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闇より速く、光より深く  作者: なすび
第三章 闇の中のもう一人
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第26話 赤い瞳の再来

 眠りは、いつもより深い淵へ沈んでいた。


 布団のぬくもりも、部屋に満ちた静寂も、耳の奥に残るブエンの声も、薄い霧の向こうへほどけるように遠ざかっていく。


 次に足裏が触れたものは、床ではなかった。


 黒い水面だった。


 音のない波紋が、足元から幾重にも広がっていく。


 上も下も失われた闇の中で、ファイはひとり立っていた。


 その闇の奥で、声がした。


「……来たか」


 ファイは、ゆっくりと顔を上げた。


 黒い水面の向こうに、もう一人のファイが立っている。


 同じ顔。

 同じ背丈。

 だが、その瞳だけが赤かった。


 もう一人のファイは、唇の端をゆっくりと吊り上げた。


「久しぶりだなぁ? ファイくん?」


 ファイの身体が、わずかに強張る。


 心臓が跳ねた。


 怖い。


 その恐怖は、消えてなどいなかった。


 それでも、ファイは後ろへ下がらなかった。


 小さな手を握りしめる。


 ブエンの声が、胸の奥にまだ残っている。


 身体を渡すな。


 最後まで、お前が握っていろ。


 ファイは、もう一人の自分をまっすぐ見据えた。


「……身体は渡さない……」


 声は小さかった。


 それでもその言葉は、闇の底へ確かに落ちた。


 もう一人のファイの笑みが、わずかに凍る。


「……なんだって?」


 ファイは息を吸い込んだ。


 恐怖で喉が詰まりそうになる。


 それでも今度は、声を前へ押し出した。


「身体は渡さない!!」


 ファイの掌に、魔力が凝っていく。


 守るだけではない。


 止めるために。


 届かせるために。


「――《ブラスト・ショット》!」


 爆ぜる魔力が、黒い水面を蹴り砕くように放たれた。


 白い閃光が、果てのない闇を裂いて奔る。


 もう一人のファイは、ほんの一瞬だけ目を細めた。


 次の瞬間、その前に闇が立ち上がった。


 黒い水面からせり上がった闇が、厚い帳となって広がり、《ブラスト・ショット》を真正面から受け止める。


 衝撃が闇の壁を揺らした。


 白い火花が散る。


 黒い壁面が大きく波打ち、爆発の光は内側から押し潰されるようにして消えていった。


 もう一人のファイは、壁の向こうからこちらを眺めていた。


 赤い瞳が、細くなる。


 口元に浮かぶ笑みは、先ほどよりも冷ややかだった。


「攻撃できたのか……」


 静かな声だった。


 褒めているようにも聞こえた。


 だが、その眼差しは明らかに見下していた。


 闇の壁が、音もなくほどけていく。


 もう一人のファイは、それ以上何も言わなかった。


 ただ片手を上げる。


 足元の黒い水面が、静かに波打った。


 指先へ、闇が集っていく。


 黒い魔力は、炎のように揺らめかない。

 水のように流れもしない。


 ただ重く、深く、そこに沈殿していく。


「――《ノクス・バインド》」


 黒い帯が、水面から一斉に伸び上がった。


 蛇の群れのようにうねりながら、ファイの腕へ、足へ、首元へと迫ってくる。


 それは、ただ肉体を縛るための闇ではなかった。


 触れた場所から骨の奥まで冷え沈ませ、意志ごと絡め取るような闇だった。


 ファイは、迫りくる黒い帯を見た。


 腕を狙う帯。

 足元へ這う帯。

 首元へ回り込む帯。


 訓練場で見た魔力弾とはまるで違う。


 それでも、何も見えないわけではない。


 ファイは息を吸った。


「――《アクア・バインド》!」


 黒い水面を、水流が走った。


 幾筋もの水が鞭のように伸び、闇の帯へ絡みつく。


 水が闇を縛る。


 ほんの一瞬、闇の帯の動きが止まった。


 その隙を逃さず、ファイは右手を前へ突き出す。


 止める。


 そして、届かせる。


「――《フレイム・バースト》!」


 小さな炎が、闇の中で爆ぜた。


 触れた瞬間に弾ける、中級の炎魔法。


 炎は闇の帯の隙間を縫い、もう一人のファイへ向かって走る。


 だが、黒い水面が低く唸った。


 闇の帯が、内側から膨れ上がる。


 ファイの《アクア・バインド》は、闇の圧に握り潰された。


 水流が砕け、黒いしぶきの中へ霧散する。


 同時に、もう一人のファイの前に薄い闇が広がった。


 《フレイム・バースト》がぶつかる。


 炎が弾けた。


 けれど、届かない。


 爆ぜた火は闇の表面で散り、赤い光の残滓だけを残して呑み込まれていった。


 ファイの目が見開かれる。


 止めたはずだった。

 届いたはずだった。


 しかし、足りない。


 闇の帯が、さらに迫る。


 ファイは反射的に足元へ風を集めた。


「――《ウィンド・ステップ》!」


 風が足下で炸裂する。


 ファイの身体が、黒い水面から跳ね上がった。


 闇の帯が、つい先ほどまでファイのいた場所を一斉に貫く。


 黒い水面が大きく波打った。


 宙へ逃れたファイを、赤い瞳が追っている。


 もう一人のファイは、動かない。


 ただ、片手を上げた。


 黒い水面が、鋭く震える。


「――《ノクス・ニードル》」


 闇が、針の形を成して撃ち上がった。


 前にも見た魔法だった。


 細く、速く、避けにくい。

 ただまっすぐに突き刺すためだけの闇。


 ファイは空中で息を詰めた。


 けれど、目は逸らさない。


 足元へ、もう一度風を集める。


「――《ウィンド・ステップ》!」


 風が弾けた。


 ファイの身体が、斜め前へ滑るように跳ぶ。


 闇の針が、すぐ横を通り抜けた。

 頬の近くを、凍るような気配がかすめる。


 怖い。


 それでも、近づいた。


 さっきよりも、ずっと近い。


 ファイは空中で手を前へ差し出した。


「――《ブラスト・ショット》!」


 爆発の魔力が、至近距離から撃ち出された。


 白い光が、もう一人のファイを呑み込む。


 今度こそ。


 一瞬、そう思った。


 だが、光が消えるよりも早く、その中から黒い影が伸びた。


 闇の針。


 一本ではない。


 何本もの《ノクス・ニードル》が、爆発の光を突き破って飛来する。


「っ……!」


 ファイは水面へ落ちるように着地し、そのまま横へ転がった。


 黒い水が跳ね上がる。


 直後、ファイがいた場所に闇の針が突き刺さった。


 水面が沈む。


 黒が、さらに深くなる。


 ファイは息を切らしながら、顔を上げた。


 爆発の光が、まだわずかに残っている。


 その中心。


 白く霞む魔力の向こうに、赤い目が見えた。


 もう一人のファイは、そこに立っていた。


 傷ひとつない。


 闇が薄い外套のように、その身体を覆っている。


 ファイの喉が、きゅっと縮んだ。


 ちゃんと撃った。


 近づいた。


 避けて、狙って、届かせた。


 それでも。


「……攻撃が、届かない……」


 声が、苦しげにこぼれた。


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