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闇より速く、光より深く  作者: なすび
第一章 知らない空で呼ばれる名

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第6話 知らない星空

 医療室の明かりは、さっきより少し落とされていた。


 ファイは、ベッドの上で目を開けていた。


 その名前は、まだ少し遅れて届く。


 湊、と呼ばれたなら、たぶんすぐに振り向ける。


 家でも、教室でも、帰り道でも、ずっとそうだったから。


 でも、ファイと呼ばれると、一度だけ胸の奥で止まる。


 誰のことだろう。


 そう思ったあとで、ああ、自分のことだと思い出す。


 胸の奥に置いたばかりの名前は、まだ少し冷たかった。


 扉のそばに、ブエンが立っていた。


「起きられるか」


 ファイはすぐには返事をしなかった。


 身体はまだ重い。

 頭の奥も、ぼんやりしている。


 けれど、寝ているだけでは何も分からない。


 ここがどこなのか。

 自分がどうなったのか。

 これからどうなるのか。


 知らないまま目を閉じている方が、怖かった。


 ファイは、布団の端を握っていた手を離した。


 ゆっくり体を起こす。


 視界が少し揺れた。


 ブエンの指が、ほんのわずかに動いた。


 支えようとしたのかもしれない。


 けれど、手は出さなかった。


 ファイはベッドの縁に座り、床に足を下ろした。


 冷たい。


 病院の床とも、学校の廊下とも違う気がした。


 ただ、それが本当に違うのか、自分がそう思っているだけなのかは分からなかった。


 ファイは立ち上がった。


 少しふらつく。


 でも、倒れなかった。


 ブエンはその様子を見て、短く言った。


「歩けるな」


 ファイは小さくうなずいた。


「なら、来い」


 医療室の扉が、音もなく開いた。


 外には、白い廊下が続いていた。


 壁も、床も、天井も、やわらかく光っている。


 電気の明かりとは違う。

 窓から入る日差しとも違う。


 どこから光っているのか分からないのに、廊下全体が薄く明るかった。


 病院みたいだった。


 でも、どこにも似ていなかった。


 ファイは、ブエンの後ろを歩いた。


 足音が、思ったより小さく響く。


 歩いているのは自分なのに、その音だけが知らない場所のものみたいだった。


 途中で、銀色の装甲を着た人たちとすれ違った。


 その人たちは、ブエンを見ると姿勢を正した。


「隊長」


 短い声。


 ブエンは軽くうなずくだけで通り過ぎる。


 そのあと、視線がファイに向いた。


 誰も何も言わなかった。


 けれど、見られていることは分かった。


 小さな子どもを見る目。

 知らないものを見る目。

 危ないかもしれないものを、間違って触らないようにする目。


 ファイは、服のすそを握った。


 少しだけ、足が遅くなる。


「見るな」


 ブエンの声が、低く落ちた。


 廊下の空気が、ぴんと張る。


「この子は見世物ではない」


 誰も何も言わなかった。


 視線が、すっと外れていく。


 ファイは顔を上げた。


 ブエンは振り返っていなかった。


 けれど、さっきより少しだけ声を落として言った。


「ファイ。前を見ろ」


 その名に、胸が一拍遅れた。


 でも、今度は立ち止まらなかった。


 ファイは、そっと顔を上げた。


 廊下の先に、広い窓があった。


 最初は、ただの黒い壁に見えた。


 近づくにつれて、その黒の奥に、小さな光がいくつも浮かんでいるのが見えた。


 星だ、と気づくまでに、少し時間がかかった。


 ファイは足を止めた。


 窓の向こうに、知らない星空が広がっていた。


 黒い空。


 その中に、青白い光や、赤い光や、細い銀色の線みたいなものが散っている。


 図鑑で見た星とは、少し違っていた。


 ページの中にあったものが、今は本当にそこにある。


 遠くにあるはずなのに、すぐ近くに迫っている。

 近くに見えるのに、手を伸ばしても絶対に届かない。


 遠いのに、近い。


 近いのに、遠い。


 そんな空だった。


 ファイは、窓の前で動けなくなった。


 ここは、本当に地球じゃない。


 言葉で聞いた時よりも、ずっとはっきり分かってしまった。


 教室の窓から見える空ではない。

 帰り道の電線の向こうにある空でもない。

 家のベランダから見上げた夜空でもない。


 自分の知っている空は、もうここにはなかった。


 胸の奥が、ぎゅっと縮む。


 帰りたい、と思った。


 蓮に会いたい、と思った。


 お母さんとお父さんは、今どうしているのだろうと思った。


 そのどれもが一度に浮かんできて、息が少し苦しくなった。


 それなのに。


「……きれい」


 声が、先に出ていた。


 ファイは自分で言ってから、少しだけ目を伏せた。


 言ってはいけないことを言った気がした。


 帰りたいのに。

 怖いのに。

 蓮に会えないかもしれないのに。


 それでも、きれいだと思ってしまった。


 ファイは窓の前で、服のすそを握った。


 ブエンが、ようやく口を開いた。


「そうか」


 それだけだった。


 責める声ではなかった。

 慰める声でもなかった。


 ただ、ファイが「きれい」と言ったことを、そのまま受け取る声だった。


 その声を聞いて、ファイは少しだけ肩の力を抜いた。


 きれいだと思ってもいいのかもしれない。


 怖くても。

 帰りたくても。

 泣きそうでも。


 それでも、きれいなものを、きれいだと思ってもいいのかもしれない。


 ファイは、もう一度だけ窓の外を見た。


 黒い空の奥で、星が瞬いている。


 その光は、地球まで届くのだろうか。


 蓮のいる場所にも。

 お母さんとお父さんのいる家にも。


 ファイには分からなかった。


 でも、届いていてほしいと思った。


 ブエンは少し先へ歩き出した。


「次は検査だ」


 ファイは窓から目を離した。


「……検査?」


「お前の身体に何が起きたのかを調べる」


 ブエンは歩きながら言った。


「閉じ込めるためではない。処分するためでもない」


 ファイの足が、少しだけ止まった。


 ブエンはそれに気づいて、振り返る。


「知らなければ、守れない」


 短い言葉だった。


 誰を、とは言わなかった。


 自分のことなのか。

 蓮のことなのか。

 地球のことなのか。


 たぶん、全部だった。


 ファイは、もう一度だけ窓の外を見た。


 怖さはまだある。


 帰りたい気持ちも、消えていない。


 それでも、さっきより少しだけ、足に力が入った。


 ファイは小さく息を吸う。


 そして、ブエンの後ろを歩き出した。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


第6話は、少し読みにくく感じる部分があったと思います。


この回では、ファイが初めて医療室の外へ出て、知らない場所、知らない人たち、地球ではない星空に触れています。


本人の中では、何も整理できていません。

怖い。

帰りたい。

でも知りたい。

それでも、窓の向こうの星空はきれいだと思ってしまう。


その混乱や揺れを、少しそのまま残した回でもあります。


読みやすさだけを優先すれば、もっと整理して書けたかもしれません。

でも今回は、ファイの中でまだ言葉になっていないものを、少し不安定なまま表現したくて、こういう形にしてみました。


この先、ファイは自分の力や名前と向き合っていきます。

それでも逃げずに一歩ずつ進んでいくところを見守ってもらえたら嬉しいです。


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