第29話 『ネロ』
「……勝った……?」
かすれた声が、闇の底へ落ちていった。
返事はない。
黒い水面の向こうで、もう一人のファイは倒れたまま動かなかった。
肩口から胸元にかけて裂けた闇が、かすかに揺らいでいる。
赤い瞳の光も、先ほどより弱い。
ファイは、痛む肩を押さえたまま立っていた。
勝ったのか。
まだなのか。
分からない。
ただ、もう一人のファイは起き上がってこなかった。
やがて、黒い水面が小さく波打つ。
倒れていたもう一人のファイの指が、ぴくりと動いた。
ファイの身体が、わずかに強張る。
もう一人のファイは、黒い水面に片手をついた。
立ち上がろうとする。
けれど、肩口から裂けた闇が大きく揺らぎ、その身体を支えきれなかった。
膝が崩れる。
もう一人のファイは、再び黒い水面へ倒れ込んだ。
ファイは、ゆっくりと近づいていく。
一歩。
また一歩。
足元で、黒い水面が静かな波紋を広げた。
倒れたまま、もう一人のファイが低く言った。
「……見下すんじゃねぇよ」
赤い瞳が、下からファイを睨み上げる。
「早く殺せ」
ファイは、何も言わなかった。
しばらく、倒れたもう一人の自分を見つめる。
それから、口をへの字に曲げた。
嫌だ。
そう言葉にする代わりに、ファイは静かに首を振った。
もう一人のファイの目が、わずかに細くなる。
「お前……オレも殺さないつもりか……?」
ファイは答えなかった。
ただ、悲しそうな顔で見つめていた。
泣きそう、というよりも。
本当に嫌なものを前にした子どもの顔だった。
もう一人のファイは、その顔を見て、かすかに口元を歪める。
「甘ちゃんが……」
吐き捨てるような声だった。
けれど、そこに先ほどまでの鋭さはなかった。
ファイは、少しだけ息を吸った。
「……僕は、殺したくない……」
声は小さかった。
それでも、その言葉は黒い水面の上へ確かに落ちた。
「君も……僕なんでしょ……?」
もう一人のファイが、ファイを見た。
赤い瞳が、ほんの少しだけ見開かれる。
怒りではない。
嘲りでもない。
予想もしていなかった言葉に触れたような、かすかな揺れだった。
しばらく、二人の間に音はなかった。
黒い水面だけが、静かに波打っている。
やがて、もう一人のファイが呆れたように言った。
「……また、お前を乗っ取ろうとするかもしれんぞ……」
ファイは、少しだけ首を傾げた。
「そしたら、また倒すよ」
それは、当たり前のことを言うような声だった。
もう一人のファイの赤い瞳が、わずかに見開かれる。
それから、力が抜けたように小さく息を吐いた。
「……本当に、甘ちゃんだな」
黒い水面が、静かに揺れる。
二人とも、しばらく何も言わなかった。
倒れたもう一人のファイ。
立ったままのファイ。
同じ顔をした二人が、深い闇の中で向かい合っている。
やがて、ファイが口を開いた。
「君の名前は?」
「……そんなものない」
「そうなの?」
「必要ない」
「でも、呼びにくいよ?」
「呼ぶな」
即答だった。
ファイは少し困ったように眉を寄せた。
それから、何かを思いついたように顔を上げる。
「じゃあ、僕が付けるね?」
「……」
「じゃあ……くろまる」
「それだけはやめろ」
また即答だった。
ファイは目を丸くする。
「え、かわいいよ?」
「オレを何だと思っている」
「じゃあ……よるちゃん」
「殺すぞ」
「えぇ……」
ファイは本気で困った顔をした。
もう一人のファイは、倒れたまま心底うんざりしたように顔をしかめる。
「もっとまともに考えろ」
ファイは、少しだけ考えた。
黒い水面が、静かに揺れている。
闇。
赤い瞳。
同じ顔をした、もう一人の自分。
怖かった。
苦しかった。
それでも今はもう、ただ怖いだけのものではなかった。
「じゃあ……ネロは?」
もう一人のファイは、すぐには答えなかった。
赤い瞳が、ファイを見つめる。
「……さっきよりはましだ」
ファイの顔が、少しだけ明るくなった。
「じゃあ、ネロね」
「勝手に決めるな」
「よろしく、ネロ」
「……気安く呼ぶな」
そう言いながらも、ネロはもう否定しなかった。
ファイは、少しだけ笑った。
そして、手を差し出す。
ネロは、その手を見た。
嫌そうに顔を歪める。
「……馴れ合うつもりはない」
「うん」
ファイは手を引っ込めなかった。
「でも、立てないでしょ?」
「……うるさい」
ネロは舌打ちするように顔をそむけた。
それでも、しばらくしてから、渋々その手を取った。
指先が触れた瞬間、ファイの胸の奥へ冷たいものが流れ込んできた。
黒く、重く、深いもの。
怖い。
けれど、さっきまでのように押し潰される感じではなかった。
ファイは一瞬だけ息を詰める。
それでも、その手を離さなかった。
黒い水面が、静かに揺れる。
遠くから、光が差した。
最初は、細い線だった。
それが少しずつ広がり、闇の世界を白くほどいていく。
ネロの姿が、光の中で薄れていった。
ファイは、最後までその手を離さなかった。
そして――。
ファイは、目を開けた。
自分の部屋だった。
天井。
寝具。
落とされた灯り。
すぐそばに、ブエンがいた。
ブエンは椅子から立ち上がりかけていた。
その手は、剣の柄にかかっている。
ファイの瞳は、赤かった。
「ファイ、私がわかるか!」
鋭い声が飛ぶ。
ファイは、すぐには答えなかった。
赤い瞳のまま、ブエンを見る。
それから、ぼんやりと自分の手を眺めた。
ブエンの指に、力がこもる。
それでも、剣は抜かなかった。
「私のことがわかるか、ファイ!!」
今度の声は、命令だけではなかった。
焦りと、祈りが混じっていた。
ファイの唇が、少しだけ動く。
「……ブエン」
その声は、小さかった。
けれど、確かにファイの声だった。
ブエンの手が、剣の柄の上で止まる。
ファイは、にこっと笑った。
「勝ったよ」
赤い瞳が、かすかに揺れる。
「僕、勝てたよ」
その言葉と同時に、瞳の赤がゆっくり薄れていく。
闇の色がほどけるように。
少しずつ。
少しずつ。
そして、ファイの瞳は金色へ戻った。




