第42話 真名術
ガイを乗せた担架が、廊下の奥へ消えていった。
医療班の足音が遠ざかる。
扉が閉まった。
ファイは、任務室に取り残されたように立っていた。
《ガード・ヴェール》を張っていた手が、まだ少し上がっている。
守ったはずだった。
けれど、膜の中でガイは苦しんでいた。
腕に浮かんだ文字。
手首から肘へ。
そこから、首筋へ。
まるで、見えない誰かがガイの身体へ直接書き込んでいるようだった。
「ファイ」
ブエンの声に、ファイは顔を上げた。
「話がある」
ブエンは任務室の端へ移動した。
ファイも、そのあとについていく。
室内では、隊員たちがまだ慌ただしく動いていた。記録用の光板には、ガイの状態を示す赤い警告が残っている。
ブエンはそれを一度だけ見て、ファイへ向き直った。
「先ほどの術について話す」
「……ガイの?」
「ああ。真名術だ」
「しんめいじゅつ……?」
「古代の魔術の一種だ。本当の名を使う」
ファイは、ぱちりと瞬きをした。
「本当の、名前?」
「心と魂に結びついた名だ。真名術師は、その名を媒介にして呪いをかける」
「名前で……?」
「そうだ」
ブエンの声は短い。
「真名術は、外から撃ち込まれる魔法ではない。名を通じて、対象の内側へ届く」
ファイの目が揺れた。
透明な膜に包まれていたガイ。
何にも触れられていないはずの、その内側。
そこに浮かんだ文字。
「だから、防御魔法では防げない」
ファイは、自分の手を見下ろした。
指先が、わずかに震えている。
「……じゃあ、僕の」
「お前の判断が遅れたわけではない」
ブエンが先に言った。
「だが、あれには別の対処が必要だ」
「別の……」
「本名を隠す」
ブエンの声が、少し硬くなった。
「銀河連邦で本名を使わない理由の一つがそれだ。隊員名、登録名、コードネーム。任務では、それらを使う」
「みんなも?」
「当然だ。お前だけではない」
ファイは黙った。
名前を隠す。
それがただの決まりではなく、自分や誰かの命を守るためのものだったことを、今初めて知った。
「ガイは、どこかで本名を拾われた可能性がある」
「拾われた……」
「断定はできん。だが、真名術の痕跡がある以上、その線で調べる」
ブエンはそこで言葉を切り、ファイをまっすぐ見た。
「肝に銘じておけ」
それだけ告げると、ブエンは背を向けた。
ファイは、しばらく動けなかった。
任務室に残る赤い警告光が、壁を淡く染めている。
少し前まで、親指を立てて笑っていたガイ。
今は隔離室で、身体に知らない文字を浮かべている。
「ブエン」
ファイは小さく呼んだ。
ブエンが足を止める。
「ガイのところに、行きたい」
ブエンは振り返った。
「見るだけだ。触れるな」
「うん」
「勝手に魔法を使うな」
「……うん」
「来い」
隔離室へ続く廊下は、白い光で満たされていた。
壁一面に、魔力遮断用の紋様が走っている。
行き交う隊員たちの言葉は短い。
誰も、余計なことは言わなかった。
ブエンが隔離室の前で認証を通す。
扉が開いた。
中は静まり返っていた。
透明な遮断壁の向こうに、ガイが横たわっている。
鎮静されているのか、身体は動かない。
呼吸は小さいが、乱れてはいなかった。
意識はない。
腕には、まだ文字が残っている。
薄い墨色の線が、皮膚の内側からにじみ出ていた。
手首から肘へ。
肘から肩へ。
首筋にも、細く残っている。
ファイは遮断壁の前で足を止めた。
触れない。
魔法も使わない。
ただ、見る。
その時。
ガイの腕に浮かんだ文字から、何か細いものが伸びていることに気づいた。
糸のようだった。
暗い場所にだけ浮かび上がる、細い線。
ガイの身体から伸び、遮断壁を抜けて、どこか遠くへ続いている。
ファイは目をこすった。
それでも消えない。
「……ブエン」
「どうした」
ファイはガイの方を指さした。
「あれ」
ブエンが視線を向ける。
だが、その表情は変わらなかった。
「何が見える」
「なんか……糸みたいなのがある」
「糸?」
「うん。ガイから、どっかに……つながってる」
ブエンは黙って、ファイが指さす先を見た。
「私には見えない」
ファイは、もう一度糸へ目を凝らした。
細く揺れている。
けれど、切れてはいなかった。
ブエンはしばらく隔離室の中を見つめ、やがて短く言った。
「調べてみる価値はありそうだ」
ファイは、ガイから伸びる糸を見つめた。
細い糸は遮断壁を越え、今もどこかへ続いていた。




