第5話 『ファイ』
涙が落ちたあとも、湊はしばらく起きていた。
眠っているわけではなかった。
けれど、ちゃんと目を開けているとも言い切れなかった。
白い天井。
淡い灯り。
規則正しく鳴る機械の音。
腕に浮かぶ、細い光の線。
それらは確かにそこにあるのに、湊の中には、まだ夕方の公園が残っていた。
ぎい、と鳴るブランコ。
砂の上に倒れた蓮。
黒い鞄。
青く光る留め具。
動かない身体。
それから、胸の奥で何かが切れたような感覚。
思い出そうとすると、息が浅くなる。
思い出さないようにしても、指先が冷たくなる。
ここは地球ではない。
蓮は地球に戻った。
自分は、まだ戻れない。
さっきブエンが言ったことは、湊の中でばらばらの石みたいに転がっていた。ひとつずつ拾おうとしても、どれも重たくて、うまく持ち上げられない。
ブエンは急かさなかった。
椅子に腰を下ろしたまま、湊の呼吸と機械の反応だけを見ている。近すぎない。けれど、いなくなったわけでもない。
その距離が、少しだけ不思議だった。
学校の先生なら、何かを聞いただろう。
病院の人なら、声をかけ続けたかもしれない。
でもブエンは、湊が言葉を出せないことを、そのままそこに置いていた。
医療室の扉が、静かに開いた。
入ってきた隊員が一人、ブエンの前で足を止める。
「隊長。登録処理の確認を」
ブエンの目だけが、隊員へ向いた。
「今ここですることか」
「最低限の識別だけでも必要です。医療記録にも、保護対象番号だけでは限界があります」
隊員は湊を見た。
その視線に、悪意はなかった。
怖い顔でもなかった。
けれど湊は、小さく布団を握った。
人を見る目ではなかったからだ。
そこに寝ている子どもではなく、分からないものを間違えないように確認する目。壊れやすいものか、危ないものか、まだ分類のつかないものを見る目だった。
隊員が、手元の薄い板に指を滑らせた。
「本人確認のため、本名を――」
「言うな」
ブエンの声が、医療室の空気を切った。
大きな声ではなかった。
怒鳴ったわけでもない。
ただ、その一言で、機械の音まで一瞬小さくなったように感じた。
隊員の指が止まる。
湊も、息を止めていた。
何を止められたのかは分からない。
けれど、ブエンが初めて、はっきりと何かを遮ったことだけは分かった。
「この子の本名を、ここで扱うな」
「しかし、記録上は」
「仮識別で十分だ。正式な登録は後にする」
「了解しました」
隊員はそれ以上、何も言わなかった。
短く頭を下げ、扉の向こうへ下がっていく。
扉が閉まる。
医療室は、また静かになった。
湊は、閉じた扉を見ていた。
胸の奥が、さっきとは違う形でざわついている。
本名。
その言葉だけが、耳の奥に残っていた。
ブエンはしばらく何も言わなかった。
湊がその言葉に引っかかっていることに、気づいているようだった。
やがて、低い声で言った。
「……今の話は、すべて分からなくていい」
湊はブエンを見た。
「ただ、自分の名前を、むやみに他人へ言うな」
命令の形をした言葉だった。
でも、さっきの「動くな」とは少し違った。
怖がらせるためではなく、間違えないように杭を打つみたいな声だった。
「ここでは、名前が手がかりになることがある」
「手がかり……?」
湊の声は、かすれていた。
「お前を探すための手がかりだ。お前に近づくための手がかりでもある」
言葉は分かる。
でも、意味は遠かった。
名前で、人を探す。
名前で、近づく。
それは、湊の知っている世界の話ではなかった。
地球で名前は、もっと普通のものだった。
朝、家の中で呼ばれる声。
教室で、先生が出席を取る声。
帰り道で、蓮が何でもないみたいに呼ぶ声。
湊。
その響きは、地球にあった。
ランドセルの肩ひもが食い込む帰り道にあった。
給食の匂いが残る教室にあった。
蓮が笑いながら振り向く、その声の中にあった。
それをここで出してはいけないと言われた瞬間、湊は初めて、自分が本当に遠くへ来てしまったのだと分かった。
知らない天井。
知らない灯り。
知らない機械。
知らない人たち。
それだけでは、まだ足りなかった。
呼ばれ方まで、そのままではいられない。
それが、いちばん遠かった。
「名前も……呼んじゃいけないの……?」
言い終わる前に、涙がこぼれた。
声を上げたわけではない。
泣こうとしたわけでもなかった。
ただ、目の端から勝手に落ちた。
怖いのか、寂しいのか、悲しいのか、湊にも分からなかった。
全部が混ざっていた。
胸の中で、どれもまだ形になっていなかった。
ブエンはすぐには答えなかった。
湊の涙を見て、少しだけ眉を寄せる。
けれど、手は伸ばさない。
勝手に涙を拭うことも、抱き寄せることもしなかった。
ただ、目を逸らさずに言った。
「違う」
短い言葉だった。
「呼んではいけないのではない」
ブエンの声は、低く、まっすぐだった。
「大切だから、隠す」
湊は瞬きをした。
涙がもう一筋、頬を伝う。
「大切……?」
「そうだ」
ブエンはうなずいた。
「お前の名は、お前を縛るためのものではない。お前を傷つける者に渡してよいものでもない」
医療室の灯りが、淡く揺れた。
湊の腕に浮かぶ光の線が、呼吸に合わせて細く震えている。
「この世界には、名を手がかりに人を探す者がいる。それだけではない。どこから来たのか、誰といたのか、何を大切にしているのか。そういうものまで、たどろうとする者がいる」
湊は、布団を握る手に力を込めた。
何を大切にしているのか。
その言葉だけが、怖かった。
ブエンは、ほんの少しだけ声を落とす。
「蓮という少年もだ」
湊の目が揺れた。
その名が出た瞬間、医療室の白さが少し遠くなった気がした。
蓮。
さっきまで隣にいた。
公園で、自分の手首をつかんで走ろうとしてくれた。
逃げろ、と言った。
地球に戻ったと言われた。
生きていると言われた。
でも、自分の名から何かをたどられるなら。
その先に、蓮まで見つけられてしまうのなら。
「あの少年へ届く道を、ここで残すわけにはいかない」
ブエンは言った。
「お前の故郷も同じだ。これ以上、巻き込ませないために隠す」
湊は何も言えなかった。
自分の名前を隠す。
それは、自分を消すことみたいに思えた。
湊でいられなくなることみたいに思えた。
でも、ブエンの声は違っていた。
奪う声ではなかった。
遠ざける声でもなかった。
大切なものを、両手で包むための声だった。
「お前が、お前でなくなるためではない」
ブエンは続けた。
「お前が、お前のままでいられるようにだ」
湊の胸の奥で、何かが小さく震えた。
全部を飲み込めたわけではない。
でも、ブエンが名前を取り上げようとしているのではないことだけは、少しだけ分かった。
蓮へつながる道を、隠す。
地球へ伸びる糸を、見つからないようにする。
自分が自分でいるために、いったん奥へしまう。
それでも、痛いものは痛かった。
大切だから隠すと言われても、大切なものを胸の奥にしまい込むのは、少しだけ息が苦しかった。
「蓮を……守るため……」
湊は、布団を握ったままつぶやいた。
声は小さかった。
誰かに聞かせるというより、自分の中へ落とそうとしているみたいだった。
「みんなを……巻き込まないため……」
涙が、また頬を伝った。
ブエンは黙って聞いていた。
子どもに背負わせるには、重すぎる。
けれど、軽い嘘で包むこともできなかった。
ブエンは、少しだけうなずいた。
「今は、それでいい」
湊はブエンを見る。
「すべてを分かろうとしなくていい。受け止めきれなくてもいい」
低く、落ち着いた声だった。
「ただ、お前が大切にしているものを失わないために、必要なことがある」
湊は、涙で濡れた目のまま、ブエンを見ていた。
「本当の名を隠すことも、その一つだ」
医療室の機械が、小さく鳴った。
ブエンは立ち上がらなかった。
近づきすぎもしなかった。
ただ、湊が逃げずに聞ける距離で、言葉を置いていく。
「お前の名は、なくならない。私が奪うわけでもない」
少し間を置く。
「ただ、ここでは別の名で呼ぶ」
湊の指が止まった。
別の名。
その言葉は、見えない布みたいだった。
自分の上にかけられるもの。
姿を隠すためのもの。
知らない場所で立つためのもの。
でも同時に、自分と地球の間に置かれる、薄い扉みたいでもあった。
ブエンは、湊をまっすぐ見た。
「その名は、お前を隠すためのものだ」
医療室の空気が静かになる。
「同時に、お前がここで立つための名でもある」
湊は息を止めた。
まだ何も分かっていない。
銀河連邦も、自分の力も、ここで何が待っているのかも分からない。
帰れるのかも分からない。
蓮にもう一度会えるのかも分からない。
それでも、ブエンの次の言葉だけは、なぜか来る前から重たかった。
ブエンは、静かに言った。
「ファイ」
初めて、その音が医療室に落ちた。
「ここでは、そう呼ぶ」
続いた言葉は、短かった。
けれど、その短さがかえって、湊の胸に残った。
ファイ。
聞いたことのない名前だった。
湊ではない。
家で呼ばれていた名前ではない。
教室で呼ばれていた名前ではない。
蓮が隣から普通に呼んでくれた名前でもない。
でも、蓮に危険が及ばないようにするための名。
故郷を遠ざけるための名。
湊を消すためではなく、湊を隠しておくために置かれた名。
そう言われたから、湊はそれを拒めなかった。
受け入れたわけではなかった。
そんなに簡単に、受け入れられるものではなかった。
ただ、落とさないようにした。
両手で抱えるみたいに。
まだ自分のものにはできないまま、でも手放せないものとして、胸の前に置いた。
ブエンは、それ以上何も言わなかった。
湊がその名をどう受け止めるのか。
その名を、いつ自分の中に置けるのか。
それは、今すぐ決めさせることではなかった。
医療室には、機械の小さな音だけが残った。
湊は、布団を握ったまま、もう一度だけ心の中でその音をなぞった。
ファイ。
知らない名前。
隠すための名前。
ここで立つための名前。
地球から遠ざかる名前。
それでも、蓮へ伸びる細い糸を切らないための名前。
湊は返事をしなかった。
ただ、頬に残った涙が冷たく乾いていくのを感じながら、白い天井を見つめていた。
その日、湊はまだ、ファイにはなれなかった。
けれど、その名を初めて、胸の中に抱えた。




