第36話 言葉にならない魔法
任務から帰還して、しばらく経っていた。
拉致されていた人たちは、全員保護された。
隊員たちにも死者は出ていない。
ヴィンクルム商会の残党も拘束され、違法魔力炉の残骸と記録端末は、銀河連邦によって回収された。
結果だけを見れば、任務は成功だった。
だが、そこで終わりにはならなかった。
――帰還後、ブエンに言われ、ファイは報告書を書くことになった。
任務で何が起きたのか。
どのように判断し、どの魔法を使い、どうやって拉致被害者たちを守ったのか。
それを記録として残す。
ファイは真剣にうなずいた。
そして、しばらく机に向かったあと、一枚の報告書を提出した。
ブエンはそれを受け取り、目を通した。
そこには、こう書かれていた。
「まりょくろがばくはつしそうだったので、急いで行って、守りました。みんな無事でよかったです」
ブエンは頭を抱え、深く息を吐いた。
「魔力炉の爆発から守ったのはよくやった。だが、これでは報告書にならん」
ファイは、きょとんとしてブエンを見上げた。
「だめ?」
「だめだ」
即答だった。
ブエンは報告書を机に置き、もう一度ため息をつく。
「私から質問をする」
「はい」
ファイは姿勢を正した。
本人なりに、かなり真面目な顔だった。
「まずは、どうやって間に合わせた?」
「えっ?」
「お前はあの時、闇を吹き出したと同時に被害者たちの前に出現した。何があった?」
あれは、走ったのではない。
ファイの身体から闇が漏れた次の瞬間、もう牢屋の前にいた。移動の途中が見えなかった。床を蹴った気配も、空間を渡る光もない。
爆発の光が広がるより先に、闇だけがその先へ滑り込んでいた。
転送とも違う。影から影へ、光に迫る速さで駆け抜けた――そうとしか思えなかった。
だから聞かなければならない。
ファイは少し首を傾げる。
「うーん……普通にやれば間に合わないって言われたよ?」
「説明になってない」
ブエンは再び頭を抱えた。
ファイは困ったように瞬きをする。
嘘をついているわけではない。
ふざけているわけでもない。
本当に、そうとしか言えない顔だった。
ブエンは、質問の角度を変えることにした。
「質問を変えよう。あの時に使った魔法はなんだ?」
ファイはまた、きょとんとした。
「わかんない」
ブエンの眉が、ぴくりと動いた。
「分からない?」
「うん」
ファイは自分の胸元に手を当てる。
「頭の中に浮かんできたよ?」
部屋の空気が、少しだけ変わった。
ブエンはすぐには言葉を返さなかった。
呆れた顔が消え、ファイの前で静かに姿勢を正す。
「ファイ」
「はい」
「私は《ノクス・ゼロ》という魔法を知らない」
ファイの表情が、少し戸惑う。
「知らないの?」
「ああ」
ブエンの声は低かった。
「おそらく私だけではなく、知っている者はほとんどいないだろう」
ファイは黙った。
あの時は、考える余裕なんてなかった。
普通に走っても間に合わない。
遠くから《ガード・ヴェール》を張ろうとしても届かない。
爆発が迫っている。
牢屋の中の人たちがいる。
だから、行った。
それだけだった。
けれど、それだけでは済まないのだと、ブエンの顔を見て分かった。
その時、胸の奥で声がした。
『禁呪属性を、通常魔法と同じ物差しで測れるかよ』
吐き捨てるような声だった。
ファイは小さく目を開く。
「……きんじゅぞくせいは、通常魔法と違うって言ってるよ?」
ブエンの視線が鋭くなる。
「ネロか?」
「うん」
ファイは素直にうなずいた。
ブエンは少しだけ目を伏せた。
「そうか……」
ネロの声が聞こえた。
それは、ファイが闇に呑まれたという意味ではない。
少なくとも今、目の前にいるファイはファイのままだ。
だが、分からないことは増えた。
ファイが何を使ったのか。
《ノクス・ゼロ》とは何なのか。
なぜ、あの場面で名前が浮かんだのか。
それをネロがどこまで理解しているのか。
ブエンは、それ以上をその場で問い詰めなかった。
「いずれにせよ、まだ知らないことが多いようだ」
ファイは、少しだけ背筋を伸ばした。
「ファイも油断するな」
「……はい」
ファイは小さくうなずいた。
報告書は、結局、ブエンが質問を重ねる形で記録にまとめることになった。
ファイの書いた最初の一枚は、机の端に置かれたままだった。
そこに書かれた文字は、やっぱり報告書というより、感想文に近かった。
その日の夜。
ファイは自室に戻り、ベッドに横になった。
任務のあと、ずっと身体の奥に力が残っている気がしていた。
爆発の光。
《フォートレス・ヴェール》に叩きつけられた衝撃。
牢屋の中で震えていた人たち。
全員が無事だったと聞いた時の、胸がほどけるような感覚。
そして、あの声。
ファイは天井を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「ネロ……」
返事はない。
それでも、ファイは続けた。
「あの時はありがとう。教えてくれなかったら間に合わなかった」
しばらく、部屋は静かだった。
やがて、胸の奥から不機嫌そうな声が返ってくる。
『別に助けたつもりはねぇよ』
ファイは目を閉じた。
「でも、助かったよ……本当にありがとう」
『……』
ネロはすぐには返さなかった。
ファイはその沈黙を、少しだけ待った。
怖くはなかった。
前みたいに、身体を奪われる気配でもない。
ただ、そこにいる。
素直じゃなくて、意地悪で、でもあの時、確かに届く道を教えてくれた声が。
『……礼を言う暇があったら、報告書ぐらいはまともに書け』
ファイは少しだけ笑った。
「作文苦手……でもがんばる」
それきり、ネロの声は返ってこなかった。
けれど、突き放された感じはしなかった。
ファイは布団を少しだけ引き寄せる。
まぶたが重くなる。
闇は、もう怖くないわけではない。
でも、あの闇は届いた。
誰かを殺すためではなく。
誰かを守るために。
ファイはそのことを胸の奥に抱えたまま、ゆっくり眠りに落ちていった。




