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闇より速く、光より深く  作者: なすび
第一章 知らない空で呼ばれる名

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第3話 銀色の人たち

 公園の空気は、まだ震えていた。


 夕方の光は、何も知らないみたいにすべり台を照らしている。錆びかけたブランコも、砂場の黄色いスコップも、さっきまでと同じ場所にあった。


 けれど、そこだけが明らかに違っていた。


 地球の住宅街にある、小さな公園。


 その真ん中に、地球のものではない残骸が転がっている。


 壊れた黒い鞄。


 ねじ曲がった拘束具。


 砂に刻まれた深い跡。


 そして、意識を失った二人の子ども。


 銀色の装甲をまとった隊員たちは、降下と同時に散開していた。倒れている男たちへ二名。装備の封鎖に二名。周辺警戒に一名。誰も大きな声を出さない。足音さえ、砂に吸われるように小さかった。


 その中心で、女だけが動かなかった。


 腰には剣がある。


 背筋はまっすぐで、立っているだけで周囲の空気を押さえ込むような人だった。


 女は、湊を見ていた。


「隊長。末端員二名、意識なし。生命反応は安定しています」


 隊員の一人が報告する。


「転送補助具、破損。拘束具も使用痕あり。地球人の少年二名を確認。片方は麻痺反応のみ。外傷は軽微です」


「もう片方は」


 女が短く聞いた。


 報告していた隊員が、一瞬だけ言葉を止めた。


「……接近できません。残留魔力が異常です」


「不用意に近づくな」


 女は視線を動かさずに言った。


 湊は砂の上に倒れていた。目を閉じ、胸が小さく上下している。ランドセルは片方の肩から外れ、シャツの袖には砂がついていた。


 見た目は、ただの子どもだった。


 細い腕。小さな手。少し乱れた前髪。


 だが、その足元にある黒は、子どもから出ていいものではなかった。


 煙のようで、煙ではない。


 影のようで、影ではない。


 夕方の公園に落ちるどんな影よりも深く、光が触れることを拒んでいるように見えた。


「闇属性の暴走ですか」


 別の隊員が、硬い声で言った。


「断定するな」


 女はすぐに返した。


 鋭い声だった。だが、怒鳴ってはいない。


 隊員が口を閉じる。


 女は一歩だけ湊へ近づいた。


 黒い靄が、ほんの少し揺れた。


 それだけで、周囲の隊員たちが身構える。


 女は剣の柄に手を添えた。抜くためではない。抜かずに済む距離を、正確に測るためだった。


「暴走しているなら、近づいた時点で食われている」


「では、これは……」


「分からん」


 女は短く言った。


 その言葉に、隊員たちの緊張がわずかに増した。


 分からない。


 それは、銀河連邦の現場部隊にとって、もっとも危険な報告の一つだった。


 分からないものは、対処できない。


 対処できないものは、味方も、民間人も、星も巻き込む。


 それでも女は、湊から目を逸らさなかった。


 黒い靄は、湊の周りだけに留まっている。倒れた男たちには向かわない。隊員たちにも伸びてこない。蓮の方へも、壊れた鞄の方へも動かない。


 まるで、湊のそばを離れまいとしているようだった。


 女は、砂に残った跡を見る。


 倒れた男たちを見る。


 拘束されたまま意識を失っている蓮を見る。


 そして、湊を見る。


「……この子は」


 女は小さく言った。


「守ろうとしたのか」


 誰も答えなかった。


 答えられる者は、そこにはいなかった。


 蓮は少し離れた砂の上で、眠るように倒れていた。隊員が膝をつき、首元に小さな器具をかざしている。


「こちらの少年は移動可能です。拘束具の反応も抜け始めています」


「外傷は」


「ありません。意識が戻れば、自力で歩けるかと」


「なら、この星に残す」


 女は言った。


 蓮のそばにいた隊員が、わずかに顔を上げる。


「よろしいのですか」


「連れて行く理由がない」


「接触記録が残ります」


「処理は必要最小限にしろ。深く触るな」


 女の声が少し低くなる。


「この子も、被害者だ」


「了解」


 隊員は蓮の状態を確認し、そっと体勢を整えた。


 蓮の手は、何かをつかもうとした形のまま固まっていた。意識を失っていても、誰かを引き止めようとしていたみたいに。


 その手の先には、湊がいる。


 女はそれを見て、ほんの少しだけ眉を寄せた。


 黒い鞄の周囲を調べていた隊員が声を上げる。


「隊長。転送補助具を確認。辺境型です。識別紋は削られていますが、内側に残留があります」


「読めるか」


「完全ではありません。ただ、以前から追っていた組織のものと一致する可能性があります」


 女の目が細くなった。


「地球まで来ていたか」


「はい。おそらく、未開星の住民を狙った拉致です。禁制品として売るつもりだったのか、労働力か、実験材料かは不明です」


 隊員の声に、感情はほとんどなかった。


 けれど女の指が、剣の柄を少しだけ強く握った。


「子どもを選んだ理由は」


「現時点では不明です。ただ、記録を見る限り、特定個体を狙った形跡はありません」


 隊員が壊れた鞄を見た。


「人通りのない場所。抵抗力の低い個体。搬送しやすい体格。それだけかと」


 女は何も言わなかった。


 ただ帰ろうとしていただけの子ども。


 偶然、見つけられた子ども。


 連れて行きやすいと思われた子ども。


 その片方が、銀河連邦の追跡対象だった犯罪組織の末端を、到着前に制圧していた。


 しかも、殺していない。


「全員、生きているんだな」


「はい。重度の魔力損傷はありますが、生命反応はあります。拘束も可能です」


「そうか」


 女は、ほんのわずかに息を吐いた。


 安堵と呼ぶには短すぎる。


 けれど、無関心ではなかった。


 湊の足元で、黒い靄が少しだけ薄くなった気がした。


 隊員の一人が、恐る恐る口を開く。


「隊長。この子をこのまま地球に置くのは危険です」


「分かっている」


「しかし、連れて行くのも危険です」


「それも分かっている」


 女は湊のそばにしゃがんだ。


 黒い靄の、ぎりぎり外側だった。


 湊の顔は青ざめていた。眉間に小さくしわが寄っている。眠っているというより、怖い夢の中にいるようだった。


 女は手を伸ばさなかった。


 触れれば、何が起こるか分からない。


 けれど、目は逸らさなかった。


「この状況で、その子だけを加害者として扱うな」


 低い声だった。


 隊員たちが黙る。


「襲ったのはあの男たちだ。連れ去ろうとしたのも、あの男たちだ。この子は巻き込まれた」


「ですが、闇属性の可能性が」


「だから見極める」


 女は立ち上がった。


 剣を抜くことはなかった。


 その代わり、湊と隊員たちの間に立った。


「危険だから殺す。分からないから封じる。それだけなら、我々があの連中と違う理由がなくなる」


 隊員たちは、倒れた男たちを見た。


 ねじ曲がった拘束具。


 壊れた黒い鞄。


 砂に残る深い跡。


 それでも、誰も死んでいない。


「殺すための闇なら、ここはもっとひどい有様になっている」


 女の声は静かだった。


「この子は、まだ自分の力を知らない」


 風が吹いた。


 ブランコが、ぎい、と鳴る。


「知らないものを抱えたまま、ここへ置いてはいけない」


 それは、甘い判断ではなかった。


 危険を見なかったことにする言葉でもなかった。


 危険だからこそ、見張る。


 危険だからこそ、知る。


 危険だからこそ、置き去りにしない。


 女は周囲を見渡した。


「末端員を拘束。装備は封印。転送痕跡を記録しろ。現場の民間記録は最小範囲で処理する」


「地球側の目撃者は」


「確認しろ。ただし、不要な干渉は避けろ」


「こちらの少年は」


 隊員が蓮を見る。


 女も蓮を見た。


 蓮の手は、まだ湊をつかもうとしていた。


「応急処置が終わり次第、安全な場所へ戻せ。家の近くでいい。誰かに見つけられる形にしろ」


「記憶処理は」


「必要なら行う。だが、深く触るな」


「了解」


 隊員が蓮を抱え上げる。


 蓮の頭が、力なく揺れた。


 その唇が、かすかに動く。


「……みな、と」


 声は小さかった。


 砂を踏む音に紛れて、すぐ消えてしまいそうなほどだった。


 それでも、女には聞こえた。


 湊の指が、ほんの少しだけ動いた。


 意識はないはずだった。


 けれど、聞こえたのかもしれない。


 女は蓮を見た。


 それから、湊を見た。


 ほんの一瞬、何かを迷うように目を伏せる。


 だが、すぐに顔を上げた。


「……私はブエン。銀河連邦の者だ」


 湊に向けて、女は言った。


 返事はない。


「お前を傷つけるつもりはない」


 黒い靄が、足元でかすかに波打つ。


 ブエンはゆっくりと手を伸ばした。


 隊員たちが息をのむ。


 黒い靄が、指先に触れた。


 冷たさが走る。


 ただの冷気ではない。もっと深いところから、身体の内側まで引き込まれるような感覚だった。


 ブエンは手を引かなかった。


 痛みを無視したわけではない。


 恐れがないわけでもない。


 それでも、その手を引くことはしなかった。


「来い」


 命令のようで、祈りのようでもあった。


「ここには置いていけない」


 湊のまつげが、ほんの少し震えた。


 黒い靄が揺れ、少しだけ弱まる。


 ブエンは湊の背中に手を回し、慎重に抱き上げた。


 思ったより軽かった。


 危険な力を残した子どもは、腕の中ではただの子どもだった。


 湊の額が、ブエンの装甲にこつんと触れる。


 その瞬間、黒い靄がふっと小さくなった。


「……隊長」


「問題ない」


 ブエンは湊を抱えたまま立ち上がった。


 湊の手が力なく下がっている。


 小さな指先には、まだ砂がついていた。


 連れて行くのは、この子だけだ。


 そう決めた瞬間、ブエンの胸の奥に、小さな重さが沈んだ。


 この子は、まだ何も知らない。


 自分が何をしたのかも。


 これからどこへ行くのかも。


 目を覚ました時、隣に蓮がいないことも。


 公園の端で、蓮を抱えた隊員が待機していた。蓮は眠ったまま、湊の方へ顔を向けている。


 ブエンは一度だけ、蓮へ視線を向けた。


「その子を頼む」


「了解」


 隊員が短く答える。


 ブエンは腕の中の湊へ視線を落とした。


「……すまない」


 それが湊に向けたものなのか、蓮に向けたものなのか、ブエン自身にも分からなかった。


 足元に、淡い光の円が広がる。


 地面の砂が浮き、空気が静かに歪む。


 隊員たちは拘束した男たちと装備を運び始める。蓮を抱えた隊員だけが、その光の外へ下がっていく。


 蓮は残る。


 湊だけが、光の中にいる。


 公園の景色が白くにじんだ。


 すべり台も、ブランコも、砂場のスコップも、遠くなる。


 帰り道の途中だった少年は、何も知らないまま、その日、地球を離れた。


 最後に残ったのは、風で揺れるブランコの音だけだった。


 ぎい。


 ぎい。


 まるで、誰かがまだそこに座っているみたいに。

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