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闇より速く、光より深く  作者: なすび
第一章 知らない空で呼ばれる名

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第4話 知らない天井

 最初に感じたのは、音だった。


 ぴ、ぴ、と小さく鳴る音。


 遠くで、人の声がしている。知らない匂いがする。病院みたいだけれど、湊の知っている病院とは少し違った。


 湊は、ゆっくり目を開けた。


 白い天井。

 見たことのない灯り。

 腕には、細い光の線みたいなものが浮かんでいる。


 体は重い。喉はからからだった。


 横を見ると、知らない女の人が立っていた。


 銀色の装甲。腰には剣。


 公園にいた人だ、と、ぼんやり思った。


 女の人は、湊が目を開けたことに気づいても、すぐには近づかなかった。


「目が覚めたか」


 落ち着いた声だった。


 湊は、しばらくその人を見ていた。


 頭がうまく動かない。


 ここがどこなのか。

 どうして自分が寝ているのか。

 さっきまで何があったのか。


 何も分からなかった。


「ここ……どこ……」


 声は、自分でもびっくりするくらいかすれていた。


 腕を動かそうとすると、細い光の線がふわりと揺れた。


「動くな」


 女の人が言った。


 怒鳴ってはいない。でも、逆らったらだめだと思わせる声だった。


 湊はびくっとして、手を止める。


 女の人は、ほんの少しだけ間を置いた。


 怖がらせたいわけではないのだと、その沈黙で分かった気がした。


「ここは医療室だ。お前は倒れていた」


「医療……室……?」


「怪我はしていない。だが、身体に負担が残っている。今は起き上がるな」


 医療室。

 倒れていた。

 怪我はしていない。


 言われた言葉を、ひとつずつ拾おうとしているうちに、湊の目がふいに大きく開いた。


「そうだ……! 蓮……!」


 腕に浮かんでいた光の線が、ぴんと震えた。


 女の人が一歩前へ出る。


「動くな」


 さっきより少し強い声だった。


 湊の身体の周囲で、機械が小さく音を立てる。薄い光が何度も点滅した。


 女の人は湊の顔を見る。


 怖がっている。

 混乱している。

 それでも、その目は自分のことではなく、別の誰かを探していた。


 女の人は、短く息を吐いた。


「蓮という少年なら、生きている」


 部屋の空気が、ほんの少しだけ変わった。


「怪我もない。今は安全な場所にいる」


 女の人は、それ以上言わなかった。


 湊は、すぐには理解できなかった。


 生きている。

 怪我もない。

 安全な場所にいる。


 その三つだけが、ゆっくり胸の奥に落ちていく。


「……良かった……」


 小さな声だった。


 泣きそうにも、笑いそうにも聞こえた。


 湊の肩から、ふっと力が抜ける。腕に浮かんでいた光の線が静かに揺れ、機械の音も少しだけ落ち着いた。


 女の人は何かを言いかけて、やめた。


 湊のまぶたが、重そうに下がっていく。


 聞くべきことは、たぶん山ほどあった。


 ここがどこなのか。

 自分はなぜ倒れていたのか。

 あの男たちは何だったのか。

 蓮は、どうしてここにいないのか。


 けれど湊は、それ以上何も聞けなかった。


 蓮が生きている。


 今の湊には、それだけでよかった。


 もう一度、小さく息を吐く。


 そのまま、湊は眠りに落ちた。


 女の人はしばらく黙って、その寝顔を見ていた。


 さっきまで地球の公園に深い闇を残していた子どもは、今は安心したように眠っている。


 危険な力。

 未知の素質。

 地球で起きた異常現象。


 報告書に並ぶであろう言葉は、いくらでも思いつく。


 だが、目の前にいるのは、友人の無事を聞いて眠ってしまった子どもだった。


「……そうか」


 女の人は、誰にともなくつぶやいた。


「まず、そこなのだな」


 背後から、隊員が静かに近づいてくる。


「隊長。説明は」


「今はいい」


 女の人は湊から目を離さずに答えた。


「眠らせておけ」


「了解」


 隊員が下がる。


 医療室には、機械の小さな音だけが残った。




 湊が眠ったあと、医療室は静かになった。


 腕に浮かんでいた光の線は薄くなり、呼吸も落ち着いている。


 女の人――ブエンは、しばらくその寝顔を見ていた。


 眠っている湊の指が、布団の端を軽く握っている。


 まだ何かを離したくないみたいに。


「隊長」


 背後から、隊員が声をかけた。


 ブエンは振り返らずに答える。


「蓮という少年は」


「地球側へ戻しました。自宅付近の安全圏です。近隣住民が発見する流れに調整しています」


「処理は」


「完了しています。現地の記録も、必要範囲で調整済みです」


「そうか」


 少なくとも、蓮という少年は地球に戻った。怪我もない。日常へ戻る道は、まだ残されている。


 この子には、それがない。


 ブエンは眠っている湊を見る。


「地球側の家族は」


「失踪として処理される可能性があります。現地社会への干渉を最小化するなら、それが最も自然です」


 自然。


 その言葉が、妙に重く聞こえた。


 親から見れば、子どもが消えた。

 友人から見れば、隣にいた子がいなくなった。

 本人から見れば、帰り道の途中で知らない場所へ連れて来られた。


 それでも、宇宙側の記録では、自然な処理と呼ばれる。


 ブエンは目を伏せなかった。


 目を逸らせば、ただの処理になる。


「……この子には、今すぐ何もかも話すな」


「よろしいのですか」


「今すぐすべてを話せば、壊れる」


 ブエンは短く言った。


「目を覚ましても、まずは蓮という少年のことだけでいい」


「了解しました」


 医療室の扉が静かに閉まる。


 ブエンは湊のそばに残った。


 眠る子どもの横で、剣を帯びた女が一人、ただ立っている。


 守るためではない。

 見張るためだけでもない。


 そのどちらでもあった。




 次に湊が目を覚ました時、医療室の明かりは少し落とされていた。


 白かった天井は、今は淡い青を含んで見える。遠くで、低い機械音がしていた。


 体の重さは、さっきより少しだけましになっている。腕の光の線も薄くなっていた。


 湊が目を開けたことに気づき、ブエンが椅子から立ち上がる。


 彼女は、今度もすぐには近づかなかった。


「目が覚めたか」


 声は静かだった。


「身体は動かすな。まだ負担が残っている」


 ブエンは湊の顔色と呼吸を見たあと、短く言った。


「蓮という少年は、地球に戻した」


 湊の目が、かすかに揺れる。


「生きている。怪我もない」


 ブエンはそこで止めた。


 それ以上を、今まとめて話すべきではなかった。


「地球に戻した……?」


 湊の声は、まだ少しかすれていた。


 ブエンは答えず、湊の反応を待つ。


 顔色は悪い。呼吸も浅い。けれど、目だけははっきりしてきている。眠りから覚めたばかりの、ぼんやりした目ではなかった。


「ここはどこなの……?」


 ブエンはすぐには答えなかった。


 嘘をつくことはできる。

 安心させるだけなら、もっと柔らかい言い方もできる。


 だが、蓮は地球に戻したと言った。


 では、自分はどこにいるのか。


 その問いから目を逸らせば、この子はきっと、あとでブエンの言葉を信じられなくなる。


 ブエンは静かに息を吸った。


「地球ではない」


 医療室の機械が、小さく鳴った。


 湊の指先が、布団をつかむ。


「ここは、銀河連邦の医療室だ」


 銀河連邦。


 その言葉は、湊の中にまだ入っていかなかった。


 学校でも、テレビでも、本でも、誰からも聞いたことのない名前だった。


 ブエンはそれ以上、続けなかった。


 地球へすぐには戻れないこと。

 湊の中にある力のこと。

 あの公園で何が起きたのか。


 どれも今すぐ話すには重すぎる。


 だから、必要なことだけを残した。


「少なくとも、蓮は地球にいる。生きている。怪我もない」


 そこだけは、もう一度言った。


「今、確かに言えるのはそれだけだ」


 ブエンは、湊のそばで足を止めていた。


 近づきすぎない。

 けれど、離れもしない。


 湊の呼吸が、少し乱れている。


 ブエンはその呼吸を見ながら、次の言葉を飲み込んだ。


「僕はいつ帰れるの……?」


 医療室の音が、少し遠くなった気がした。


 ブエンは、すぐには答えなかった。


 答えを探していたのではない。


 分かっていた。


 「すぐ帰れる」と言えば、この子はそれにすがる。

 けれど、それは嘘になる。


 「帰れない」と言い切るには、まだ早すぎる。

 けれど、期待だけを渡すこともできなかった。


 ブエンは、湊の目を見た。


「今は、分からない」


 短い答えだった。


 湊の指が、布団をつかむ力を強める。


「だが、すぐには戻せない」


 ブエンは、言葉を置くように続けた。


「お前の身体に、まだ分からない反応が残っている。無理に戻せば、お前自身にも、周りの者にも危険が出るかもしれない」


 湊が理解できるかどうかではなかった。


 理解しきれなくても、嘘をつかないことだけは必要だった。


「だから、ここで調べる。休ませる。何が起きたのか、私たちも確かめる」


 ブエンの声は静かだった。


「帰すつもりがないわけではない」


 その言葉だけは、少し強く言った。


「ただ、今すぐは無理だ」


 湊は、何も言わなかった。


 布団をつかんでいた指だけが、さらに強くなる。


 ブエンの言葉を、全部分かったわけではなかった。


 分からない反応。

 危険が出るかもしれない。

 今すぐは無理。


 知らない言葉ばかりだった。


 それでも、ひとつだけ分かってしまった。


 今は、帰れない。


 蓮は地球にいる。


 自分は、地球ではない場所にいる。


 その間に、何か大きなものができてしまった気がした。


 もう一度会えるのかどうかも分からない、遠いもの。


 湊の目から、涙が一筋こぼれた。


 泣こうとしたわけではなかった。


 声も出なかった。


 ただ、目の端から、つうっと涙だけが流れた。


 ブエンは何も言わなかった。


 怖いなら怖いと言え、と言うこともできた。

 泣きたいなら泣いていい、と言うこともできた。


 けれど、今の湊に言葉を求めるのは違う気がした。


 ブエンは静かに椅子を引き、湊のそばに座った。


 近すぎず、遠すぎない場所。


 湊が手を伸ばせば届く。

 でも、逃げたいと思えば目を逸らせる。


 その距離で、ブエンはただ座っていた。


「……今は、休め」


 声は低かった。


「話は、落ち着いてからでいい」


 湊の涙は、もう一筋だけ流れた。


 ブエンは拭わなかった。


 勝手に触れるべきではないと思った。


 この子は今、何かを失いかけている。


 まだ本当には理解できないまま。


 けれど、身体だけが先に分かってしまっている。


 蓮に会えなくなるかもしれない。


 その直感だけが、湊の胸の奥に落ちていた。

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