第22話 怖い夜でも
ブエンは短くうなずいた。
「今日はここまでだ」
標的の起動が止まる。
訓練場に残っていた魔力の光が、ひとつずつ消えていった。
ファイは肩で息をしながら、まだ標的の方を見ていた。
焦げ跡。
水の跡。
砕けた土の欠片。
失敗した跡ばかりだった。
それでも、その中には確かに、できるようになった跡もあった。
ブエンは訓練記録を閉じる。
「今夜も、睡眠中に闇の人格が現れる可能性がある」
その言葉に、壁際にいた隊員たちが顔を上げた。
「私が見張る。ファイの部屋で休む」
隊員の一人が、思わず一歩前に出た。
「隊長、それは危険です。せめて交代で監視を――」
「なら、お前がやるか?」
ブエンの声は低かった。
隊員が言葉を止める。
ブエンはファイではなく、隊員を見た。
「この子の力を、お前が止められるか?」
訓練場が静まり返った。
誰も答えなかった。
さっきまで標的をへこませ、結界を揺らしていた魔法。
それでも、まだ制御しきれていない力。
そして、その奥にある闇の人格。
止められる、と軽々しく言える者はいなかった。
「私は、止めるためにそばにいる」
ブエンは視線を戻した。
「それに、目が覚めた時、誰もいないよりはましだろう」
その言葉は、ファイに向けられていた。
ファイは、少しだけ息を止めた。
怖くないわけではない。
また、あの黒い水面に立つかもしれない。
また、赤い瞳がこちらを見るかもしれない。
また、身体をよこせと言われるかもしれない。
それでも。
目が覚めた時、ブエンがいる。
その事実だけで、胸の奥の冷たさが少しだけ和らいだ。
ファイはブエンを見上げる。
「……ありがとう」
ブエンは短くうなずいた。
「礼はいい」
静かに続ける。
「今は、休むことも訓練だ」
夕食の時間になる頃には、訓練場の熱も、金属の焦げた匂いも、少しずつ遠くなっていた。
食堂には隊員たちの声が戻っている。
食器の触れ合う音。
温かい湯気。
誰かが笑う声。
いつもの食堂だった。
けれど、ファイの手は止まっていた。
目の前には、銀河連邦の食堂で出された夕食が並んでいる。
白い粒のような主食。
薄く焼かれた肉。
透明なスープ。
小さな果物みたいなもの。
どれも、見たことのない料理だった。
ファイは匙を持ったまま、しばらく動けなかった。
お腹が空いていないわけではない。
でも、夜が近づいている。
眠れば、またあの闇に立つかもしれない。
赤い目が現れるかもしれない。
今度こそ、奪われるかもしれない。
そう思うと、喉の奥が固くなった。
向かいに座っていたブエンが、その様子を見ていた。
「食べられないか」
ファイは、少し困ったように匙を握る。
「……ちょっとだけ」
ブエンは無理に食べろとは言わなかった。
代わりに、自分の皿の端にあった小さな丸いものを、ファイの皿へひとつ移す。
淡い黄色の、柔らかそうな料理だった。
「これを食べてみろ」
ファイは皿の上のそれを見る。
「なに、これ……?」
「甘く煮た根菜だ。こちらでは子どもにもよく出る」
「野菜……?」
ファイの顔に、ほんの少し警戒が戻る。
ブエンは真顔で言った。
「うまい」
その言い方があまりにも断言だったので、ファイは瞬きをした。
それから、おそるおそる匙で小さく切り取る。
口へ運ぶ。
最初は、ほとんど味なんて分からないと思っていた。
けれど、噛んだ瞬間、ほくっと崩れた。
やわらかい。
あたたかい。
少し甘い。
地球で食べたさつまいもにも似ている。
でも、もっと香りがやさしくて、スープの味がしみていた。
ファイの目が丸くなる。
「……おいしい」
思わずこぼれた声だった。
ブエンが、ほんのわずかに口元を緩める。
「そうだろう」
ファイはもう一口食べた。
さっきまで固まっていた喉が、少しだけ通る。
「これ、なんていうの?」
「ラミュだ」
「ラミュ……」
ファイは小さく繰り返して、もう一度食べた。
今度は、ちゃんと味が分かった。
温かい。
甘い。
少しだけ、安心する味だった。
「……これ、好きかも」
そう言ってから、ファイははっとしたようにブエンを見る。
まだ怖い。
夜は来る。
闇も、きっと消えたわけじゃない。
それでも、皿の上の小さな黄色い料理だけは、ちゃんと美味しかった。
ブエンは静かに言う。
「なら、覚えておけ」
「え?」
「怖い夜でも、食べられるものがあると分かっているのは悪くない」
ファイは、皿の上のラミュを見た。
それから、小さくうなずく。
「……うん」
食堂のざわめきが、少しだけ近くに戻ってきた。
夕食を終える頃には、ファイの皿は思っていたより空になっていた。
たくさん食べたわけではない。
それでも、ラミュをいくつか食べて、スープも少し飲めた。
最初は重たかった体が、少しだけ内側から温まっている。
食堂を出ると、廊下は静かだった。
昼間より人の気配が少ない。
遠くで隊員の足音が響き、すぐに消える。
ファイはブエンの隣を歩いた。
「……ほんとに、来るの?」
自分の部屋の前で、ファイは小さく聞いた。
ブエンは扉を開けながら答える。
「可能性はある」
ごまかさない声だった。
「だが、来ない可能性もある」
部屋の灯りが、淡くつく。
いつものベッド。
机。
畳まれた訓練着。
読みかけの資料。
朝まで一人で過ごしていた部屋なのに、今日は少し違って見えた。
ブエンが部屋の隅に椅子を置く。
剣は手の届く位置。
背筋は伸びたまま。
眠るというより、見張るための姿勢だった。
ファイはベッドに腰を下ろした。
「ブエン、寝ないの?」
「浅く休む」
「それ、寝るって言うの……?」
「十分だ」
あまりにも当然のように言うので、ファイは少しだけ笑った。
その笑いは、すぐ不安に戻りかける。
でも、完全には消えなかった。
ファイは布団に入ったあと、少しだけ顔を出した。
部屋の隅に座るブエンを見る。
「……ブエン」
「なんだ」
ファイは布団を握ったまま、小さく言う。
「おやすみなさい」
ブエンは、少しだけ目を細めた。
「……ああ」
声は静かだった。
「おやすみ、ファイ」
ファイはそれを聞いて、ほんの少し安心したように目を閉じた。
灯りが少し落とされる。
部屋の中が、夜の色になった。
暗い。
けれど、あの闇とは違う。
ここには机がある。
椅子がある。
ブエンがいる。
目を閉じるのが怖い。
閉じた瞬間、また黒い水面に立っていそうで。
しばらく、まぶたを下ろせなかった。
ブエンの声が、静かに届く。
「眠れなくてもいい」
ファイは横になったまま、少しだけ目を動かす。
「目を閉じて、体を休めろ」
「……うん」
ファイは小さく返事をした。
ゆっくり目を閉じる。
黒が広がる。
でも、水音はしなかった。
赤い目もない。
身体をよこせという声もない。
聞こえるのは、自分の呼吸と、部屋の隅にいるブエンの気配だけだった。
何度も目を開けそうになった。
そのたびに、椅子のわずかな軋みや、ブエンがそこにいる空気が分かった。
大丈夫。
まだ、ここにいる。
ファイは布団を少しだけ握った。
昼間の訓練を思い出す。
標的に届いた《ブラスト・ショット》。
ブエンの「今の感覚を忘れるな」という声。
夕食で食べた、甘いラミュの味。
怖いものだけじゃなかった。
今日の中には、できたこともあった。
美味しいものもあった。
そばにいてくれる人もいた。
少しずつ、体の力が抜けていく。
呼吸が深くなる。
やがて、ファイの手から布団のしわがほどけた。
ブエンは椅子に座ったまま、静かにそれを見ていた。
夜は更けていく。
闇は、来なかった。
その夜、ファイは朝まで眠った。




