第7話 足元の黒
検査室の前で、ファイは足を止めた。
白い扉には、何も書かれていない。少なくとも、ファイが読める文字はなかった。ただ、細い光の線だけが、扉の端をなぞるように走っている。
ブエンが立ち止まり、振り返った。
「ここだ」
扉が、音もなく開いた。
中には、透明な台があった。
天井からは輪のような装置がいくつも下がっている。床には細い光の線が引かれていて、そのすべてが部屋の中央へ向かって集まっていた。
薬の匂いはしない。
消毒液の匂いもしない。
それなのに、何かを調べる場所なのだということだけは分かった。
「入れるか」
ブエンが聞いた。
ファイは部屋の中を見た。
知らない機械。
知らない光。
知らない人。
怖くないわけではなかった。
けれど、知らないままでいる方が、もっと怖かった。
ファイは小さく息を吸って、自分から検査室へ入った。
部屋の中にいた隊員が、端末を持って近づいてくる。
「検査対象、入室を確認」
その言葉に、ファイの肩が小さく跳ねた。
対象。
自分が人ではなく、何か調べるものになったみたいに聞こえた。
「言い直せ」
ブエンの声が落ちた。
隊員がはっと顔を上げる。
「……失礼しました。ファイ、入室を確認しました」
ブエンはそれ以上責めなかった。
ただ、ファイの横に立つ。
「台に座れ。横になる必要は、今はない」
ファイは透明な台を見た。
座っても大丈夫なのか、少し迷う。
けれど、ブエンがすぐそばにいる。
ファイは台に手をついて、そっと腰を下ろした。
透明な台が、淡く光った。
「っ」
指先がびくっと動く。
痛くはなかった。
ただ、足元から何かに触れられたような、不思議な感じがした。
隊員が端末を見る。
「通常魔力反応、測定開始。生命反応、安定。外傷なし。精神負荷はやや高めです」
ファイには、ほとんど意味が分からなかった。
ブエンは短く言う。
「続けろ」
部屋の中央に浮かぶ輪が、ゆっくり回り始めた。
淡い光が、ファイの周りを包む。
その光を見て、ファイは少しだけ眉を寄せた。
「……血、とか……抜くの?」
ブエンが一瞬だけ止まった。
近くにいた隊員も、端末から目を上げる。
妙な間ができた。
「必要ならな」
ファイの顔が、分かりやすくこわばった。
ブエンはすぐに続ける。
「今は抜かん。魔力反応を見るだけだ」
「……痛い?」
「痛みはほとんどない」
ブエンは少しだけ間を置いた。
「未知の反応が出れば、断言はできないが」
ファイはさらに不安そうな顔をした。
ブエンは小さく息を吐く。
「痛ければ言え。止める」
ファイはブエンを見た。
「止めてくれるの?」
「当たり前だ」
即答だった。
「お前を調べるために壊すつもりはない」
ファイは、まだ少し不安そうな顔のまま、ゆっくりうなずいた。
「……うん」
光の輪が、もう一度回る。
最初は、何も起きなかった。
ファイは膝の上で、両手を軽く握っていた。
怖い。
けれど、逃げたいとは思わなかった。
知りたかった。
自分に何が起きたのか。
公園で、何をしたのか。
どうして、ここにいるのか。
その時だった。
光の輪の一部が、黒くにじんだ。
まるで水に墨を落としたみたいに、淡い光の中へ黒が広がっていく。
隊員の手が止まった。
「……闇属性反応、確認」
声が低くなる。
ファイは自分の手を見た。
何もしていない。
何も、出そうとしていない。
なのに、透明な台の下に、黒い影のようなものがゆっくり広がっていた。
ファイには、何も分からなかった。
闇属性反応。
その言葉の意味も分からない。
自分の下にある黒いものが何なのかも分からない。
痛くはない。
苦しくもない。
何かをしようとしているつもりもない。
ただ、検査室の空気だけが変わった。
隊員の手が止まった。
別の隊員が、端末から目を上げた。
誰かが、小さく息をのんだ。
その反応を見て、ファイの胸がきゅっと縮む。
何か悪いことをしているのだろうか。
ファイは足元の黒を見つめた。
黒い影は、ゆっくり揺れていた。
暴れているようには見えない。
でも、そこにある。
自分の中から出ているのかもしれない。
そう思った瞬間、指先が冷たくなった。
ブエンは、ファイではなく測定装置を見ていた。
「数値を読め」
隊員が端末へ目を戻す。
「闇属性反応、継続。意識波形は安定しています」
「精神干渉は」
「確認できません」
「人格分離反応は」
「確認できません」
隊員の声に、戸惑いが混じる。
「闇反応が出ていますが、自我は保たれています」
ブエンは黙った。
闇の反応がある。
それだけなら、まだ分かる。
だが、目の前の子どもは、怯えてはいるが、呑まれてはいない。
力は出ている。
けれど、周囲を襲っていない。
装置を壊してもいない。
誰かへ伸びてもいない。
ただ、ファイの足元で揺れている。
守ろうとしている、とまでは言い切れない。
だが、無関係ではない。
この子の不安に。
呼吸に。
握りしめた指先に。
闇が、反応している。
ブエンは、公園に残っていた黒い靄を思い出した。
あの時も、おそらく同じだった。
この子が命じたのではない。
だが、この子の感情に反応した。
問題は、その力がどこまで行くのかを、この子自身が知らないことだ。
ブエンはファイを見た。
ファイは、自分の足元を見ていた。
泣きそうな顔だった。
自分の中から出ているものなのに、自分が一番分かっていない顔だった。
それが、一番危うい。
「検査を止めろ」
ブエンが言った。
隊員が顔を上げる。
「よろしいのですか」
「十分だ」
光の輪がゆっくり止まる。
部屋の明かりが、少しだけ戻った。
それでも、ファイの足元には、まだ薄く黒い影が残っていた。
ファイは動けなかった。
足元の黒を踏んでいるのか。
自分の中から出しているのか。
それすら分からなかった。
ブエンはその黒を見る。
この子から闇を切り離すことはできない。
そして、おそらく切り離すべきものでもない。
ならば必要なのは、閉じ込めることではない。
この子自身が、この力を自分のものとして扱えるようになることだ。
ブエンはファイの前に膝をついた。
視線の高さを、少しだけ下げる。
「ファイ」
名前を呼ばれて、ファイが顔を上げた。
ブエンはまっすぐに言った。
「お前は今、何かを壊したか」
ファイは目を瞬かせた。
検査室を見る。
隊員たちは立っている。
装置も壊れていない。
部屋も、そのままだった。
ファイは小さく首を振った。
「何も……してない」
「そうだ」
ブエンはうなずいた。
「だが、何も起きていないわけでもない」
ファイの目が揺れる。
足元の黒が、ほんの少しだけ波打った。
「お前の中には、闇がある」
ファイの指が、台の端を握った。
「だが、それはお前が悪いという意味ではない」
ブエンは、そこだけは先に言った。
ファイは何も言わなかった。
悪い。
その言葉だけが、胸の奥に残った。
自分が何をしたのかも分からない。
公園で何が起きたのかも、まだちゃんとは聞いていない。
それでも、足元に黒いものがあるだけで、自分が悪いものになってしまったような気がした。
ブエンは続けた。
「今のお前は、何も壊していない。誰も傷つけていない」
ファイは、足元の黒を見た。
「だが、何も起きていないわけでもない」
黒が、ほんの少しだけ揺れた。
「だから、知らなければならない」
ファイは、ブエンを見た。
「お前の中にあるものを、私たちはまだ知らない。お前自身も知らない。だから調べる。だから鍛える」
ブエンは、足元の黒へ一度だけ視線を落とした。
「閉じ込めるためではない。お前を処分するためでもない」
星空の前で聞いた言葉と同じだった。
けれど、今は少し違って聞こえた。
黒が、目の前にあるからだった。
「怖いか」
ファイはすぐには答えられなかった。
怖い。
怖いに決まっている。
でも、何が怖いのか分からなかった。
黒が怖いのか。
隊員たちの反応が怖いのか。
自分が何かをしてしまうかもしれないことが怖いのか。
全部、少しずつ怖かった。
「……怖い」
やっと出た声は、小さかった。
ブエンはその答えを責めなかった。
「怖がるなとは言わん」
低い声だった。
「だが、見ることをやめるな」
ファイは、ブエンを見た。
「お前の中の闇を、なかったことにするな。怖いからといって捨てるな」
ブエンは、足元に残る黒へ一度だけ視線を落とした。
「だが、信じすぎるな」
ファイが顔を上げる。
「それは、お前の力だ。だが、お前の意思そのものではない」
ブエンは低く言った。
「だから、お前が扱えるようになれ」
ファイは息をのんだ。
自分の力。
でも、自分の意思そのものではないもの。
怖くて、触ってはいけない気がするもの。
それでも、自分の中にあるもの。
「戦うためだけではない。傷つけるためでもない」
ブエンは立ち上がった。
「守るためにだ」
足元の黒い影が、すうっと薄くなった。
ファイは、それを見た。
消えていく黒を見て、ほっとしたのか、怖くなったのか、自分でも分からなかった。
けれど、もう見なかったことにはできない。
自分の中にあるもの。
自分でも知らない力。
怖い。
でも、知らないままにはできない。
「明日から、お前に必要なことを教える」
ブエンは言った。
「訓練だ」
ファイは顔を上げる。
「訓練……」
「そうだ」
ブエンは言った。
「お前を戦場へ出すためではない。次に守りたいものができた時、お前自身の力で、守れるようにするためだ」
ファイは、何も言わなかった。
強くなる。
その言葉は、まだ遠かった。
何をすれば強くなれるのかも分からない。
闇が何なのかも分からない。
そもそも、自分が本当にそんなことをできるのかも分からない。
でも、蓮の顔が浮かんだ。
それから、お母さんとお父さんの顔も浮かんだ。
今ごろ、自分を探しているのかもしれない。
泣いているのかもしれない。
怒っているのかもしれない。
胸の奥が、ぎゅっと痛くなった。
ファイは、しばらく下を向いていた。
足元の黒い影は、もう消えている。
それでも、そこに何かがあったことだけは分かる。
ファイはゆっくり顔を上げた。
ブエンを見る。
涙はまだ少し残っていた。
けれど、その目は逃げていなかった。
ファイは、小さく、でもはっきりとうなずいた。
ブエンは、その頷きを黙って受け取った。
「よし」
それだけ言って、背を向ける。
「今日は休め。訓練は明日からだ」
検査室の扉が静かに開いた。
ファイはもう一度だけ、自分の手を見た。
小さな手だった。
何かを壊してしまうかもしれない手。
でも、何かを守りたいと思った手。
ファイはその手を、ぎゅっと握った。
まだ何も分からない。
逃げない、とまでは言えなかった。
でも、目を逸らさないことだけは決めた。




