第3話 銀色の人たち
公園の空気は、まだ震えていた。
夕方の光は、何も知らないみたいにすべり台を照らしている。錆びかけたブランコも、砂場の黄色いスコップも、さっきまでと同じ場所にあった。
けれど、そこだけが明らかに違っていた。
地球の住宅街にある、小さな公園。
その真ん中に、地球のものではない残骸が転がっている。
壊れた黒い鞄。
ねじ曲がった拘束具。
砂に刻まれた深い跡。
そして、意識を失った二人の子ども。
銀色の装甲をまとった隊員たちは、降下と同時に散開していた。倒れている男たちへ二名。装備の封鎖に二名。周辺警戒に一名。誰も大きな声を出さない。足音さえ、砂に吸われるように小さかった。
その中心で、女だけが動かなかった。
腰には剣がある。
背筋はまっすぐで、立っているだけで周囲の空気を押さえ込むような人だった。
女は、湊を見ていた。
「隊長。末端員二名、意識なし。生命反応は安定しています」
隊員の一人が報告する。
「転送補助具、破損。拘束具も使用痕あり。地球人の少年二名を確認。片方は麻痺反応のみ。外傷は軽微です」
「もう片方は」
女が短く聞いた。
報告していた隊員が、一瞬だけ言葉を止めた。
「……接近できません。残留魔力が異常です」
「不用意に近づくな」
女は視線を動かさずに言った。
湊は砂の上に倒れていた。目を閉じ、胸が小さく上下している。ランドセルは片方の肩から外れ、シャツの袖には砂がついていた。
見た目は、ただの子どもだった。
細い腕。小さな手。少し乱れた前髪。
だが、その足元にある黒は、子どもから出ていいものではなかった。
煙のようで、煙ではない。
影のようで、影ではない。
夕方の公園に落ちるどんな影よりも深く、光が触れることを拒んでいるように見えた。
「闇属性の暴走ですか」
別の隊員が、硬い声で言った。
「断定するな」
女はすぐに返した。
鋭い声だった。だが、怒鳴ってはいない。
隊員が口を閉じる。
女は一歩だけ湊へ近づいた。
黒い靄が、ほんの少し揺れた。
それだけで、周囲の隊員たちが身構える。
女は剣の柄に手を添えた。抜くためではない。抜かずに済む距離を、正確に測るためだった。
「暴走しているなら、近づいた時点で食われている」
「では、これは……」
「分からん」
女は短く言った。
その言葉に、隊員たちの緊張がわずかに増した。
分からない。
それは、銀河連邦の現場部隊にとって、もっとも危険な報告の一つだった。
分からないものは、対処できない。
対処できないものは、味方も、民間人も、星も巻き込む。
それでも女は、湊から目を逸らさなかった。
黒い靄は、湊の周りだけに留まっている。倒れた男たちには向かわない。隊員たちにも伸びてこない。蓮の方へも、壊れた鞄の方へも動かない。
まるで、湊のそばを離れまいとしているようだった。
女は、砂に残った跡を見る。
倒れた男たちを見る。
拘束されたまま意識を失っている蓮を見る。
そして、湊を見る。
「……この子は」
女は小さく言った。
「守ろうとしたのか」
誰も答えなかった。
答えられる者は、そこにはいなかった。
蓮は少し離れた砂の上で、眠るように倒れていた。隊員が膝をつき、首元に小さな器具をかざしている。
「こちらの少年は移動可能です。拘束具の反応も抜け始めています」
「外傷は」
「ありません。意識が戻れば、自力で歩けるかと」
「なら、この星に残す」
女は言った。
蓮のそばにいた隊員が、わずかに顔を上げる。
「よろしいのですか」
「連れて行く理由がない」
「接触記録が残ります」
「処理は必要最小限にしろ。深く触るな」
女の声が少し低くなる。
「この子も、被害者だ」
「了解」
隊員は蓮の状態を確認し、そっと体勢を整えた。
蓮の手は、何かをつかもうとした形のまま固まっていた。意識を失っていても、誰かを引き止めようとしていたみたいに。
その手の先には、湊がいる。
女はそれを見て、ほんの少しだけ眉を寄せた。
黒い鞄の周囲を調べていた隊員が声を上げる。
「隊長。転送補助具を確認。辺境型です。識別紋は削られていますが、内側に残留があります」
「読めるか」
「完全ではありません。ただ、以前から追っていた組織のものと一致する可能性があります」
女の目が細くなった。
「地球まで来ていたか」
「はい。おそらく、未開星の住民を狙った拉致です。禁制品として売るつもりだったのか、労働力か、実験材料かは不明です」
隊員の声に、感情はほとんどなかった。
けれど女の指が、剣の柄を少しだけ強く握った。
「子どもを選んだ理由は」
「現時点では不明です。ただ、記録を見る限り、特定個体を狙った形跡はありません」
隊員が壊れた鞄を見た。
「人通りのない場所。抵抗力の低い個体。搬送しやすい体格。それだけかと」
女は何も言わなかった。
ただ帰ろうとしていただけの子ども。
偶然、見つけられた子ども。
連れて行きやすいと思われた子ども。
その片方が、銀河連邦の追跡対象だった犯罪組織の末端を、到着前に制圧していた。
しかも、殺していない。
「全員、生きているんだな」
「はい。重度の魔力損傷はありますが、生命反応はあります。拘束も可能です」
「そうか」
女は、ほんのわずかに息を吐いた。
安堵と呼ぶには短すぎる。
けれど、無関心ではなかった。
湊の足元で、黒い靄が少しだけ薄くなった気がした。
隊員の一人が、恐る恐る口を開く。
「隊長。この子をこのまま地球に置くのは危険です」
「分かっている」
「しかし、連れて行くのも危険です」
「それも分かっている」
女は湊のそばにしゃがんだ。
黒い靄の、ぎりぎり外側だった。
湊の顔は青ざめていた。眉間に小さくしわが寄っている。眠っているというより、怖い夢の中にいるようだった。
女は手を伸ばさなかった。
触れれば、何が起こるか分からない。
けれど、目は逸らさなかった。
「この状況で、その子だけを加害者として扱うな」
低い声だった。
隊員たちが黙る。
「襲ったのはあの男たちだ。連れ去ろうとしたのも、あの男たちだ。この子は巻き込まれた」
「ですが、闇属性の可能性が」
「だから見極める」
女は立ち上がった。
剣を抜くことはなかった。
その代わり、湊と隊員たちの間に立った。
「危険だから殺す。分からないから封じる。それだけなら、我々があの連中と違う理由がなくなる」
隊員たちは、倒れた男たちを見た。
ねじ曲がった拘束具。
壊れた黒い鞄。
砂に残る深い跡。
それでも、誰も死んでいない。
「殺すための闇なら、ここはもっとひどい有様になっている」
女の声は静かだった。
「この子は、まだ自分の力を知らない」
風が吹いた。
ブランコが、ぎい、と鳴る。
「知らないものを抱えたまま、ここへ置いてはいけない」
それは、甘い判断ではなかった。
危険を見なかったことにする言葉でもなかった。
危険だからこそ、見張る。
危険だからこそ、知る。
危険だからこそ、置き去りにしない。
女は周囲を見渡した。
「末端員を拘束。装備は封印。転送痕跡を記録しろ。現場の民間記録は最小範囲で処理する」
「地球側の目撃者は」
「確認しろ。ただし、不要な干渉は避けろ」
「こちらの少年は」
隊員が蓮を見る。
女も蓮を見た。
蓮の手は、まだ湊をつかもうとしていた。
「応急処置が終わり次第、安全な場所へ戻せ。家の近くでいい。誰かに見つけられる形にしろ」
「記憶処理は」
「必要なら行う。だが、深く触るな」
「了解」
隊員が蓮を抱え上げる。
蓮の頭が、力なく揺れた。
その唇が、かすかに動く。
「……みな、と」
声は小さかった。
砂を踏む音に紛れて、すぐ消えてしまいそうなほどだった。
それでも、女には聞こえた。
湊の指が、ほんの少しだけ動いた。
意識はないはずだった。
けれど、聞こえたのかもしれない。
女は蓮を見た。
それから、湊を見た。
ほんの一瞬、何かを迷うように目を伏せる。
だが、すぐに顔を上げた。
「……私はブエン。銀河連邦の者だ」
湊に向けて、女は言った。
返事はない。
「お前を傷つけるつもりはない」
黒い靄が、足元でかすかに波打つ。
ブエンはゆっくりと手を伸ばした。
隊員たちが息をのむ。
黒い靄が、指先に触れた。
冷たさが走る。
ただの冷気ではない。もっと深いところから、身体の内側まで引き込まれるような感覚だった。
ブエンは手を引かなかった。
痛みを無視したわけではない。
恐れがないわけでもない。
それでも、その手を引くことはしなかった。
「来い」
命令のようで、祈りのようでもあった。
「ここには置いていけない」
湊のまつげが、ほんの少し震えた。
黒い靄が揺れ、少しだけ弱まる。
ブエンは湊の背中に手を回し、慎重に抱き上げた。
思ったより軽かった。
危険な力を残した子どもは、腕の中ではただの子どもだった。
湊の額が、ブエンの装甲にこつんと触れる。
その瞬間、黒い靄がふっと小さくなった。
「……隊長」
「問題ない」
ブエンは湊を抱えたまま立ち上がった。
湊の手が力なく下がっている。
小さな指先には、まだ砂がついていた。
連れて行くのは、この子だけだ。
そう決めた瞬間、ブエンの胸の奥に、小さな重さが沈んだ。
この子は、まだ何も知らない。
自分が何をしたのかも。
これからどこへ行くのかも。
目を覚ました時、隣に蓮がいないことも。
公園の端で、蓮を抱えた隊員が待機していた。蓮は眠ったまま、湊の方へ顔を向けている。
ブエンは一度だけ、蓮へ視線を向けた。
「その子を頼む」
「了解」
隊員が短く答える。
ブエンは腕の中の湊へ視線を落とした。
「……すまない」
それが湊に向けたものなのか、蓮に向けたものなのか、ブエン自身にも分からなかった。
足元に、淡い光の円が広がる。
地面の砂が浮き、空気が静かに歪む。
隊員たちは拘束した男たちと装備を運び始める。蓮を抱えた隊員だけが、その光の外へ下がっていく。
蓮は残る。
湊だけが、光の中にいる。
公園の景色が白くにじんだ。
すべり台も、ブランコも、砂場のスコップも、遠くなる。
帰り道の途中だった少年は、何も知らないまま、その日、地球を離れた。
最後に残ったのは、風で揺れるブランコの音だけだった。
ぎい。
ぎい。
まるで、誰かがまだそこに座っているみたいに。




