プロローグ
地獄の朝は早い。
……と言いたいところだが、地獄に朝はない。
空はいつ見ても煤けた赤色で、遠くの火山が火を噴いたときだけ少し明るくなる。
その明るくなった頃合いを、俺たち獄卒が勝手に「朝」と呼んでいるだけだ。
等活地獄、第三区画。今日の俺の持ち場だ。
「放せ! 放さんか、この下郎がぁっ!」
金棒の先で背中を押さえつけている男が、さっきからずっと吠えている。
生前はどこぞの国で一軍を率いた将だったらしい。
罪状は略奪と虐殺。村をいくつ焼いたか本人も覚えていないそうだ。
そういう奴に限って、地獄に来てもまだ自分が偉いと思っている。
「わしを誰だと思っておる! 百の戦場を生き抜いた――」
「知ってる。台帳に書いてあった」
「ならば頭が高い!」
「お前の頭のほうが低いだろ。今、地面にめり込んでるし」
ぐぎぎ、と男が歯を食いしばった。
次の瞬間、押さえていた金棒がわずかに浮いた。
お、と思う。
死んで魂だけになっても、生前の力が残っている奴はたまにいる。
この男もそういう手合いだったらしい。
背中の筋肉が盛り上がり、俺の金棒を押し返しながら立ち上がろうとしてくる。
「ぬぅぅぅ……おおおおっ!」
周りで罰を受けていた亡者たちが、手を止めてこちらを見た。
新人の獄卒が二人、慌てて駆け寄ってくる。
「シキさん! 加勢を――」
「いい。持ち場に戻れ」
男が完全に立ち上がった。俺より頭ひとつ大きい。
見下ろして、勝ち誇ったように笑う。
「ふはは! 鬼といえどこの程度か! わしは地獄すら――」
言い終わる前に、金棒を横に振った。
男の体が真横に飛んでいき、針の山に突き刺さった。
三十間ほど先だ。少し飛ばしすぎた。
しんと静まり返ったあと、亡者たちが一斉に作業に戻った。
誰も目を合わせてこない。新人二人は直立不動になっている。
「あれ、回収しといてくれ。あと刑期に暴行の分を足しといて」
「は、はいっ!」
ため息をついて、金棒を肩に担ぎ直した。
獄卒になったばかりの頃は、ああいう亡者に何度も殴り返された。
強い魂は本当に強い。
生前に国を興した奴、戦で千人斬った奴、死んだあと怨霊になって都に雷を落とした奴。
しかし、そういう連中を相手に罰を与えるのが獄卒の仕事で、こっちが負ければ地獄の秩序がなくなる。
だから鍛えた。殴られて、殴り返して、また殴られて。
気づけば、俺に向かってくる亡者はほとんどいなくなっていた。
「おーい、シキ!」
声のほうを見ると、同僚の赤鬼ゴウキが手を振りながら走ってきた。
図体のわりに足が速い。
「どうした。脱走か?」
「違う違う。閻魔様がお呼びだ。……また何か厄介事だろ、お前を呼ぶってことは」
「やめろ。縁起でもない」
「使いの奴、えらく急いでたぞ」
嫌な予感しかしない。
いや、もしかしたら叱られるだけかもしれない。
先月、亡者を投げたら釜の縁が欠けた件か。それとも、先週の会議で居眠りした件か。
「お前、顔に出てるぞ。心当たりありすぎだろ」
「うるさい。ここ頼む」
金棒をゴウキに押しつけて、俺は閻魔庁へ向かった。
◇
閻魔庁は、地獄の中心にある。
黒い石を積み上げた巨大な建物で、入口の門だけで俺の背丈の二十倍はある。
中に入ると、裁きを待つ亡者の列がどこまでも続いていた。
最近は列が短くなった気がする、と門番が言っていたのを思い出す。
執務室の扉を叩く。
「シキです。お呼びと聞きました」
「おう、入って入って」
低い声が、扉越しに腹まで響いた。
中に入ると、まず目に入るのは書類の山だ。
魂ひとつにつき一冊の台帳。
それが天井近くまで積まれていて、いくつかは雪崩を起こしている。
その山の向こうに、閻魔大王が座っていた。
でかい。何度見てもでかい。
座っているのに、見上げると首が痛くなる。
奈良の都にある大仏と同じくらいはある。
赤黒い顔に、胸元まで伸びた髭。
眉間には、生まれてから一度もほどけたことがなさそうな皺が刻まれている。
亡者がこの顔を見たら、たいてい泣くか気絶する。
「悪いね、急に呼んじゃって。まあ座ってよ」
閻魔様は、太い指で床を指した。
俺用の椅子なんてものはない。この部屋の家具は全部、閻魔様の大きさに合わせてある。
俺は床にあぐらをかいた。
「お茶飲む?」
「いえ、結構です」
「そう? わしはいただくよ」
閻魔様は、俺が丸ごと入れそうな湯呑みを持ち上げて、ずずっとすすった。
それから深く息を吐く。
「いやぁ、参ったよ。ここんとこ寝てなくてね」
「閻魔様って寝るんですか」
「寝るよ。寝たいよ。三日に一刻くらいは寝たいよ」
裁きの場では、この方は本当に恐ろしい。
声ひとつで亡者を震え上がらせ、どんな言い逃れも許さない。
ただ、俺の前だとこんな感じだ。
昔いろいろあったせいか、この方との間にはあまり遠慮というものがない。
たぶん、お互いに。
「それで、俺は何をやらかしたんでしょうか」
「ん? ああ、釜の件なら経理から苦情が来てたよ」
「やっぱりそれですか」
「それは別にいいよ。いや、よくはないんだけどさ、今日はもっと面倒な話」
閻魔様は湯呑みを置くと、真面目な顔になった。
部屋の空気が少し重くなる。
「シキくん。六道輪廻はわかるよね」
「そりゃあ、まあ」
天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道。
魂は、この六つの世界のどこかに生まれ、生きて、死ぬ。
死んだら閻魔様の審判を受けて、次にどこへ生まれ変わるかが決まる。
それを延々と繰り返す。それが輪廻だ。
例外は解脱くらいだろう。
悟りを開いた魂は輪廻から抜けて、二度と戻ってこない。
とはいえ、そんなのは何百年に一人いるかどうかだ。
「獄卒になって最初に習うことですよ」
「そう。魂ってのは、必ずここを通る。必ずね」
閻魔様は、机の上から一冊の台帳を摘まみ上げた。
「ところが最近、来るはずの魂が来ないんだよ」
「……は?」
「死んだはずなのに、審判の場に現れん。一人や二人なら記録の間違いで済むんだけどね。ここ数年で、どうも数が増えてきた」
入口の列が短くなっていたのを思い出した。
「解脱したんじゃないんですか」
「わしもそう思いたかったよ。でも、解脱した魂はちゃんと記録に残るんだ。こいつらは、何の痕跡もなく消えておる」
閻魔様は、部屋の奥にかかった大きな鏡に目をやった。
浄玻璃の鏡。亡者が生前に何をしたか、全部映し出す鏡だ。
「鏡を使って、消えた魂の行き先を追わせたんだよ。倶生神たちにも手伝ってもらってね。何か月もかかったけど、ようやくわかった」
閻魔様は、そこで一度言葉を切った。
「六道の外だ」
「外?」
「生まれ変わったんじゃないよ。死んだときの年も姿も、中身もそのままで、別の世界に呼ばれておる。わしの台帳に載っておらん世界にね」
すぐには意味が飲み込めなかった。
六道の外に世界がある。そんな話は聞いたことがない。
魂の行き先は、すべて閻魔様が決める。それがこの世の理のはずだ。
「誰かが、勝手に魂を持っていってるってことですか」
「それがわからんのよ。何かが理を歪めておるのか、誰かがわざとやっておるのか。どっちにしても、放っておいたら輪廻そのものが崩れちゃう」
閻魔様は、また湯呑みに手を伸ばした。
中身はもう空だったらしく、少し寂しそうな顔をして戻した。
「そこでだ、シキくん。お前さんに行ってもらいたい」
「どこへです」
「その異世界にだよ」
俺はしばらく黙った。
「……それ、絶対面倒なやつですよね。他の奴に回せません?」
「大丈夫大丈夫。シキくんなら、きっとできるよ」
あまりにもあっさり言われて、言い返す言葉が出てこなかった。
閻魔様は、それ以上何も付け足さなかった。
ただ髭をしごきながら、当たり前のことを言っただけ、という顔で俺を見下ろしている。
ずるい人だ。こういうところが。
閻魔様は、台帳を何冊か俺の前に置いた。消えた魂の記録らしい。
開いてみて、少し拍子抜けした。
どこにでもいそうな、若い人間ばかりだった。
人間道の、まだ学び舎に通っているような年頃の連中。
罪状の欄もほとんど空白だ。本来なら、地獄に来ることもなかったかもしれない。
「任務は二つ。異世界に行った魂を見つけて、六道に連れ帰ること。それから、なんでこんなことが起きたのか、原因を突き止めること。……期限は特に決めないよ。向こうがどうなってるかもわからないしね。ただ、できるだけ早く終わらせてくれると助かるかな」
「期限なしで、できるだけ早く、ですか」
「うん。シキくんなら何とかなるでしょ」
雑だ。
信頼されているのか、面倒を押しつけられているのか、判断に困る。
たぶん両方だ。
断る理由を探してみる。
いくつか思いつきはするが、どれもこの方に通じる気がしない。
結局、頼まれると断れないのだ。
悪い癖だとは思う。そのせいで、これまで何度面倒な目に遭ってきたかわからない。
「……わかりました。行きます」
「おう、助かるよ」
閻魔様は満足そうにうなずいた。
「ところで閻魔様」
「なに?」
「これ、出張扱いになりますか。手当とか出ます?」
閻魔様は、髭の奥で口をもごもごさせた。
「……経理に聞いとくね」
出ないな、これは。




