また黙って歩き出した。
俺たちは川沿いの道を進み、少し開けた場所に出た。
地図で見た場所だ。
ここを拠点にして、それぞれの班が周りで魔物を狩ることになっている。
開けた場所の反対側には、上級の連中の姿があった。
◇
最初に魔物と出くわしたのは、上級の組だった。
茂みを割って、緑色の小さな影が飛び出してきた。
子どもほどの背丈。尖った耳に、黄色く濁った目。手には錆びた短剣を握っている。
ゴブリンだ。
三匹、四匹、五匹。
甲高い声を上げながら、まっすぐ天城たちのほうへ駆けていく。
「来るぞ!」
天城が剣を抜いた。
剣身が、白く光った。
踏み込みと同時に、光をまとった剣が横に薙がれる。
先頭のゴブリンが、声を上げる間もなく二つに分かれた。
久我が、その脇を駆け抜けた。
二匹目のゴブリンの短剣を軽く弾き、返す刀で首を落とす。
動きに、迷いがない。
「下がって!」
灯の声がした。
灯の手のひらから、炎の塊が放たれた。
残りのゴブリンがまとめて炎に呑まれ、悲鳴を上げて転がる。
焦げた匂いが、こちらまで漂ってきた。
あっという間だった。
「すっげ……」
「天城、今の見た? 真っ二つだったぞ」
「楽勝じゃん!」
上級の組から、歓声が上がった。
髪を染めた男子が、剣を振り上げて叫んでいる。
「魔法剣士、最強! 次、次はどこだ!」
天城は、自分の剣を見下ろしていた。
剣身から、まだ光の粒がこぼれている。
その顔に浮かんでいたのは、戸惑いよりも、高揚だった。
ベルンハルト団長が「浮かれるな」と一喝し、学生たちは慌てて隊列を組み直した。
灯だけが、少し離れたところで、焼け焦げたゴブリンの死骸を見つめていた。
唇を、きつく結んでいる。
◇
俺たちの班の相手は、もう少し小さな魔物だった。
草むらの中で、半透明の塊がぷるぷると揺れている。
スライムというらしい。
動きは鈍いが、体に触れたものを溶かしてしまうので、素手で触るなとロイドに言われた。
「核を狙え。真ん中の、濁ってるところだ」
下級の二人が、剣を握ったまま固まっていた。
一人は剣先を震わせ、もう一人は青い顔で後ずさっている。
俺は、手のひらに魔素を集めた。
ろうそくより少し大きいくらいの火を、スライムの真ん中に放る。
核がじゅっと音を立てて焼け、スライムの体がどろりと崩れた。
「おお、さすが火の魔法使い」
ロイドが、気の抜けた拍手をした。
次に出てきたのは、犬の頭をした小さな亜人だった。
コボルトだ、とロイドが言った。
汚れた毛皮をまとい、牙を剥いて唸りながら、棍棒を振り上げて向かってくる。
俺は剣を抜いた。
一歩踏み込んで、首筋に刃を入れる。
手応えは軽かった。
コボルトは、棍棒を振り下ろす前に地面に倒れた。
剣を振って血を払う。
死ぬのは、終わりではない。
この世界でどうなっているのかは知らないが、少なくとも六道では、死んだ魂は次へ行く。
悪さをしていれば、その報いを受ける。
それだけのことだ。
顔を上げると、下級の二人が、俺を見て固まっていた。
「……シキ、お前、平気なの?」
「何がだ」
「いや、何がって……」
片方が、口元を押さえて茂みのほうへ走っていった。
すぐに、吐く音が聞こえてきた。
ロイドが、俺のほうをちらりと見た。
何も言わなかった。
◇
昼過ぎ、拠点に戻ると、あちこちで同じような光景が広がっていた。
興奮した顔で、倒した魔物の数を自慢し合う者。
黙り込んで、焚き火の前でじっとしている者。
顔色の悪いまま、水を何杯も飲んでいる者。
意外なことに、平気な顔をしている者のほうが多かった。
特に上級の連中は、ほとんどが浮かれていた。
天城は騎士たちに囲まれて、剣の扱いを褒められている。
髪を染めた男子は、ゴブリンを何匹倒したか、指折り数えて大声で話していた。
灯は、その輪から少し外れたところに座っていた。
膝を抱え、手のひらをじっと見つめている。
顔色が悪い。
それでも、次の班分けの声がかかると、灯は立ち上がった。
一度深く息を吐いて、また杖を握り直す。
◇
午後の狩りは、上級の組と俺たちの班が、近い場所で動くことになった。
川から少し離れた、木々のまばらな斜面だった。
「おい、透。お前も一匹くらいやってみろよ」
同じ班の下級の一人が、からかうように言った。
午前中に吐いていたほうだ。
自分のことを棚に上げて、もう調子を取り戻したらしい。
透は何も言わず、剣を握っていた。
そのとき、斜面の上の茂みが揺れた。
灰色の影が、三つ。
狼に似ているが、普通の狼よりも一回りは大きい。
苔むしたような深い緑の毛並みに、背中の毛が針のように逆立っている。
目が、濁った黄色に光っていた。
「フォレストウルフだ。固まれ!」
ロイドが剣を抜いて前に出た。
だが、三匹は、ロイドのほうには来なかった。
まっすぐ透に向かって駆け下りてきた。
弱い獲物を、見分けているのだ。
「透!」
透が、とっさに片手を前に突き出した。
ぱん、と乾いた音がした。
先頭のフォレストウルフの鼻先が弾かれ、一瞬たたらを踏んだ。
だが、それだけだった。
すぐに体勢を立て直し、牙を剥いて飛びかかった。
俺は、地面を蹴ろうとした。
その前に、赤い光が走った。
炎の塊が、透の目の前を横切った。
飛びかかったフォレストウルフが炎に呑まれ、悲鳴を上げて斜面を転がり落ちていく。
続けて二発目、三発目。
残りの二匹も、あっという間に火に包まれた。
斜面の上に、灯が立っていた。
杖を構えたまま、肩で息をしている。
顔は真っ青だった。
俺は、踏み出しかけた足を止めた。
「透、大丈夫!?」
灯が斜面を駆け下りてきた。
透は尻もちをついたまま、焦げたフォレストウルフの死骸を見つめていた。
「……大丈夫」
「怪我は? 噛まれてない?」
「大丈夫だって」
透は、灯の手を借りずに立ち上がった。
そのやり取りを、周りの学生たちが見ていた。
「うわ、大魔導士に助けてもらってる」
「空気くん、守ってもらえてよかったね」
「てか、何もできてなくない? ぱんって言っただけじゃん」
誰かが笑い、それに釣られて何人かが笑った。
灯が、そちらを振り返った。
口を開きかけて、閉じる。
透は、うつむいたまま剣を拾い上げた。
何も言わなかった。
「ほら、散れ散れ。まだ狩りの途中だろうが」
ロイドが手を叩いて、学生たちを追い払った。
灯も、上級の組から呼ばれて、何度か透を振り返りながら斜面を上っていった。
◇
夕方、拠点に戻ると、騎士たちが倒した魔物を一か所に集めていた。
ゴブリン、コボルト、フォレストウルフ。
数を数え、牙や耳を切り取って、袋に詰めていく。
ロイドが、ゴブリンの死骸の一つを足でひっくり返した。
そのゴブリンは、弓を握っていた。
木を削っただけの粗末な弓だが、矢筒には何本も矢が残っている。
隣のゴブリンの手には、節くれだった杖があった。
杖の先に、濁った石がはめ込まれている。
「……アーチャーに、メイジか」
ロイドが、無精髭の生えた顎をさすった。
「こんな浅いところで見るのは、珍しいな」
「珍しいんですか」
「ああ。こいつらは普通、もっと奥にいる。群れを作るような連中だからな」
ロイドは、森の奥のほうへ目をやった。
夕暮れの木々の向こうは、もう暗くて何も見えない。
俺も、同じほうを見た。
魔素が、濃い。
朝よりも、さらに濃くなっている気がした。
少し離れたところで、透も森の奥を見つめていた。
その横顔は、ひどく強張っていた。




