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闇より速く、光より深く  作者: なすび
第三章 闇の中のもう一人
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第30話 帰ってきたファイ

 ブエンは、しばらく動けなかった。


 赤かった瞳の色が、ゆっくりと金色へ溶けていく。


 それを見届けて、剣の柄から手が離れた。


「……そうか」


 低い声だったが、張りつめていた空気がかすかに緩んだ。


 ブエンは寝台のそばまで歩き、膝をつく。


 そして、ファイの頭にそっと手を置いた。


「よく帰ってきた、ファイ」


「……うん!」


 ファイが元気よく返事をした、その直後だった。


 ぐうううう、と、静かな医療室に妙に大きな音が響いた。


 ブエンの手が、ファイの頭の上で止まる。


 周囲で控えていた隊員たちも、反射的に視線をそらした。


 ファイは少しだけ頬を赤くして、へらっと笑った。


「お腹すいた」


 その一言で、医療室に漂っていた緊張がすとんと抜けた。


 ブエンはファイの頭に置いた手をそのままに、近くの隊員へ視線を向ける。


「消化にいいものを用意しろ。量は多めでいい」


「了解しました」


 隊員がすぐに動く。


 ブエンはもう一度ファイを見た。


「よく戦った。まずは食べろ」


 温かいスープと柔らかいパンが運ばれてくると、ファイは両手でしっかりと器を受け取った。


 少しずつ口に運びながら、ぽつぽつと話し始める。


 闇の中でもう一人の自分と対峙したこと。


 どれだけ攻撃しても、ほとんど傷ひとつつけられなかったこと。


 ブエンの言葉――「攻撃と防御を同時に考えろ」――がふと浮かんだこと。


 闇の魔法を、防御魔法で包んで返したこと。


 ファイの話は、ところどころ感覚的だった。


 なぜそうしたのかを問われても、言葉にならない。


 それでも、ひとつだけははっきりしていた。


 ファイは、闇を消したのではない。


 身体を明け渡さず、自分自身として最後まで立っていた。


 ブエンは口を挟まずに聞いていた。


 ファイが最後のパンを小さくちぎったところで、静かに問いかける。


「それで、その"もう一人のお前"はどうなった」


 ファイは顔を上げた。


「ネロって名前つけたよ?」


 ブエンの手が、わずかに止まった。


「……ネロ?」


「うん。くろまるは嫌だって」


「……くろまる」


 低い声で復唱する。


 そばに立っていた隊員の一人が、こらえきれず顔をそらした。


 ブエンは一拍おいてからファイを見た。


「……それは、嫌がるだろうな」


 至極まじめな声だった。


 まじめだったからこそ、どこかおかしかった。


 ファイは器を持ったまま、ぱっと笑った。


「仲良くなったよ!」


 その瞬間、胸の奥――もっと深いところから声がした。


『仲良くなってねぇ!!』


「ひゃっ!?」


 ファイはスープの器を落としかけて、慌てて両手で支えた。


 ブエンが即座に身を乗り出す。


「どうした!」


 周囲の隊員たちも、一斉に動きかける。


 ファイは目をぱちぱちさせたまま、自分の胸元を見下ろした。


「んー……ネロ喋れるみたい」


 苦笑いしながらそう言って、器を持ち直す。


 それから、少しだけ声を落とした。


「……ちょっとうるさいかも……」


『聞こえてるぞ』


 器の中のスープが、ファイの手元でかすかに揺れた。


 ファイは胸元を見て、ブエンに笑顔を向ける。


「……でも、大丈夫。ネロも友達だから」


『誰が友達だ。勝手に決めるな』


 ファイの内側で、小さな声が悪態をつく。


 ブエンには届かない言葉だった。


 それでもブエンは、ファイの顔から目を離さなかった。


「……そうか」


 短く、それだけ言った。


 ファイは器を両手で持ったまま、胸の奥へ向けて小さく言った。


「よろしくね。ネロ」


 しばらく、静かになった。


 それから、闇の底で声がする。


『……ふん』


 ファイは、ほんの少しだけ笑った。


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