幕間 報告書と名前
翌朝。
まだ部屋の明かりも、少しだけ眠たそうな色をしていた。
ファイは机の前に座っていた。
目は半分ほど閉じかけている。何度かこくん、と頭が揺れて、そのたびに慌てて背筋を伸ばす。
机の上には、一枚の報告書が広げられていた。
昨日、ブエンに「これでは報告書にならん」と言われたものではない。新しい紙だった。
ファイは両手でペンを握り、じっと紙を見る。
任務で何が起きたのか。
どう判断したのか。
どの魔法を使ったのか。
どうやって守ったのか。
昨日ブエンに聞かれたことを思い出しながら、ファイはひとつずつ書こうとしていた。
けれど、紙の上には、まだ数行しか文字が並んでいない。
『まりょくろがばくはつしそうだったので、急いで行きました』
そこまでは書けた。
その次で、ファイの手が止まっていた。
急いで行った。
それは本当だ。
でも、どうやって急いで行ったのかと言われると、やっぱりよく分からない。
ファイはペン先を紙に当てたまま、むむ、と眉を寄せる。
少し考えて、また止まる。
しばらくして、小さく息を吐いた。
「ねぇ、ネロ?」
胸の奥に、少しだけ重たい沈黙があった。
返事はすぐには来ない。
ファイは机に頬をつけそうになりながら、もう一度呼ぼうとした。
その時、不機嫌そうな声が返ってきた。
『……なんだ』
ファイの顔が、少しだけ明るくなる。
「あの時に使ってた魔法ってなんだっけ?」
『知るか』
「名前ぐらい教えてよぉ」
ファイはペンを持ったまま、少しだけ肩を落とした。
胸の奥で、面倒くさそうな気配が揺れる。
『……《ノクス・ゼロ》だ』
「《ノクス・ゼロ》……それってどんな魔法なの?」
『しれっと追加で質問してんじゃねえよ』
ファイは口を尖らせた。
「いいじゃん教えてくれても」
しばらく、返事はなかった。
けれど、完全に黙ったわけではない。
ファイはその気配を感じながら、ペンを握り直して待った。
『……はぁ……闇そのものになる力だ。そのまま闇に溶け込むこともできる』
『貴様がやったのはそれだ』
「ふ~ん……」
ファイは真面目な顔でうなずいた。
それから、紙に視線を戻す。
ペン先が、少しだけ動いた。
闇そのものになる。
闇に溶け込む。
ファイはもう一度、うなずく。
「よくわかんないや」
『なら聞くんじゃねぇ』
ファイは少しだけ笑った。
怒られたのに、なぜか少し安心した。
ネロの声は、昨日と同じように不機嫌だった。けれど、遠くはなかった。
ファイはもう一度、報告書に向き直る。
眠い。
でも、昨日よりは書ける気がした。
魔力炉が爆発しそうだったこと。
普通に行ったら間に合わなかったこと。
《ノクス・ゼロ》という魔法で、闇になって急いで行ったこと。
そのあと、《フォートレス・ヴェール》で牢屋の人たちを守ったこと。
みんなが無事だったこと。
ファイは一生懸命に書いた。
途中で何度も首を傾げた。
同じ言葉を二回書きそうになって、慌てて消した。
字は少し曲がった。
文も、きれいには並ばなかった。
それでも、昨日よりはずっと具体的になった。
最後に、ファイは少し迷ってから、こう書き足した。
『みんな無事でよかったです』
その一文を書いたところで、ファイは満足そうに息を吐いた。
報告書として正しいかは、分からない。
でも、昨日よりは頑張った。
そう思えるくらいには、紙の上に文字が増えていた。
数時間後。
ファイは報告書を両手で持ち、ブエンの前に立っていた。
背筋は伸びている。
けれど、指先は少しだけ紙の端を握りしめていた。
ブエンは机の向こうで、その報告書を受け取る。
ファイはじっとブエンを見る。
ブエンが一行目に目を通す。
ファイの肩が小さく上がる。
二行目。
ファイの口が、きゅっと結ばれる。
三行目。
ファイは思わず目を逸らしそうになり、すぐに戻した。
ブエンはしばらく黙って読んでいた。
そこには、昨日よりは詳しいことが書かれていた。
使った魔法の名前。
闇になれる魔法らしいこと。
《フォートレス・ヴェール》で守ったこと。
全員が無事だったこと。
ただし、文章はやはりどこか感想文に近かった。
任務記録というには、判断の理由も、時系列も、まだ足りない。
けれど。
ブエンは、ちらりとファイを見た。
ファイは、今にも判決を待つみたいな顔で立っていた。
眠そうな目の奥に、緊張と、少しの期待が混ざっている。
おそらく、朝から机に向かっていたのだろう。
分からないなりに、昨日より書こうとしたのだろう。
ブエンは小さく息を吐いた。
「まぁ今回はいいだろう」
その瞬間、ファイの顔がぱっと明るくなった。
さっきまで張り詰めていた肩から、力が抜ける。
報告書を認められた。
それだけで、ファイは任務がもう一度ちゃんと終わったみたいに嬉しそうだった。
ブエンは報告書を机に置き、その上へ視線を落とす。
そこで、ほんの少し眉を寄せた。
数枚の記録用紙が、そのまま重ねられているだけだった。
表紙がない。
「ファイ」
「はい」
ブエンは引き出しから新しい紙を一枚取り出し、報告書の上に重ねた。
「これを表紙にしろ。ここに名前を書け。提出者が分からん」
「あっ、そっか」
ファイはきょとんとしてペンを受け取った。
それから、何の疑いもなく、表紙の空欄へ名前を書いた。
ブエンの目が、鋭く変わる。
ペン先が最後の一画を書き終えるより早く、ブエンの手が伸びた。
「本名で書くな!」
表紙だけが、ファイの手元から抜き取られる。
次の瞬間、ブエンの指先に火が走った。
紙の端が赤く光り、炎が一気に広がる。
ファイが名前を書いた表紙は、あっという間に燃え尽きた。
灰になった紙片が、床の上へ静かに落ちる。
報告書本体は、机の上に残っていた。
ファイは、目を大きく開いたまま固まっていた。
たった今、自分が名前を書いた紙が燃えた。
何がいけなかったのか、すぐには分からなかった。
ただ、ブエンの声が鋭かったことだけが、胸に残った。
ブエンは、すぐにファイの前へ回った。
そして膝をつき、目線を合わせる。
さっきの鋭さは、まだ完全には消えていない。
けれど、その声は低く、静かだった。
「驚かせてすまない。ファイ。お前を守るためだ」
ファイは、燃え残った灰と、ブエンの顔を交互に見た。
自分の名前。
地球で呼ばれていた名前。
大切な人たちが知っている名前。
それを書いた紙が、今、目の前で燃やされた。
ブエンはファイから目を逸らさなかった。
叱るためではない。
怖がらせるためでもない。
ただ、守るために。
ファイはまだ、何も言えなかった。
朝から頑張って書いた報告書の近くで、表紙だった紙の灰が静かに冷えていく。
部屋の中に、焦げた紙の匂いだけが残っていた。




