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闇より速く、光より深く  作者: なすび
第三章 闇の中のもう一人
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第28話 沈まない光

 もう一人のファイが、ゆっくりと手を下ろした。


 その足元から、黒い水面が大きく波打つ。


「――《ノクス・ラミナ》」


 次の瞬間、ファイの周囲に闇の刃が浮かび上がった。


 正面からではない。


 右。

 左。

 背後。

 足元。


 逃げ道を封じるように、薄く研ぎ澄まされた闇の刃が、音もなく並んでいく。


 もう一人のファイは、笑っていなかった。


 ただ赤い瞳だけで、ファイを見据えている。


 指先が、わずかに動いた。


 闇の刃が、一斉にファイへ殺到する。


「――《ガード・ヴェール》!」


 透明な膜が広がり、《ノクス・ラミナ》を受け止めた。


 ファイは、ただ硬く防がなかった。


 刃の力を流す。

 向きを変える。

 そのまま、跳ね返す。


 黒い刃が、来た道を逆走した。


 もう一人のファイは避けない。


 跳ね返された刃は、その身体に触れた瞬間、音もなく沈み、闇へ溶けていった。


「何度やっても同じだ」


 もう一人のファイが、静かに手を上げる。


「――《ノクス・ニードル》」


 黒い水面が、爆ぜるように揺れた。


 今までとは比べものにならない数の闇の針が、空を埋め尽くすように撃ち出される。


 ファイは歯を食いしばり、もう一度手を前へ出した。


「――《ガード・ヴェール》!」


 透明な膜が、針の群れを受け止める。


 突き刺さる直前で、力を流す。

 向きを変える。

 跳ね返す。


 黒い針が、嵐のようにもう一人のファイへ返っていった。


 もう一人のファイは、それも避けなかった。


 闇は闇へ沈む。


 そのはずだった。


 次の瞬間、一本だけが弾けた。


「……っ!?」


 もう一人のファイの身体が、大きく後ろへ吹き飛ばされる。


 黒い水面を何度も跳ね、ようやく片膝をついた。


 肩口の闇が、裂けている。


 傷口のようなものはない。

 血も流れない。


 けれど、その部分だけ闇が乱れ、赤い瞳の光も一瞬だけ揺らいでいた。


 ファイは目を見開く。


「効いた……!?」


 もう一人のファイが、ゆっくりと顔を上げた。


 さっきまでの余裕は、もうなかった。


 赤い瞳が、怒りに満ちてファイを射抜く。


「……何をした……!」


 その声と同時に、黒い水面が大きく膨れ上がった。


「――《ノクス・バインド》」


 伸び上がった闇の帯が、今度は拘束ではなく、鞭のようにしなった。


 空気を裂くように、黒い鞭がファイへ叩きつけられる。


 ファイは反射的に手を前に出した。


「――《ガード・ヴェール》!」


 透明な膜を広げながら、頭の中でさっきの感覚を追う。


 跳ね返した闇の針。


 その一本だけが、弾けた。


 ――もしかして。


 ファイは迫る闇を見た。


 ――跳ね返す時に、闇を《ガード・ヴェール》で包めば……!


 ファイは、防御膜をただ広げなかった。


 迫り来る闇の鞭を受け止める瞬間、その一本一本を透明な光で包み込む。


 防ぐ。

 流す。

 包んだまま、返す。


 反転した闇の鞭が、もう一人のファイへ叩き返された。


「ぐっ……!」


 今度は、確かに弾けた。


 もう一人のファイの身体が黒い水面を滑り、片膝をつく。


 だが、すべては返しきれなかった。


 最後の一本が、《ガード・ヴェール》の薄くなった部分を突き破る。


「っあ……!」


 闇の鞭が、ファイの肩を打った。


 鋭い痛みが走る。


 ファイはよろめきながら、自分の防御膜を見た。


 包んで返した分だけ、膜が削れている。


 このやり方なら、届く。


 けれど、防御がもたない。


 ファイは、痛む肩を押さえた。


 返せば返すほど、自分を守る力も薄くなる。


 それでも。


「……でも、やるしかない……」


 ファイは顔を上げた。


 黒い水面の向こうで、もう一人のファイもまた、肩口の乱れた闇を押さえながら、こちらを睨んでいた。


「貴様……!」


 赤い瞳が、怒りに燃えるように光る。


 もう一人のファイが、黒い水面を蹴った。


 その身体が、闇の中へ高く舞い上がる。


「闇に呑まれろ」


 赤い瞳が、ファイを見下ろした。


「――《ノクス・アビス》」


 黒が、落ちてきた。


 渦ではない。

 刃でもない。


 ただ、触れたものすべての底を抜くような闇。


 黒い水面が沈む。

 空間そのものが、音もなく暗く落ちていく。


 見た瞬間、ファイには分かった。


 これは、《ガード・ヴェール》では無理だ。


 防いでも、押し潰される。

 跳ね返そうとしても、膜ごと呑まれる。


 脳裏に、訓練場の光がよみがえった。


 ブエンが見せてくれた、上級防御魔法。


 広く。

 厚く。

 空間ごと守る結界。


 ファイは震える手を前へ出した。


「――《フォートレス・ヴェール》……!」


 透明な光が広がった。


 けれど、ブエンのものとは違う。


 範囲は狭い。

 輪郭も揺れている。

 完全な結界には、まだ遠い。


 それでも。


 《ガード・ヴェール》より、ずっと厚い。


 闇の底へ沈もうとする空間を、透明な光がかろうじて受け止めた。


 重い。


 受け止めた瞬間、ファイの腕が沈んだ。


 肩が軋む。

 胸の奥まで、黒い圧が流れ込んでくる。


 それでも、結界はすぐには砕けなかった。


 不完全でも、確かに上級防御魔法だった。


 ファイは歯を食いしばった。


 ただ防ぐだけではだめだ。


 ここで耐えても、押し潰される。

 返さなければ、終わる。


 ファイは、《フォートレス・ヴェール》の内側で闇を包み込んだ。


 黒が暴れる。


 結界の中で、《ノクス・アビス》が沈もうとする。

 底を抜こうとする。

 ファイごと、世界の下へ引きずり込もうとする。


 ファイは両手に力を込めた。


 包む。

 流す。

 沈ませない。


 そして、返す。


「……返せええええっ!!」


 透明な結界が、大きく歪んだ。


 次の瞬間。


 包み込まれた闇が、逆向きに弾けた。


 《ノクス・アビス》が、黒い水面を裂きながら、もう一人のファイへ跳ね返る。


 だが、完全には返しきれなかった。


 結界の一部が、音を立てて破れる。


 裂け目から漏れた黒い衝撃が、ファイの肩から胸元へ叩きつけられた。


「がっ……!」


 ファイの身体が大きく揺れる。


 肩に、焼けるような痛みが走った。

 胸の奥の空気が、まとめて押し出される。


 それでも、ファイは手を下ろさなかった。


 跳ね返された闇は、もう一人のファイへ届いていた。


 赤い瞳が、見開かれる。


「が、ああああああっ……!!」


 叫びが、闇の中で裂けた。


 もう一人のファイの身体が、黒い水面へ叩きつけられる。


 水面が大きく陥没し、黒い波が爆ぜるように広がった。


 まとっていた闇が、肩口から胸元にかけて大きく裂けている。


 傷口のようなものはない。

 血も流れない。


 けれど、闇は確かに乱れていた。


 赤い瞳の光が揺らぎ、もう一人のファイは立ち上がれない。


 ファイは、肩で息をした。


「はぁ……はぁ……」


 肩が痛い。

 胸が苦しい。

 膝が震えている。


 《フォートレス・ヴェール》の光は、もうほとんど残っていなかった。


 それでも、倒れていない。


 ファイは痛む肩を押さえながら、黒い水面の上に立っていた。


「……勝った……?」


 かすれた声が、闇の中へ落ちた。


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