第十話 盾
異変に気づいたのは、夜明け前だった。
森の中の拠点で、俺は天幕の外に座っていた。
眠る必要は、もともとあまりない。
見張りの騎士が焚き火のそばで船を漕いでいるのを横目に、森の奥の気配を探っていた。
魔素の流れが、変わった。
昨日まで、森の奥から浅いほうへ、ゆっくり押し出されるように流れていた魔素が、急に乱れた。
何かが大勢で、こちらへ向かって動いている。
その動きに引きずられて、魔素が波のように揺れていた。
俺は立ち上がって、見張りの騎士の肩を揺すった。
「起きろ。何か来る」
「……あ? なんだ、お前……」
騎士が寝ぼけた目をこすった、そのときだった。
ひゅん、と風を切る音がした。
焚き火のそばの地面に、矢が突き立った。
「敵襲!」
騎士が叫んだ。
拠点のあちこちで、天幕が揺れ、怒鳴り声が上がる。
◇
茂みを割って現れたのは、ゴブリンではなかった。
背丈は大人の男ほど。
ゴブリンと同じ緑がかった肌だが、肩も腕も分厚く盛り上がっている。
手には錆びた大剣や、丸太を削った棍棒。
黄色く濁った目が、薄暗がりの中でぎらりと光った。
「ホブゴブリンだ!」
ベルンハルト団長の声が、拠点中に響いた。
「十、いや、それ以上いるぞ! 戦えぬ者は下がれ! 上級の者は騎士と組んで当たれ! 騎士団、前へ!」
ホブゴブリンたちが、雄叫びを上げて突っ込んできた。
その後ろから、矢が降ってくる。
昨日ロイドが見つけたのと同じ、粗末な弓を持ったゴブリンが、木の陰に何匹も潜んでいた。
さらにその奥で、杖を掲げたゴブリンが、何かを唱えている。
ただ群れているのではない。
前に立つ者、射る者、唱える者。
役割が分かれていた。
「天城、久我! 左へ回れ! 魔法使いは後ろから援護!」
団長が指示を飛ばす。
天城が剣を抜き、光をまとわせて駆け出した。
「はあっ!」
光の剣が、ホブゴブリンの大剣とぶつかった。
昨日のゴブリンなら、それで終わっていた。
だが、ホブゴブリンは押し返した。
天城の足が、ずるりと後ろに滑る。
「なっ……」
天城が体勢を崩した隙に、別のホブゴブリンが横から棍棒を振り下ろした。
天城はかろうじて身をひねってかわしたが、肩をかすめた棍棒に吹き飛ばされ、地面を転がった。
「天城!」
久我が割って入った。
見切りのスキルで、振り下ろされる大剣を紙一重でかわす。
返す刀でホブゴブリンの腕を斬りつけた。
浅い。
ホブゴブリンは傷口を見もせずに、反対の腕で久我を殴りつけた。
久我がよろめく。
そこへ、木の陰から矢が飛んできた。
「くそっ……!」
久我が剣で矢を払い落とした。
だが、その一瞬で、目の前のホブゴブリンに間合いを詰められていた。
一対一なら、たぶん勝てる。
剣聖も勇者も、一匹ずつなら敵ではないはずだ。
だが、相手は一匹ずつ来てくれない。
一匹が受け止めている間に、もう一匹が横から叩く。
隙ができれば、後ろから矢が飛んでくる。
訓練場で、騎士団長と一対一で打ち合っていた連中には、初めての戦い方だろう。
「魔法剣士、最強……って、うわっ、うわあっ!」
髪を染めた男子が、ホブゴブリンに追い回されていた。
剣に炎をまとわせて振り回しているが、腰が引けていて当たらない。
棍棒が肩をかすめ、男子は悲鳴を上げて地面に倒れ込んだ。
騎士が二人がかりで割って入り、ようやくホブゴブリンを押し戻した。
◇
「お前ら、固まれ! 背中合わせだ!」
ロイドの声がした。
俺たちの班は、拠点の端に追いやられていた。
ロイドが前に立ち、下級の二人が震えながら剣を構えている。
透は、その後ろにいた。
一匹のホブゴブリンが、こちらに目をつけた。
大剣を引きずりながら、まっすぐ下級の二人に向かってくる。
ロイドは、別のホブゴブリンと切り結んでいた。
手が離せない。
「う、うわあああっ!」
下級の一人が、剣を放り出して尻もちをついた。
ホブゴブリンが、大剣を振り上げる。
俺は、手のひらに魔素を集めた。
いつもより、少しだけ多く。
集めた魔素を、手のひらの一点でくるりとねじる。
訓練のときは、半分ほどが指の間からこぼれていた。
今回は、こぼさないように握り込んだ。
手のひらの上に、拳ほどの火の玉が生まれた。
放る。
火の玉は、ホブゴブリンの顔面にまともに当たった。
ごう、と音を立てて、炎が頭全体を包み込む。
ホブゴブリンは大剣を取り落とし、両手で顔をかきむしりながら、獣のような悲鳴を上げて地面をのたうち回った。
しばらく転げ回ったあと、動かなくなった。
……少し、強すぎたか。
「……おい」
自分の相手を斬り伏せたロイドが、こちらを振り返った。
息を切らしながら、俺の手元と、焦げたホブゴブリンを交互に見る。
「今の、初級か?」
「必死だったので」
「……ふうん」
ロイドは、それ以上は何も言わなかった。
「シキ、お前……火の魔法使い、意外とやるじゃん……」
尻もちをついていた下級の男子が、呆然と呟いた。
「初級ってあんな出るもんなの……?」
「知らん。たまたまだ」
俺は、次のホブゴブリンのほうへ目を向けた。
◇
拠点の中ほどで、灯が杖を構えていた。
灯の前には、ホブゴブリンが一匹。
炎の魔法を一発浴びたらしく、片腕が焼け焦げている。
それでも、怒り狂ったように灯に向かって突進していた。
灯のすぐ後ろに、透がいた。
いつの間にか、班からはぐれて灯のそばまで来ていたらしい。
「灯!」
透が叫んだ。
「右! 魔法が来る!」
「えっ……」
灯が右を見た。
木の陰で、杖を持ったゴブリンが、こちらに杖先を向けていた。
俺にも、見えた。
メイジの杖の先に、周りの魔素がぐんぐん吸い込まれていく。
だが、目に見える光はまだ何もない。
見えているのは、魔素の流れだけだ。
透は、それを読んだのだ。
灯が、とっさに杖を前に突き出した。
「守って……!」
灯の前に、淡く光る盾が浮かび上がった。
薄い硝子のような、半透明の盾だ。
次の瞬間、メイジの杖から、黒ずんだ炎の塊が放たれた。
それと同時に、透が灯の背中に手をかざした。
透の手のひらから、魔素が押し出される。
昨日のそよ風とは違う。細く、固く絞られた流れが、灯の盾のすぐ後ろに注ぎ込まれていく。
盾が、ぐっと厚みを増した。
炎の塊が、盾に当たった。
轟音が響き、熱風が四方に散る。
盾にひびが走った。
だが、割れなかった。
「……固い?」
灯が、驚いたように呟いた。
その隙に、焼け焦げたホブゴブリンが突っ込んできた。
盾を回り込み、灯に向かって棍棒を振りかぶる。
「灯、下がって!」
透が、灯の脇から片手を突き出した。
ぱん、と鋭い音がした。
圧縮された魔素の塊が、ホブゴブリンの膝を打った。
ホブゴブリンの足が、がくりと折れる。
振り上げた棍棒が、空を切った。
灯は、その一瞬を逃さなかった。
杖の先から放たれた炎が、膝をついたホブゴブリンを正面から呑み込んだ。
ホブゴブリンは、そのまま仰向けに倒れた。
灯が、肩で大きく息をしている。
透は、灯の後ろで、自分の手のひらをじっと見つめていた。
「さすが大魔導士……」
「盾で防いで、一撃って……」
近くにいた学生たちが、灯を見て呟いていた。
透のほうを見ている者は、誰もいなかった。
◇
戦いが終わったのは、日が昇りきる頃だった。
拠点には、十数匹のホブゴブリンと、それより多いゴブリンの死骸が転がっていた。
騎士たちは鎧のあちこちがへこみ、何人かは腕や脚に布を巻いている。
学生たちは、地面に座り込んだまま動けない者がほとんどだった。
天城は、肩を押さえて木にもたれかかっていた。
顔は青ざめ、唇が切れている。
その目からは、昨日の高揚がすっかり消えていた。
久我は、刃こぼれした剣を見つめたまま黙っていた。
髪を染めた男子は、治癒術師の女子に腕を手当てされながら、ずっと震えていた。
治癒術師の女子は、休む間もなく怪我人の間を走り回っている。
「……全員、生きてるな」
ベルンハルト団長が、拠点を見回して言った。
その声は、ひどく疲れていた。
「今日の狩りは中止だ。怪我人の手当てが済み次第、森を出る」
誰も、反対しなかった。
俺は、拠点の端で森の奥を見ていた。
魔素の乱れは、まだ収まっていない。
さっきの群れがやって来た方角の、さらに奥。
そこで、何かがまだ、大勢で蠢いている。
さっきの十数匹よりも、ずっと多い。
隣に、透が来ていた。
透も、同じほうを見ていた。
「……まだ、いる」
透が、小さく呟いた。
俺は、何も答えなかった。
今のは、たぶん先触れだ。




