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闇より速く、光より深く  作者: なすび
第一章 知らない空で呼ばれる名

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第5話 『ファイ』

 涙が落ちたあとも、湊はしばらく起きていた。


 眠っているわけではなかった。

 けれど、ちゃんと目を開けているとも言い切れなかった。


 白い天井。

 淡い灯り。

 規則正しく鳴る機械の音。

 腕に浮かぶ、細い光の線。


 それらは確かにそこにあるのに、湊の中には、まだ夕方の公園が残っていた。


 ぎい、と鳴るブランコ。

 砂の上に倒れた蓮。

 黒い鞄。

 青く光る留め具。

 動かない身体。


 それから、胸の奥で何かが切れたような感覚。


 思い出そうとすると、息が浅くなる。

 思い出さないようにしても、指先が冷たくなる。


 ここは地球ではない。

 蓮は地球に戻った。

 自分は、まだ戻れない。


 さっきブエンが言ったことは、湊の中でばらばらの石みたいに転がっていた。ひとつずつ拾おうとしても、どれも重たくて、うまく持ち上げられない。


 ブエンは急かさなかった。


 椅子に腰を下ろしたまま、湊の呼吸と機械の反応だけを見ている。近すぎない。けれど、いなくなったわけでもない。


 その距離が、少しだけ不思議だった。


 学校の先生なら、何かを聞いただろう。

 病院の人なら、声をかけ続けたかもしれない。


 でもブエンは、湊が言葉を出せないことを、そのままそこに置いていた。


 医療室の扉が、静かに開いた。


 入ってきた隊員が一人、ブエンの前で足を止める。


「隊長。登録処理の確認を」


 ブエンの目だけが、隊員へ向いた。


「今ここですることか」


「最低限の識別だけでも必要です。医療記録にも、保護対象番号だけでは限界があります」


 隊員は湊を見た。


 その視線に、悪意はなかった。

 怖い顔でもなかった。


 けれど湊は、小さく布団を握った。


 人を見る目ではなかったからだ。


 そこに寝ている子どもではなく、分からないものを間違えないように確認する目。壊れやすいものか、危ないものか、まだ分類のつかないものを見る目だった。


 隊員が、手元の薄い板に指を滑らせた。


「本人確認のため、本名を――」


「言うな」


 ブエンの声が、医療室の空気を切った。


 大きな声ではなかった。

 怒鳴ったわけでもない。


 ただ、その一言で、機械の音まで一瞬小さくなったように感じた。


 隊員の指が止まる。


 湊も、息を止めていた。


 何を止められたのかは分からない。

 けれど、ブエンが初めて、はっきりと何かを遮ったことだけは分かった。


「この子の本名を、ここで扱うな」


「しかし、記録上は」


「仮識別で十分だ。正式な登録は後にする」


「了解しました」


 隊員はそれ以上、何も言わなかった。

 短く頭を下げ、扉の向こうへ下がっていく。


 扉が閉まる。


 医療室は、また静かになった。


 湊は、閉じた扉を見ていた。


 胸の奥が、さっきとは違う形でざわついている。


 本名。


 その言葉だけが、耳の奥に残っていた。


 ブエンはしばらく何も言わなかった。

 湊がその言葉に引っかかっていることに、気づいているようだった。


 やがて、低い声で言った。


「……今の話は、すべて分からなくていい」


 湊はブエンを見た。


「ただ、自分の名前を、むやみに他人へ言うな」


 命令の形をした言葉だった。


 でも、さっきの「動くな」とは少し違った。

 怖がらせるためではなく、間違えないように杭を打つみたいな声だった。


「ここでは、名前が手がかりになることがある」


「手がかり……?」


 湊の声は、かすれていた。


「お前を探すための手がかりだ。お前に近づくための手がかりでもある」


 言葉は分かる。

 でも、意味は遠かった。


 名前で、人を探す。

 名前で、近づく。


 それは、湊の知っている世界の話ではなかった。


 地球で名前は、もっと普通のものだった。


 朝、家の中で呼ばれる声。

 教室で、先生が出席を取る声。

 帰り道で、蓮が何でもないみたいに呼ぶ声。


 湊。


 その響きは、地球にあった。


 ランドセルの肩ひもが食い込む帰り道にあった。

 給食の匂いが残る教室にあった。

 蓮が笑いながら振り向く、その声の中にあった。


 それをここで出してはいけないと言われた瞬間、湊は初めて、自分が本当に遠くへ来てしまったのだと分かった。


 知らない天井。

 知らない灯り。

 知らない機械。

 知らない人たち。


 それだけでは、まだ足りなかった。


 呼ばれ方まで、そのままではいられない。


 それが、いちばん遠かった。


「名前も……呼んじゃいけないの……?」


 言い終わる前に、涙がこぼれた。


 声を上げたわけではない。

 泣こうとしたわけでもなかった。


 ただ、目の端から勝手に落ちた。


 怖いのか、寂しいのか、悲しいのか、湊にも分からなかった。

 全部が混ざっていた。

 胸の中で、どれもまだ形になっていなかった。


 ブエンはすぐには答えなかった。


 湊の涙を見て、少しだけ眉を寄せる。

 けれど、手は伸ばさない。


 勝手に涙を拭うことも、抱き寄せることもしなかった。


 ただ、目を逸らさずに言った。


「違う」


 短い言葉だった。


「呼んではいけないのではない」


 ブエンの声は、低く、まっすぐだった。


「大切だから、隠す」


 湊は瞬きをした。

 涙がもう一筋、頬を伝う。


「大切……?」


「そうだ」


 ブエンはうなずいた。


「お前の名は、お前を縛るためのものではない。お前を傷つける者に渡してよいものでもない」


 医療室の灯りが、淡く揺れた。


 湊の腕に浮かぶ光の線が、呼吸に合わせて細く震えている。


「この世界には、名を手がかりに人を探す者がいる。それだけではない。どこから来たのか、誰といたのか、何を大切にしているのか。そういうものまで、たどろうとする者がいる」


 湊は、布団を握る手に力を込めた。


 何を大切にしているのか。


 その言葉だけが、怖かった。


 ブエンは、ほんの少しだけ声を落とす。


「蓮という少年もだ」


 湊の目が揺れた。


 その名が出た瞬間、医療室の白さが少し遠くなった気がした。


 蓮。


 さっきまで隣にいた。

 公園で、自分の手首をつかんで走ろうとしてくれた。

 逃げろ、と言った。

 地球に戻ったと言われた。

 生きていると言われた。


 でも、自分の名から何かをたどられるなら。


 その先に、蓮まで見つけられてしまうのなら。


「あの少年へ届く道を、ここで残すわけにはいかない」


 ブエンは言った。


「お前の故郷も同じだ。これ以上、巻き込ませないために隠す」


 湊は何も言えなかった。


 自分の名前を隠す。


 それは、自分を消すことみたいに思えた。

 湊でいられなくなることみたいに思えた。


 でも、ブエンの声は違っていた。


 奪う声ではなかった。

 遠ざける声でもなかった。


 大切なものを、両手で包むための声だった。


「お前が、お前でなくなるためではない」


 ブエンは続けた。


「お前が、お前のままでいられるようにだ」


 湊の胸の奥で、何かが小さく震えた。


 全部を飲み込めたわけではない。

 でも、ブエンが名前を取り上げようとしているのではないことだけは、少しだけ分かった。


 蓮へつながる道を、隠す。

 地球へ伸びる糸を、見つからないようにする。

 自分が自分でいるために、いったん奥へしまう。


 それでも、痛いものは痛かった。


 大切だから隠すと言われても、大切なものを胸の奥にしまい込むのは、少しだけ息が苦しかった。


「蓮を……守るため……」


 湊は、布団を握ったままつぶやいた。


 声は小さかった。

 誰かに聞かせるというより、自分の中へ落とそうとしているみたいだった。


「みんなを……巻き込まないため……」


 涙が、また頬を伝った。


 ブエンは黙って聞いていた。


 子どもに背負わせるには、重すぎる。


 けれど、軽い嘘で包むこともできなかった。


 ブエンは、少しだけうなずいた。


「今は、それでいい」


 湊はブエンを見る。


「すべてを分かろうとしなくていい。受け止めきれなくてもいい」


 低く、落ち着いた声だった。


「ただ、お前が大切にしているものを失わないために、必要なことがある」


 湊は、涙で濡れた目のまま、ブエンを見ていた。


「本当の名を隠すことも、その一つだ」


 医療室の機械が、小さく鳴った。


 ブエンは立ち上がらなかった。

 近づきすぎもしなかった。


 ただ、湊が逃げずに聞ける距離で、言葉を置いていく。


「お前の名は、なくならない。私が奪うわけでもない」


 少し間を置く。


「ただ、ここでは別の名で呼ぶ」


 湊の指が止まった。


 別の名。


 その言葉は、見えない布みたいだった。

 自分の上にかけられるもの。

 姿を隠すためのもの。

 知らない場所で立つためのもの。


 でも同時に、自分と地球の間に置かれる、薄い扉みたいでもあった。


 ブエンは、湊をまっすぐ見た。


「その名は、お前を隠すためのものだ」


 医療室の空気が静かになる。


「同時に、お前がここで立つための名でもある」


 湊は息を止めた。


 まだ何も分かっていない。


 銀河連邦も、自分の力も、ここで何が待っているのかも分からない。

 帰れるのかも分からない。

 蓮にもう一度会えるのかも分からない。


 それでも、ブエンの次の言葉だけは、なぜか来る前から重たかった。


 ブエンは、静かに言った。


「ファイ」


 初めて、その音が医療室に落ちた。


「ここでは、そう呼ぶ」


 続いた言葉は、短かった。

 けれど、その短さがかえって、湊の胸に残った。


 ファイ。


 聞いたことのない名前だった。


 湊ではない。


 家で呼ばれていた名前ではない。

 教室で呼ばれていた名前ではない。

 蓮が隣から普通に呼んでくれた名前でもない。


 でも、蓮に危険が及ばないようにするための名。

 故郷を遠ざけるための名。

 湊を消すためではなく、湊を隠しておくために置かれた名。


 そう言われたから、湊はそれを拒めなかった。


 受け入れたわけではなかった。

 そんなに簡単に、受け入れられるものではなかった。


 ただ、落とさないようにした。


 両手で抱えるみたいに。

 まだ自分のものにはできないまま、でも手放せないものとして、胸の前に置いた。


 ブエンは、それ以上何も言わなかった。


 湊がその名をどう受け止めるのか。

 その名を、いつ自分の中に置けるのか。


 それは、今すぐ決めさせることではなかった。


 医療室には、機械の小さな音だけが残った。


 湊は、布団を握ったまま、もう一度だけ心の中でその音をなぞった。


 ファイ。


 知らない名前。


 隠すための名前。


 ここで立つための名前。


 地球から遠ざかる名前。


 それでも、蓮へ伸びる細い糸を切らないための名前。


 湊は返事をしなかった。


 ただ、頬に残った涙が冷たく乾いていくのを感じながら、白い天井を見つめていた。


 その日、湊はまだ、ファイにはなれなかった。


 けれど、その名を初めて、胸の中に抱えた。

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