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闇より速く、光より深く  作者: なすび
第五章 名をたどる者たち
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第37話 悪い力じゃない

 焦げた紙の匂いは、もうどこにも残っていなかった。


 それなのに、ファイはふとした瞬間に思い出す。


 本名で書くな。


 ブエンの声。伸びてきた手。自分の名前を書いた紙が、目の前で燃え尽きていく光。


 怒られたのとは違う。


 ブエンはすぐに謝ってくれた。お前を守るためだと、目線を合わせて言ってくれた。


 それでも、自分の名前を書いた紙が燃えた瞬間だけは、胸の奥に小さく残っていた。


 名前を書くことが、そんなに危ないことなのか。


 まだ、よく分からない。


 けれど、あの時のブエンの顔は、嘘ではなかった。


 数日後。


 ファイは銀河連邦の転送区画に立っていた。


 足元に淡い光が広がる。今回の任務は、大きな戦闘ではない。辺境施設に残された記録端末の回収と、周辺区域の安全確認。ヴィンクルム商会の残党が使っていた可能性のある施設を調べ、危険があれば処理する。


 それでも、ファイにとっては正式な任務同行だった。


 ヴィンクルム商会残党の施設で、魔力炉の爆発から拉致被害者たちを守って以来、ファイは少しずつ小さな任務に参加するようになっていた。


 廃棄された補給所に残る証拠の回収。


 崩れかけた通路の安全確認。


 逃げ遅れた作業員の避難補助。


 拘束された残党の護送。


 保護対象が移送されるまでの短い護衛。


 どれも、地下で魔力炉が爆発したあの日ほど大きな任務ではない。


 けれど、現場には必ず誰かがいた。


 怖がっている人。


 帰りたがっている人。


 何が起きたのか分からないまま、震えている人。


 ファイは、その人たちの前に《ガード・ヴェール》を張った。崩れかけた通路には《テラ・ウォール》で土の壁を作り、支えにする。逃げ道を塞ぎそうな瓦礫は、《ブラスト・ショット》で小さく砕いた。


 闇魔法は、使わなかった。


 使おうともしなかった。


 ブエンの指示を聞き、隊員たちと動き、守るべき人を守る。報告をして、回収品を渡し、次の指示を待つ。


 任務は、それで終わった。


 その日の任務も成功だった。


 怪我人はない。


 回収した記録端末にも、すぐに暴発しそうな危険はなかった。隊員が確認用のケースへ収め、封印処理を行う。淡い魔法光が走り、ケースの表面に銀河連邦の管理印が浮かび上がった。


 ファイはそれを見ていた。


 何も失敗していない。


 誰も泣いていない。


 誰かを守れた。


 それなのに、胸の奥には、別の光景が残っていた。


 濁った紫の魔力炉。


 赤く裂けた爆発の光。


 遠くにいた牢屋の人たち。


 普通に走れば、間に合わなかった。


 防御魔法だけでは、届かなかった。


 あの時、闇がなければ。


 《ノクス・ゼロ》がなければ。


 ファイは、ケースを運んでいく隊員の背中を見つめたまま、自分の指をぎゅっと握った。


 夜。


 任務後の報告を終えると、銀河連邦の廊下は昼間より少し静かになっていた。


 隊員たちの足音もまばらになる。遠くで端末の起動音が鳴り、すぐに消えた。


 ファイは、ブエンの部屋の前で立ち止まった。


 言いたいことは決まっている。


 決まっているのに、扉の前に立つと、胸の中で言葉がもじもじ動いた。


 手を上げる。


 でも、すぐには叩けない。


 闇の魔法を使えるようになりたい。


 そう言ったら、ブエンはどう思うだろう。


 危ないと言われるかもしれない。まだ早いと言われるかもしれない。あの力は使うなと、止められるかもしれない。


 それでも、言わないままにはできなかった。


 ファイは小さく息を吸い、扉を叩いた。


 中から返事があり、扉が開く。


 ブエンがこちらを見た。


 任務中の鎧はすでに外している。それでも、姿勢は崩れていない。腰の剣がなくても、ブエンはブエンだった。


 ファイは一度、口を開きかけた。


 けれど、すぐには声が出なかった。


 ブエンは急かさない。ただ、ファイが言葉を出すのを待っていた。


「ブエン……」


「なんだ?」


 ファイは胸の前で指を握った。


「僕……やっぱりちゃんと闇の魔法を使いこなせるようになりたい」


 言い終えてから、顔を上げる。


 まっすぐ、ブエンを見た。


 ブエンの表情は大きく変わらない。ただ、その視線だけが、少し深くなる。


「なぜそう思った?」


 ファイの中で、またあの光景が動いた。


 牢屋。


 爆発。


 届かない距離。


 そして、自分の身体が闇にほどけて、あの場所へ届いた感覚。


 怖くなかったわけじゃない。


 でも、怖いより先に、助けたいと思った。


「あの時、やっぱりあの力がなかったら助けられなかった。だから、この力は悪い力じゃないと思う。それなら、もっと助けられるようにこの力を使えるようになりたい」


 言葉は、途中で揺れなかった。


 ブエンを見たまま、最後まで言い切った。


 ブエンは、しばらくファイを見ていた。


「……そうか」


 短く言って、ブエンはその場にしゃがみ込んだ。


 目線が合う。


 隊長としての声だった。甘くはない。けれど、突き放す声でもない。


「ただ、正直に言えば、私にもその力を使いこなす方法は分からない。危険も伴うかもしれん。それでもやってみるか?」


 ファイの眉が、少し寄った。


 分からない。


 危険かもしれない。


 その言葉は、胸の奥に重く落ちた。


 闇は、もう怖くないわけではない。ガルム・ヴィンクルムのことも、消えたわけではない。自分の中にネロがいることも、全部が分かったわけではない。


 それでも。


 あの日、闇は誰かを殺すためではなく、誰かのもとへ届いた。


 なら、知らないままにしておきたくなかった。


 ファイは、握っていた指を少しだけほどいた。


「……やりたい」


 声は大きくなかった。


 けれど、逃げる声でもなかった。


 ブエンはその返事を受け止めるように、静かにうなずいた。


「……わかった。私も方法を考える。今日は休め」


 ファイは小さく頭を下げ、ブエンの部屋を離れた。


 自室へ向かう廊下で、ふと足元を見る。


 明かりに照らされて、影が細く伸びていた。


 それは何も言わず、ただファイについてきている。


 怖くないわけではない。


 でも、あの日、その闇は確かに届いた。


 ファイは足元の影を見つめて、それからゆっくり歩き出した。

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