第十二話 金棒
ホブゴブリンたちが、斜面を駆け上がってきた。
前の列が、盾のように肩を並べている。
その後ろから、次の列が続く。
両脇の木の上からは、矢が雨のように降ってきた。
窪地の底では、杖を持ったゴブリンたちが、一斉に何かを唱え始めている。
俺は、一歩踏み出した。
金棒を、横に振る。
先頭の列のホブゴブリンが三匹、まとめて吹き飛んだ。
後ろの列にぶつかり、何匹かを巻き込んで斜面を転がり落ちていく。
一匹は木の幹に叩きつけられ、そのまま動かなくなった。
飛んできた矢は、金棒の一振りで払い落とした。
何本かが肩や腕に当たったが、この体の皮膚を少し引っかいただけで、地面に落ちた。
ホブゴブリンたちの足が、止まった。
さっきまでの勢いが嘘のように、前に出ようとしない。
肩を並べていた列が崩れ、何匹かが後ずさりを始めた。
黄色い目が、俺と、転がり落ちていった仲間とを、落ち着きなく行き来している。
獣は、強い相手を見分けるのが上手い。
昨日のフォレストウルフが、透を真っ先に狙ったのと同じだ。
窪地の底で、ジェネラルが吠えた。
腹の底から絞り出すような、怒声だった。
鉈を振り上げ、俺のほうを指し示して、もう一度吠える。
行け、と言っているのだろう。
ホブゴブリンたちが、びくりと肩を震わせた。
後ずさりしていた者が、足を止める。
一匹が、また斜面を上り始めた。
それにつられて、一匹、また一匹と、前に出てくる。
俺よりも、頭に逆らうほうが怖いらしい。
なら、相手をしてやるしかない。
俺は、手のひらに魔素を集めた。
ここは森の奥だ。
魔素は、王都よりもずっと濃い。
手を伸ばすだけで、砂を掬うように、いくらでも集まってくる。
集めた魔素を、手のひらの一点でくるりとねじる。
訓練のときは、半分ほどが指の間からこぼれていた。
今朝は、こぼさないように少しだけ握り込んだ。
今は、誰も見ていない。
こぼれようとする魔素を、できる限り押し込める。
地獄の釜で、薪の熱をなるべく逃がさないように。
ねじって、ねじって、火に変える。
それでも、二割ほどは指の間をすり抜けていった。
どれだけ握り込んでも、それ以上はどうしてもこぼれる。
この世界の火は、まだ俺の手に馴染みきっていないらしい。
それでも、手のひらの上に生まれた火は、今朝のものとはまるで違った。
拳ほどの火の玉ではない。
両腕で抱えるほどの、ごうごうと唸る炎の塊だった。
……なるほど。
ミーナの言っていたとおりだ。
ふつうは二割。センスがあって五割。
八割近く火に変えれば、初級の魔法でも、こうなる。
炎を、斜面に向かって放った。
橙色の炎が、斜面を上ってくる列を正面から呑み込んだ。
悲鳴が上がる。
炎はそのまま斜面を転がり落ち、窪地の底まで流れ込んでいった。
唱えていたゴブリンたちが、炎に巻かれて散り散りになる。
だが、全部は焼けなかった。
炎の切れ目から、まだ何匹ものホブゴブリンが這い出してくる。
体のあちこちを焦がしながら、それでも斜面を上ってくる。
そのたびに、窪地の底からジェネラルの怒声が飛んだ。
俺は、二発目を放った。
三発目。四発目。
炎が走るたびに、緑色の巨体が崩れ落ちていく。
近くまで来た者は、金棒で叩き伏せた。
木の上の弓のゴブリンには、小さな火の玉を一つずつ放って、枝ごと落とした。
魔素は、いくらでもあった。
使っても使っても、森の奥から流れ込んでくる。
ただ、さすがに窪地の中の魔素は、だいぶ薄くなっていた。
周りの空気が、少しだけ軽い。
大きな魔法を使えば、しばらく周りの魔素がなくなるとミーナが言っていたのは、このことか。
◇
気づけば、立っているホブゴブリンはいなくなっていた。
窪地のあちこちで、まだ火がくすぶっている。
焦げた匂いが、鼻をついた。
その炎の中から、一つだけ、大きな影が歩み出てきた。
ジェネラルだった。
継ぎはぎの鎧が、ところどころ赤く焼けている。
片腕は焦げ、顔の半分が煤で黒い。
それでも、鉈を握る手は緩んでいなかった。
炎の中を、突っ切ってきたのだ。
さすがに、頭を張るだけのことはある。
ジェネラルが、吠えた。
だが、応える声は、もうどこにもなかった。
ジェネラルは、周りを見回した。
焼け焦げた仲間たちの姿を見て、それから、俺を見た。
その目には、もう笑みはなかった。
ただ、まっすぐに俺を睨みつけている。
ジェネラルが、地面を蹴った。
速い。
ホブゴブリンとは比べものにならない。
巨体からは考えられない速さで、一気に間合いを詰めてくる。
鉈が、振り下ろされた。
俺は、金棒で受けた。
重い。
腕に、じんと痺れが走る。
この世界の魔物にしては、上等なほうだろう。
ジェネラルが、二撃目を振りかぶった。
魔素の火を放つには、間合いが近すぎる。
それに、周りの魔素はさっきの炎でだいぶ使ってしまった。
仕方ない。
俺は、体の奥にあるものを、ほんの少しだけ緩めた。
鬼気が、腕を伝って金棒に流れ込む。
黒い鉄の表面を、青白い光が薄く這った。
鋲の一つ一つが、底のほうで黒く揺らめいている。
ジェネラルの動きが、止まった。
振り上げた鉈が、宙で固まっている。
濁った目が、俺の金棒を見ていた。
それから、俺の顔を。
その目に、初めて怯えの色が浮かんだ。
今、こいつが感じているのは、たぶん魔素ではない。
この世界にはないはずのものだ。
ジェネラルが、一歩、後ずさった。
「次は、もう少しましなところに生まれろよ」
金棒を、振り下ろした。
鈍い音がした。
ジェネラルは、それきり動かなくなった。
◇
窪地は、静かになった。
金棒から、青白い光がすうっと消えていく。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
これだけの数を相手にして、鬼気を使ったのは最後の一振りだけ。
まあ、上出来だろう。
金棒を肩に担ぎ直して、森のさらに奥を見る。
さっきから、ずっと気になっていた。
この群れとは別に、もっと奥。
この森の、一番深いところ。
そこに、とてつもなく大きな魔素の塊がある。
ジェネラルなど比べものにならない。
ただそこにいるだけで、周りの魔素をねじ曲げてしまうような何か。
この群れが浅いところまで出てきたのは、たぶんあれに追い立てられたからだ。
行って確かめるべきか、少し迷った。
だが、やめた。
水を汲みに行っただけの奴が、いつまでも戻らなければ怪しまれる。
それに、あれはまだ、こちらに向かって動いてはいない。
俺は、金棒を握りしめて、また親指ほどの飾りに戻した。
学生の体の手には、やはり小さすぎる重みだった。
◇
拠点に戻ると、出発の準備がほとんど終わっていた。
怪我人は担架に乗せられ、荷物はまとめられている。
騎士たちが隊列を組み直していた。
「おう、戻ったか」
ロイドが、こちらに気づいて手を上げた。
それから、俺の手元を見て、眉を上げた。
「……水は?」
言われて、気づいた。
水袋は、川岸の石の上に置いてきたままだった。
「……忘れました」
「汲みに行って、忘れたのか」
「はい」
ロイドは、しばらく俺の顔を見ていた。
それから、ふっと鼻で笑った。
「ま、いいさ。川は帰り道にもある」
それだけ言って、隊列のほうへ歩いていった。
俺は、ため息をついて自分の荷物を担いだ。
ふと横を見ると、透が森の奥を見つめていた。
さっきまでの強張った顔ではなかった。
眉を寄せて、何かを確かめるように、じっと目を細めている。
「……いなくなった?」
透が、ぽつりと呟いた。
「何がだ」
俺が聞くと、透は少し驚いたように振り返った。
俺がいることに気づいていなかったらしい。
「あ……さっきまで、奥のほうに、たくさん……何かいた気がして」
「気のせいだろ」
「……そう、かな」
透は、もう一度森の奥を見た。
「なんか、急に静かになった。それに、あっちのほう、魔素がすごく薄くなってる」
俺は、何も答えなかった。
隊列の先頭で、ベルンハルト団長が出発の号令をかけた。
騎士たちが動き出し、学生たちがのろのろとそれに続く。
透は、最後まで何度も森の奥を振り返っていた。




