第26話 赤い瞳の再来
眠りは、いつもより深い淵へ沈んでいた。
布団のぬくもりも、部屋に満ちた静寂も、耳の奥に残るブエンの声も、薄い霧の向こうへほどけるように遠ざかっていく。
次に足裏が触れたものは、床ではなかった。
黒い水面だった。
音のない波紋が、足元から幾重にも広がっていく。
上も下も失われた闇の中で、ファイはひとり立っていた。
その闇の奥で、声がした。
「……来たか」
ファイは、ゆっくりと顔を上げた。
黒い水面の向こうに、もう一人のファイが立っている。
同じ顔。
同じ背丈。
だが、その瞳だけが赤かった。
もう一人のファイは、唇の端をゆっくりと吊り上げた。
「久しぶりだなぁ? ファイくん?」
ファイの身体が、わずかに強張る。
心臓が跳ねた。
怖い。
その恐怖は、消えてなどいなかった。
それでも、ファイは後ろへ下がらなかった。
小さな手を握りしめる。
ブエンの声が、胸の奥にまだ残っている。
身体を渡すな。
最後まで、お前が握っていろ。
ファイは、もう一人の自分をまっすぐ見据えた。
「……身体は渡さない……」
声は小さかった。
それでもその言葉は、闇の底へ確かに落ちた。
もう一人のファイの笑みが、わずかに凍る。
「……なんだって?」
ファイは息を吸い込んだ。
恐怖で喉が詰まりそうになる。
それでも今度は、声を前へ押し出した。
「身体は渡さない!!」
ファイの掌に、魔力が凝っていく。
守るだけではない。
止めるために。
届かせるために。
「――《ブラスト・ショット》!」
爆ぜる魔力が、黒い水面を蹴り砕くように放たれた。
白い閃光が、果てのない闇を裂いて奔る。
もう一人のファイは、ほんの一瞬だけ目を細めた。
次の瞬間、その前に闇が立ち上がった。
黒い水面からせり上がった闇が、厚い帳となって広がり、《ブラスト・ショット》を真正面から受け止める。
衝撃が闇の壁を揺らした。
白い火花が散る。
黒い壁面が大きく波打ち、爆発の光は内側から押し潰されるようにして消えていった。
もう一人のファイは、壁の向こうからこちらを眺めていた。
赤い瞳が、細くなる。
口元に浮かぶ笑みは、先ほどよりも冷ややかだった。
「攻撃できたのか……」
静かな声だった。
褒めているようにも聞こえた。
だが、その眼差しは明らかに見下していた。
闇の壁が、音もなくほどけていく。
もう一人のファイは、それ以上何も言わなかった。
ただ片手を上げる。
足元の黒い水面が、静かに波打った。
指先へ、闇が集っていく。
黒い魔力は、炎のように揺らめかない。
水のように流れもしない。
ただ重く、深く、そこに沈殿していく。
「――《ノクス・バインド》」
黒い帯が、水面から一斉に伸び上がった。
蛇の群れのようにうねりながら、ファイの腕へ、足へ、首元へと迫ってくる。
それは、ただ肉体を縛るための闇ではなかった。
触れた場所から骨の奥まで冷え沈ませ、意志ごと絡め取るような闇だった。
ファイは、迫りくる黒い帯を見た。
腕を狙う帯。
足元へ這う帯。
首元へ回り込む帯。
訓練場で見た魔力弾とはまるで違う。
それでも、何も見えないわけではない。
ファイは息を吸った。
「――《アクア・バインド》!」
黒い水面を、水流が走った。
幾筋もの水が鞭のように伸び、闇の帯へ絡みつく。
水が闇を縛る。
ほんの一瞬、闇の帯の動きが止まった。
その隙を逃さず、ファイは右手を前へ突き出す。
止める。
そして、届かせる。
「――《フレイム・バースト》!」
小さな炎が、闇の中で爆ぜた。
触れた瞬間に弾ける、中級の炎魔法。
炎は闇の帯の隙間を縫い、もう一人のファイへ向かって走る。
だが、黒い水面が低く唸った。
闇の帯が、内側から膨れ上がる。
ファイの《アクア・バインド》は、闇の圧に握り潰された。
水流が砕け、黒いしぶきの中へ霧散する。
同時に、もう一人のファイの前に薄い闇が広がった。
《フレイム・バースト》がぶつかる。
炎が弾けた。
けれど、届かない。
爆ぜた火は闇の表面で散り、赤い光の残滓だけを残して呑み込まれていった。
ファイの目が見開かれる。
止めたはずだった。
届いたはずだった。
しかし、足りない。
闇の帯が、さらに迫る。
ファイは反射的に足元へ風を集めた。
「――《ウィンド・ステップ》!」
風が足下で炸裂する。
ファイの身体が、黒い水面から跳ね上がった。
闇の帯が、つい先ほどまでファイのいた場所を一斉に貫く。
黒い水面が大きく波打った。
宙へ逃れたファイを、赤い瞳が追っている。
もう一人のファイは、動かない。
ただ、片手を上げた。
黒い水面が、鋭く震える。
「――《ノクス・ニードル》」
闇が、針の形を成して撃ち上がった。
前にも見た魔法だった。
細く、速く、避けにくい。
ただまっすぐに突き刺すためだけの闇。
ファイは空中で息を詰めた。
けれど、目は逸らさない。
足元へ、もう一度風を集める。
「――《ウィンド・ステップ》!」
風が弾けた。
ファイの身体が、斜め前へ滑るように跳ぶ。
闇の針が、すぐ横を通り抜けた。
頬の近くを、凍るような気配がかすめる。
怖い。
それでも、近づいた。
さっきよりも、ずっと近い。
ファイは空中で手を前へ差し出した。
「――《ブラスト・ショット》!」
爆発の魔力が、至近距離から撃ち出された。
白い光が、もう一人のファイを呑み込む。
今度こそ。
一瞬、そう思った。
だが、光が消えるよりも早く、その中から黒い影が伸びた。
闇の針。
一本ではない。
何本もの《ノクス・ニードル》が、爆発の光を突き破って飛来する。
「っ……!」
ファイは水面へ落ちるように着地し、そのまま横へ転がった。
黒い水が跳ね上がる。
直後、ファイがいた場所に闇の針が突き刺さった。
水面が沈む。
黒が、さらに深くなる。
ファイは息を切らしながら、顔を上げた。
爆発の光が、まだわずかに残っている。
その中心。
白く霞む魔力の向こうに、赤い目が見えた。
もう一人のファイは、そこに立っていた。
傷ひとつない。
闇が薄い外套のように、その身体を覆っている。
ファイの喉が、きゅっと縮んだ。
ちゃんと撃った。
近づいた。
避けて、狙って、届かせた。
それでも。
「……攻撃が、届かない……」
声が、苦しげにこぼれた。




