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第一話 出発

 出発は、翌日になった。


 ゴウキから金棒を返してもらい、持ち場の引き継ぎを済ませた。

 異世界に行くと話したら、ゴウキは三回聞き返してきて、四回目に「土産は食い物でいいぞ」と言った。

 帰ってくる前提で話してくれるのは、まあ、ありがたい。


 閻魔様に言われた場所は、閻魔庁のずっと奥だった。


 裁きの間を抜け、書庫を抜け、さらに細い廊下をいくつも曲がる。

 進むにつれて灯りが減り、床の埃が濃くなっていく。

 何百年も誰も通っていないような道だ。


「こっちこっち。足元気をつけてね」


 前を行く閻魔様の声が、天井に反響した。


 歩く、と言っていいのかはわからない。

 閻魔様の体は廊下に収まりきらず、背中を丸め、両手を床について、半分這うようにして進んでいる。

 それでも頭が天井をこすり、ときどき砂がぱらぱら落ちてくる。


「閻魔様、場所だけ教えてもらえれば一人で行けますよ」


「いやいや、見送りくらいさせてよ。お前さんを知らない世界に送り出すんだから」


「……膝、大丈夫ですか」


「大丈夫じゃないよ。明日絶対痛いよ」


 それでも閻魔様は止まらなかった。

 こういうところは、昔から変わらない。


 突き当たりの古い扉を、閻魔様が肩で押し開ける。

 中は天井の高い、がらんとした部屋だった。窓も家具もない。

 床一面の埃の中に、門が一つだけ立っている。


 黒い木でできた、鳥居に似た門だ。高さは俺の背の三倍ほど。

 柱には見たことのない文字がびっしり彫られていて、かすかに光っていた。

 門の向こうには、ただ部屋の壁が見えるだけだ。


「ずっと昔に作ったきり、誰も使ってなかった門なんだけどね。鏡で見つけた道に、つないでおいたよ」


「通れば向こうに着くんですね」


「着くはずだよ。たぶん」


「たぶん」


「わしも通ったことないからね。通れないし」


 聞かなければよかった。


 閻魔様は懐から、紐で綴じた薄い冊子を取り出した。

 閻魔様の指先では豆粒みたいだが、受け取ると俺の手にちょうどいい大きさだった。


「これ、閻魔帳の一部を写した副本ね。向こうに行った魂のことは、ここに書いてあるから。困ったら見るように」


「わかりました」


 冊子を懐にしまう。

 ちらりと見えた中身は、几帳面な字で埋まっていた。

 閻魔様が自分で写したのかもしれない。寝ていないと言っていたのは、これのせいか。


「それとね、シキくん。その格好のまま行っちゃだめだよ」


「だめですか」


「だめだよ。角の生えた大男が金棒担いで出てきたら、向こうの人がびっくりしちゃうでしょ」


 言われてみればそうだ。


 閻魔様は、手のひらほどの小さな鏡を俺の前に差し出した。

 浄玻璃の鏡を小さく写した複製らしい。


 鏡の中に、若い人間たちが映っていた。

 車輪のついた細長い箱の中で、揃いの紺色の装束を着て、天井から下がった輪につかまったり、座って喋ったりしている。

 屋敷のような箱が、牛も馬もなしに道を走っているように見えた。


「……なんですか、これ」


「今の現世の乗り物だよ。それより、乗ってる子たちを見て」


「若いですね。揃いの格好してますけど、どこかの家の使用人ですか」


「学生だよ。今の現世じゃ、このくらいの年の子はみんな学び舎に通ってるの。この子たちは、学び舎のみんなで旅をしてる最中みたいだね」


 現世もずいぶん変わったらしい。


「鏡で向こうを見張ってたらね、ちょうど異世界に呼ばれかけてる子たちがいたんだよ。門の行き先は、この子たちに合わせておいた。同じ格好をしておけば、紛れ込めると思うんだよね」


「つまり、俺もこれになれと」


「そう。シキくんも学生になって」


 簡単に言ってくれる。


 とはいえ、できないわけじゃない。

 俺は鏡に映る男子の姿をよく見てから、目を閉じた。

 体の奥に意識を向けて、ゆっくりと姿形を変えていく。


 額の角が、皮膚の下に沈んでいく。

 骨が軋み、背が縮む。肩幅が狭くなり、腕が細くなる。

 赤黒かった肌の色が抜けて、獄卒の着物が紺色の上着とズボンに変わった。


 最後に、担いでいた金棒を握りしめる。

 手の中でみるみる小さくなって、親指ほどの鉄の飾りになった。

 それを上着の内側にある物入れに押し込む。


 目を開けると、閻魔様がずいぶん遠くに見えた。

 いつもよりさらに見上げないといけない。


「おお、いいじゃない。どこから見ても普通の学生だよ」


「……落ち着かないです」


 自分の手を見る。細くて、白くて、頼りない。

 これで亡者を殴ったら、こっちの拳が折れそうだ。


「顔はちょっと怖いけどね」


「元からです」


「向こうでは、鬼だってことは内緒にしておいてね。何があるかわからないから」


「はい」


「あと、無理はしないこと。ちゃんと食べること。揉め事を起こさないこと」


「三つ目は、向こう次第です」


「だよねぇ」


 俺だって、好きで揉め事に首を突っ込んでいるわけじゃない。

 向こうから勝手にやってくるのだ。毎回。


 閻魔様は苦笑いして、門のほうに目をやった。

 その横顔が、一瞬だけ険しくなった気がした。


「……向こうの連中が、話のわかる相手だといいんだけどね」


「連中?」


「ん? いや、何でもないよ」


 閻魔様は髭をしごいて、いつもの顔に戻った。

 気にはなったが、聞いたところで答えてくれる気はしない。

 この方がはぐらかすときは、だいたい聞かないほうがいい話だ。


「頼んだよ、シキくん。できるだけ早くね」


「はい。行ってきます」


 門の前に立つ。

 柱の文字が、脈を打つように明るくなったり暗くなったりしていた。


 一歩、踏み出す。


 くぐった瞬間、足元の床が消えた。

 体がふわりと浮き、上も下もわからなくなる。

 目の前が白い光で塗りつぶされて、目を閉じてもまぶたの裏まで真っ白だった。


 遠くで、鐘のような音が鳴っている。


 どれくらいそうしていたのか、わからない。

 ふいに、足の裏に硬いものが触れた。


 ◇


 まず、匂いが違った。


 地獄の焦げついた匂いがしない。

 乾いた石と、甘い香の匂いがする。


 目を開けると、広い部屋だった。


 天井ははるか上にあり、太い石の柱が何本も並んでいる。

 壁の高いところには色硝子がはめ込まれ、差し込む光が床に赤や青の模様を落としていた。

 足元には複雑な線と文字が重なった大きな円が描かれていて、その光がゆっくりと薄れていく。


 そして、その円の中に、紺色の装束を着た人間がたくさんいた。


 ざっと二十人以上。鏡に映っていた学生たちだ。

 床に座り込んでいる者、ふらふら立ち上がる者、隣の奴にしがみついている者。

 誰もが同じ顔をしていた。何が起きたのか、まるでわかっていない顔だ。


「バス……バス、どうなったの?」


「すごい揺れて、ガラス割れて、そしたら急に光って……」


「なにここ。え、夢?」


 あちこちから声が上がる。

 バスというのは、たぶんあの箱の乗り物のことだろう。

 どうやら、あれが事故を起こしたらしい。


「みんな、落ち着いて!」


 ひときわよく通る声が響いた。


 円の真ん中あたりで、背の高い男子が立ち上がっていた。

 整った顔立ちで、こんな状況なのに声が震えていない。

 周りの学生たちが、自然とそいつのほうを向いた。


「天城くん……」


「怪我してる人はいない? 動ける人は、周りの人の様子を見てあげて」


 天城と呼ばれた男子の隣に、肩幅の広い男子が並んだ。

 短く刈った髪に、日に焼けた顔。

 こっちは落ち着いているというより、腹を括った顔をしている。


「翔、班ごとに人数確認したほうがいいだろ。違うクラスの奴も乗ってたし」


「そうだな。久我、手伝ってくれ」


 群れの頭はあいつか。

 亡者でも何でも、こういう奴が一人いると集団はまとまる。


 俺は円の端のほうで、なるべく目立たないように立っていた。


「……あれ?」


 すぐ隣にいた女子が、俺の顔を見て首をかしげた。


「えっと、ごめん。何組の人?」


 クミ。何の組だろうか。

 わからないので、名前だけ答えておく。


「……シキ」


「シキくん? 違うクラスの人か。同じバスだったんだね」


 その隣の女子が、肩をすくめた。


「てか、今それどころじゃないって」


「あ、そっか。ごめんね」


 それで終わった。

 二人はもう、別のほうを向いている。

 案外簡単に誤魔化せた。


 閻魔様、やり方は雑だけど、読みは当たってましたよ。


 ほっとして周りを見回したとき、円の反対側の端に、一人だけぽつんと立っている男子が目に入った。


 痩せた体に、目にかかるくらい伸びた前髪。

 床に落ちた眼鏡を拾い上げて、黙ってかけ直している。

 誰もそいつに声をかけない。そいつの周りだけ、人がいない。


「透!」


 学生の間をかき分けて、女子が一人駆け寄っていった。

 高い位置で髪を一つに結んだ、表情のはっきりした子だ。


「大丈夫? 怪我してない?」


「……灯。うん、平気」


「よかったぁ……」


 近くにいた何人かが、ちらりと二人を見た。

 誰かが小さく笑う声がした。


 天城が、一瞬だけそちらに目をやった。眉がわずかに寄る。

 けれど何も言わず、すぐに人数の確認へ戻った。


 群れの外にいる奴は、どこにでもいる。

 ああいうのに関わると、たいてい面倒なことになる。

 俺は見なかったことにして、視線を前に移した。


 円を囲むように、銀色の鎧を着た男たちが並んでいた。

 腰には剣。兜の隙間から、俺たちを値踏みするような目が覗いている。

 数はざっと三十。


 その向こう、数段高くなった場所に、金と赤で飾られた大きな椅子があった。


 座っているのは、白いものの混じった髭をたくわえた男だ。

 頭には金の冠。肩に毛皮をあしらった外套。

 顔つきは穏やかだが、目の奥だけが妙に鋭い。


 その隣には、淡い色の髪を背中まで伸ばした若い女が立っていた。

 青い衣を纏い、胸の前で両手を組んでいる。学生たちとそう変わらない年に見えた。

 俺たちを見つめる顔は、安堵しているようにも、何かを堪えているようにも見える。


 王と、その娘。そんなところだろう。


 冠の男が、ゆっくりと立ち上がった。


 騎士たちが一斉に姿勢を正す。

 鎧の擦れる音に、学生たちが口をつぐんだ。

 円の光が、最後の輝きを残して消えた。


 男は両腕を広げ、よく通る声で言った。


「異世界の皆様方、よくぞ参られた」


 ……まあ、俺は呼ばれてないんだけどな。

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