第25話 必ず帰ってこい
それからも、訓練は続いた。
闇は、すぐには来なかった。
一日。
二日。
そして三日目の朝になっても、ファイはまだあの暗い世界へ引きずり込まれなかった。
けれど、それで終わったわけではない。
来ていないだけ。
そう分かっているから、ファイは訓練場に立ち続けた。
最初は、動きがばらばらだった。
攻撃しようとすれば、防御が遅れる。
防御を張れば、反撃の機会を逃す。
拘束を狙えば、次の攻撃への反応が遅れる。
何度も標的にかわされ、何度も魔力弾を受け、何度も人形を守り損ねかけた。
それでも、ファイは止まらなかった。
防御膜を張ったまま、標的へ水流を伸ばす。
魔力弾を受け流しながら、足元の土を動かす。
炎を斜めに当てて攻撃の軌道を逸らし、そのまま奥の標的へ届かせる。
一つずつだった動きが、少しずつ繋がっていく。
守るために防ぐ。
止めるために攻撃する。
反撃するために、次の攻撃を見ておく。
まだ完璧ではない。
けれど、ファイの魔法は前よりも止まらなくなっていた。
攻撃と防御が、少しずつ、ひとつの流れの中へ溶け込み始めていた。
その朝、ファイはいつもより早く目を覚ました。
悪夢を見たわけではない。
黒い水面も、赤い目も、声もなかった。
けれど、胸の奥だけが静かに、そして確かにざわついていた。
昨日までとは違う。
闇が遠くにいる感じではない。心臓の裏側に張り付いているような、生々しい気配。
まだ姿は見せていないのに、もうすぐそばでこちらを見ているような感覚だった。
ファイは寝具の上で、自分の手を見た。
動く。指も、腕も、自分のもの。
でも、分かってしまった。
――今日、来る。
理由はなかった。誰かに言われたわけでもない。
ただ、そうだと分かる。
訓練場に向かうと、ブエンはすでにいた。
いつものように、腰には剣がある。
けれど、ファイを見るなり、ブエンの表情がわずかに変わった。
「……顔色が悪いな」
訓練場の標的は、まだ起動していない。
静かな朝の光だけが、硬い床に落ちている。
「何かあったか、ファイ」
ファイは、すぐには答えなかった。
そっとブエンのそばへ近づき、小さな手で彼女の袖を握る。
「……今日…来るみたい…」
声は小さかった。
けれど、震えてはいなかった。
ブエンは、確かめるように袖を握るその手を見た。
「……分かった」
ブエンは静かに言った。
「今日、来るのだな」
ファイは小さくうなずく。
ブエンは少しだけ姿勢を落とし、ファイと目線を合わせた。
「なら、覚えておけ」
「何を言われても、身体を渡すな」
訓練場の空気が、静かに張り詰める。
「怖くなってもだ。苦しくなってもだ」
「…お前の身体だ」
「お前の力だ」
ファイの袖を握る手に、少しだけ力がこもる。
「最後まで、お前が握っていろ」
ファイは、強くうなずいた。
ブエンはそれ以上、言葉を重ねなかった。
その日の訓練は、いつもより短かった。
激しい攻撃もない。複雑な標的の動きもない。
防御膜を張る。標的を止める。魔力を途切れさせずに維持する。
これまで身につけてきたことを、ひとつずつ確かめるだけの訓練だった。
今日は、強くなるための日ではない。
今夜、戦うために。
崩れないことを確かめる日だった。
「今日はここまでだ」
ブエンは標的を停止させた。
「食べて、休め。身体を削るな」
ファイは小さくうなずいた。
その夜。
食堂の席に着いたファイの前に、ひとつの皿が置かれた。
小さな白いご飯の上に、色の違う具材が並んでいる。
赤いもの。白いもの。薄い黄色のもの。
星のようにかすかにきらめく切り身。
ファイの目が、ぱっと輝いた。
「……お寿司…!」
さっきまで強ばっていた顔が、一瞬でほどける。
ファイは皿の上を見つめたまま、何度かまばたきをした。本当にあるのか確かめるみたいに。
それから、ゆっくり顔を上げる。
向かい側に座ったブエンは、いつものように平然としていた。
「頼んでおいた」
短い言葉だった。
「お前は、これが好きだろう」
励ましの言葉はなかった。大丈夫だとも言わなかった。
ただ、ファイの前にはお寿司がある。
今夜、怖いものが来る。
それでも、少しでも力が入るように。
少しでも、ファイがファイのままでいられるように。
ブエンは、何でもないことのように言った。
「食べておけ」
自由な、いつもの調子で続ける。
「今夜、空腹では戦えん」
「うん……!」
ファイは目をきらきらさせながら、皿の上のお寿司を見た。
小さな手で一つ取ると、迷わず醤油には手を伸ばさなかった。
代わりに、わさびに似た緑色の薬味をちょん、と乗せる。
前と同じだった。
ブエンはそれを見ても、もう何も言わなかった。
ファイはそのまま、ぱくりと口に入れる。
「ん……!」
目がさらに輝いた。
怖い夜が来ると分かっているのに、その瞬間だけ、ファイは本当にうれしそうだった。
ブエンは静かに茶を手に取った。
「慌てるな」
いつもの低い声だった。
「寿司は逃げん」
ファイは口いっぱいに頬張ったまま、こくこくとうなずいた。
醤油はない。わさびだけ。
それでも、ファイは幸せそうに食べていた。
食堂を出る頃には、ファイの表情は少しだけやわらいでいた。
ブエンに連れられて、ファイは自分の部屋へ戻った。
部屋に入ると、ファイは寝具のそばで足を止めた。
朝からずっと消えなかったざわつきは、まだ胸の奥に残っている。
今日、来る。
そう分かっているから、眠るのが少し怖かった。
「私は前と同様、ここで様子を見る」
そう言って、ブエンは寝具の隣の椅子に腰を下ろした。
ファイは小さくうなずき、布団に手をかける。
「……おやすみ…」
そう言って、布団の中へ潜った。
灯りが少し落ちる。
部屋が静かになる。
ファイが目を閉じようとした時、ブエンの声が聞こえた。
「ファイ」
布団から顔を出してブエンを見る。真剣な顔だった。
「……必ず帰ってこい」
いつものように短い言葉だった。
祈りではない。慰めでもない。
それは、隊長としての絶対の命令だった。
ファイは布団の中で、ぎゅっと手を握った。
「……うん」
小さく、けれど力強く答えて、目を閉じる。
お寿司の温かさも、ブエンの声も、まだ胸の中に残っていた。
やがて、意識がゆっくりと沈んでいく。
そしてファイは、決戦の眠りについた。




