第37話 悪い力じゃない
焦げた紙の匂いは、もうどこにも残っていなかった。
それなのに、ファイはふとした瞬間に思い出す。
本名で書くな。
ブエンの声。伸びてきた手。自分の名前を書いた紙が、目の前で燃え尽きていく光。
怒られたのとは違う。
ブエンはすぐに謝ってくれた。お前を守るためだと、目線を合わせて言ってくれた。
それでも、自分の名前を書いた紙が燃えた瞬間だけは、胸の奥に小さく残っていた。
名前を書くことが、そんなに危ないことなのか。
まだ、よく分からない。
けれど、あの時のブエンの顔は、嘘ではなかった。
数日後。
ファイは銀河連邦の転送区画に立っていた。
足元に淡い光が広がる。今回の任務は、大きな戦闘ではない。辺境施設に残された記録端末の回収と、周辺区域の安全確認。ヴィンクルム商会の残党が使っていた可能性のある施設を調べ、危険があれば処理する。
それでも、ファイにとっては正式な任務同行だった。
ヴィンクルム商会残党の施設で、魔力炉の爆発から拉致被害者たちを守って以来、ファイは少しずつ小さな任務に参加するようになっていた。
廃棄された補給所に残る証拠の回収。
崩れかけた通路の安全確認。
逃げ遅れた作業員の避難補助。
拘束された残党の護送。
保護対象が移送されるまでの短い護衛。
どれも、地下で魔力炉が爆発したあの日ほど大きな任務ではない。
けれど、現場には必ず誰かがいた。
怖がっている人。
帰りたがっている人。
何が起きたのか分からないまま、震えている人。
ファイは、その人たちの前に《ガード・ヴェール》を張った。崩れかけた通路には《テラ・ウォール》で土の壁を作り、支えにする。逃げ道を塞ぎそうな瓦礫は、《ブラスト・ショット》で小さく砕いた。
闇魔法は、使わなかった。
使おうともしなかった。
ブエンの指示を聞き、隊員たちと動き、守るべき人を守る。報告をして、回収品を渡し、次の指示を待つ。
任務は、それで終わった。
その日の任務も成功だった。
怪我人はない。
回収した記録端末にも、すぐに暴発しそうな危険はなかった。隊員が確認用のケースへ収め、封印処理を行う。淡い魔法光が走り、ケースの表面に銀河連邦の管理印が浮かび上がった。
ファイはそれを見ていた。
何も失敗していない。
誰も泣いていない。
誰かを守れた。
それなのに、胸の奥には、別の光景が残っていた。
濁った紫の魔力炉。
赤く裂けた爆発の光。
遠くにいた牢屋の人たち。
普通に走れば、間に合わなかった。
防御魔法だけでは、届かなかった。
あの時、闇がなければ。
《ノクス・ゼロ》がなければ。
ファイは、ケースを運んでいく隊員の背中を見つめたまま、自分の指をぎゅっと握った。
夜。
任務後の報告を終えると、銀河連邦の廊下は昼間より少し静かになっていた。
隊員たちの足音もまばらになる。遠くで端末の起動音が鳴り、すぐに消えた。
ファイは、ブエンの部屋の前で立ち止まった。
言いたいことは決まっている。
決まっているのに、扉の前に立つと、胸の中で言葉がもじもじ動いた。
手を上げる。
でも、すぐには叩けない。
闇の魔法を使えるようになりたい。
そう言ったら、ブエンはどう思うだろう。
危ないと言われるかもしれない。まだ早いと言われるかもしれない。あの力は使うなと、止められるかもしれない。
それでも、言わないままにはできなかった。
ファイは小さく息を吸い、扉を叩いた。
中から返事があり、扉が開く。
ブエンがこちらを見た。
任務中の鎧はすでに外している。それでも、姿勢は崩れていない。腰の剣がなくても、ブエンはブエンだった。
ファイは一度、口を開きかけた。
けれど、すぐには声が出なかった。
ブエンは急かさない。ただ、ファイが言葉を出すのを待っていた。
「ブエン……」
「なんだ?」
ファイは胸の前で指を握った。
「僕……やっぱりちゃんと闇の魔法を使いこなせるようになりたい」
言い終えてから、顔を上げる。
まっすぐ、ブエンを見た。
ブエンの表情は大きく変わらない。ただ、その視線だけが、少し深くなる。
「なぜそう思った?」
ファイの中で、またあの光景が動いた。
牢屋。
爆発。
届かない距離。
そして、自分の身体が闇にほどけて、あの場所へ届いた感覚。
怖くなかったわけじゃない。
でも、怖いより先に、助けたいと思った。
「あの時、やっぱりあの力がなかったら助けられなかった。だから、この力は悪い力じゃないと思う。それなら、もっと助けられるようにこの力を使えるようになりたい」
言葉は、途中で揺れなかった。
ブエンを見たまま、最後まで言い切った。
ブエンは、しばらくファイを見ていた。
「……そうか」
短く言って、ブエンはその場にしゃがみ込んだ。
目線が合う。
隊長としての声だった。甘くはない。けれど、突き放す声でもない。
「ただ、正直に言えば、私にもその力を使いこなす方法は分からない。危険も伴うかもしれん。それでもやってみるか?」
ファイの眉が、少し寄った。
分からない。
危険かもしれない。
その言葉は、胸の奥に重く落ちた。
闇は、もう怖くないわけではない。ガルム・ヴィンクルムのことも、消えたわけではない。自分の中にネロがいることも、全部が分かったわけではない。
それでも。
あの日、闇は誰かを殺すためではなく、誰かのもとへ届いた。
なら、知らないままにしておきたくなかった。
ファイは、握っていた指を少しだけほどいた。
「……やりたい」
声は大きくなかった。
けれど、逃げる声でもなかった。
ブエンはその返事を受け止めるように、静かにうなずいた。
「……わかった。私も方法を考える。今日は休め」
ファイは小さく頭を下げ、ブエンの部屋を離れた。
自室へ向かう廊下で、ふと足元を見る。
明かりに照らされて、影が細く伸びていた。
それは何も言わず、ただファイについてきている。
怖くないわけではない。
でも、あの日、その闇は確かに届いた。
ファイは足元の影を見つめて、それからゆっくり歩き出した。




