第40話 しゅぱっ
訓練場の空気は、まだ完全にはほどけていなかった。
三体の人型標的は停止したまま、床に固定されている。金属の関節には、闇に縛られていた痕がうっすらと残っていた。
砲口の光は、すでに消えている。
それでも測定器だけは、忙しなく動き続けていた。
記録用の光板を、いくつもの線と数値が流れていく。測定班の隊員たちは、その記録を何度も見返していた。
ブエンは腕を組み、測定班の前に立っている。
「報告しろ」
「はい」
測定班の一人が記録光板を操作した。
訓練場の空中に、淡い光で軌跡が描き出される。
ファイがいた場所から、ぬいぐるみの前までを結ぶ一本の線だった。
「まず、《ノクス・ゼロ》についてです」
測定班の隊員は、光板へ目を向けたまま続ける。
「空間転移ではありません」
ブエンの目が細くなった。
「根拠は」
「移動経路上に、闇属性の魔力反応が残っています。空間座標の断絶も確認されていません」
「移動している、ということか」
「はい」
そこで、測定班の声がわずかに硬くなった。
「ただし、速度が異常です」
記録光板の表示が切り替わる。
「計測上は……光の速度に匹敵しています」
訓練場が静まり返った。
ブエンだけは表情を変えない。
「誤測定の可能性は」
「複数の測定器で、同じ結果が出ています」
「……そうか」
測定班は次の記録を開いた。
三体の標的が光板に映し出され、足元、腕、胴に残る闇属性の反応が強調される。
「続いて、《ノクス・バインド》です」
その横に、《アクア・バインド》の記録が表示された。
先ほどファイが放った、水属性の拘束魔法だ。
術者の位置から標的へ向かって、水の軌跡が床を走っている。
「《アクア・バインド》は、術者から対象へ向かって拘束が伸びます」
そこへ、《ノクス・バインド》の記録が重ねられた。
だが、術者から標的へ続く軌跡は、ほとんど存在しなかった。
標的自身の影から、黒い帯のような反応が直接立ち上がっている。
「ですが、こちらは対象の影から直接発生しています」
測定班の隊員が、三体の標的の足元を指した。
「三体とも、足元、関節部、胴の影から拘束が発生しています。発動後の回避は、ほぼ不可能です」
「だから避けられなかった」
「はい」
ブエンは記録光板を見つめた。
そこには、二つの異質な反応が残されている。
光に匹敵する速度での移動。
対象の影から直接発生する拘束。
どちらも、これまでの訓練では確認されていないものだった。
その時、訓練場の入口から小さな足音が聞こえた。
「あの……」
ファイだった。
両手には、先ほどのぬいぐるみを抱えている。
ファイの腕の間から、丸い耳がちょこんとのぞいていた。
ファイはブエンと測定班を見比べ、それからぬいぐるみを少し持ち上げる。
「これ……返しに来た」
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
ブエンはぬいぐるみを見てから、ファイへ視線を移した。
「無事だったか」
「うん」
ファイはこくりとうなずいた。
「倒れてなかった」
「そうか」
ブエンがぬいぐるみを受け取ろうと手を伸ばす。
だが、ファイの腕はすぐには動かなかった。
ぬいぐるみを抱く力が、ほんの少しだけ強くなる。
ブエンはそれを見て、短く言った。
「持っていろ」
「え?」
「まだ聞くことがある」
ファイはぬいぐるみを抱えたまま、ぱちぱちと瞬きをした。
ブエンはファイの前にしゃがみ、目線を合わせる。
「さっきの魔法について聞く。答えられる範囲でいい」
「うん」
「《ノクス・ゼロ》を使った時、何を考えていた?」
ファイは少し首を傾げた。
「えっと……」
ぬいぐるみの丸い耳を、指でそっと押さえる。
「間に合わないって思った」
「それだけか」
「うん」
「転移しようとしたのか」
「てんい?」
「離れた場所へ、一瞬で移動しようとしたか」
ファイは、さらに首を傾げた。
「わかんない」
測定班の隊員が手元の記録へ目を落とす。
ブエンは続けた。
「では、どういう感覚だった」
「なんとなく……」
ファイは眉を寄せた。
しばらく考えてから、ようやく口を開く。
「しゅぱって感じ」
測定班の手が止まった。
ブエンは動じない。
「しゅぱ、か」
「うん。しゅぱって行った」
「……そうか」
測定班の一人が光板に何かを書き込もうとし、手を止めた。
ブエンは次の質問へ移る。
「魔法弾を弾いた時、どうやった」
ファイは自分の右手を見た。
「うーん……」
また少し考える。
「来たから、こう」
ファイはぬいぐるみを片腕で抱え直し、空いた手を前へ出した。
小さく、横へ払う。
「スパンって」
測定班の手が、また止まった。
「では、《ノクス・バインド》は」
「止めようと思ったよ?」
今度はすぐに答えた。
「壊したくなかったし」
ブエンはわずかに目を伏せた。
「……そうか」
ファイはぬいぐるみを抱え直す。
自分が何か特別なことを言ったとは、少しも思っていない顔だった。
ブエンは立ち上がり、測定班へ向き直った。
「記録はすべて保全しろ。今日の件は、私の許可なく外部へ出すな」
「はっ」
「以後、闇属性魔法の訓練は、私の監督下で行う」
隊員たちの表情が引き締まった。
測定班も、回復班も、周囲で待機していた隊員たちも、一斉にうなずく。
その中心で。
ファイだけがぬいぐるみを抱いたまま、きょとんとしていた。




