第23話 反撃する標的
朝。
ファイが目を開けた時、部屋の中は薄く明るかった。
天井がある。
机がある。
布団の感触がある。
黒い水面はない。
赤い瞳もない。
身体をよこせという声もない。
部屋の隅では、ブエンが椅子に座ったまま目を開けていた。
眠っていたのか、ずっと起きていたのかは分からない。
ただ、姿勢は昨夜とほとんど変わっていなかった。
ファイが起きたことに気づくと、ブエンは静かに言った。
「目が覚めたか」
少しだけ間を置く。
「……闇は、来なかったようだな」
ブエンはファイの様子を見ている。
顔色。呼吸。目の色。指先の震え。
それを確かめてから、短く聞いた。
「体は動くか」
ファイは、自分の手をゆっくり握った。
指は動く。腕も、足も、自分のものだった。
胸の奥に残っていた冷たい緊張が、少しだけほどける。
ファイはブエンを見て、安心したように小さく笑った。
「……うん」
その表情を見て、ブエンの肩からもわずかに力が抜けた。
ほんの一瞬だけだったが、昨夜ずっと張っていた空気が緩む。
ブエンは椅子から立ち上がった。
「ならいい」
そう言って、机の上に置いてあった水をファイへ渡す。
「まず飲め。そのあと顔を洗ってこい。朝食に行く」
少しだけ口調が戻っていた。
昨夜の見張る者ではなく、いつものブエンの声だった。
ファイは両手で水を受け取り、こくこくと飲んだ。
冷たい水が喉を通る。
それだけで、体が少しずつ朝に戻っていく気がした。
「はい」
布団から降りる足取りは、昨日より少しだけ軽かった。
朝の食堂は、夕食の時より少し慌ただしかった。
隊員たちがそれぞれの皿を持ち、並んだ料理から好きなものを取っていく。
ファイも皿を手に取り、並んだ料理の前に立った。
何度か来た食堂でも、料理の名前はまだほとんど分からない。
それでも、昨日食べたラミュだけは覚えていた。
白い粒の主食。焼いた肉。温かいスープ。見慣れない野菜。
そして、昨日食べたラミュに似た黄色い料理。
湯気が上がる料理の匂いに、少しだけお腹が鳴りそうになる。
ファイは迷わずラミュを皿に乗せた。
肉も少し。スープも取る。
問題は、端に並んでいた緑色の野菜だった。
見た目からして、少し苦そうだった。
ファイは周りをちらりと見た。
ブエンは少し離れた場所で料理を取っている。
今なら、いける。
ファイは何気ない顔をしながら、緑色の野菜を皿の端へ寄せた。
さらに、そーっと別の皿の陰へ移そうとする。
「ファイ」
背後から声が飛んだ。
ファイの手がピタリと止まる。
いつの間にか、ブエンがすぐ後ろに立っていた。
「今、何を避けた」
「……えっと」
ファイは目をそらした。
「ちょっと、苦そうだったから……」
「食べろ」
「ちょっとだけでも?」
「ちょっとだけでも、だ」
ファイはしゅんとしながら、野菜を一切れだけ皿に戻した。
ブエンはそれを見て、短くうなずく。
「よし」
ファイは小さく口をとがらせた。
「ブエン、見てないようで見てる……」
「見ている」
「うぅ……」
それでも、昨日のラミュも皿に乗せた。
席に戻ってから、ファイはまずラミュを食べた。
ほくっと崩れる甘さが、朝の不安を少しだけやわらげる。
そのあと、問題の野菜をじっと見た。
小さく切って、口へ運ぶ。
少し苦い。
でも、食べられないほどではなかった。
ファイがなんとも言えない顔をすると、ブエンは何も言わずにスープを飲んでいた。
怒られたのに、不思議と嫌ではなかった。
闇は来なかった。
体も動く。
ご飯も食べられた。
怖さが消えたわけではない。
それでも、朝はちゃんと来ていた。
食後、少し休んでから、ファイはブエンと訓練場へ向かった。
昨日と同じ場所。
けれど、並んでいる標的は少し違っていた。
ただの金属板ではない。
青白い光を帯びた、動く標的だ。左右には射出装置が配置されている。
ブエンは正面の標的を指した。
「あの標的を倒せ」
標的の胸元に、淡い光が灯る。
「ただし、今までの標的と違って反撃してくる。対処してみろ」
ファイは標的を見る。
動く。反撃してくる。ただ撃てばいいだけではない。
少し緊張した様子で、ファイは訓練線の内側へ足を踏み入れた。
標的が、わずかに左右へ揺れている。
こちらの動きを見ているような、不気味な間があった。
それでも、まずは一体。
ファイは右手を上げる。
「――《ブラスト・ショット》」
爆発は、標的の中央で正確に弾けた。
大きすぎない。弱すぎもしない。
昨日、何度も失敗しながら掴んだ感覚が、そのまま指先から届いた。
衝撃が金属の胴体を的確に捉える。
標的の胸元の光が揺らぎ、消えた。金属の身体が後ろへ倒れ、床へ沈む。
ブエンは短くうなずく。
「次だ」
床の左右から、新しい標的が二体せり上がった。
右前方と、左前方。
胸元に青白い光が灯ったかと思うと、次の瞬間、魔力弾が同時に撃ち出された。
「――《ガード・ヴェール》!」
透明な膜が広がり、二発の魔力弾を受け止める。
衝撃で膜が震える。
ファイは息を詰めながらも、防げたことを確認した。
そのまま正面の標的へ向き直り、反撃に移ろうとする。
倒す。攻撃しないと。
右手に魔力を集める。
「――《ブラスト――」
その瞬間、横から青白い光が走った。
「っ!」
詠唱が途切れる。
ファイは慌てて体をひねり、横へ手を向けた。
「――《ガード・ヴェール》!」
透明な膜が、ぎりぎりで魔力弾を受け止める。
弾かれた光が床をかすめて散った。
攻撃は防いだ。けれど、放とうとした魔法は消えていた。
「防御と攻撃を分けて考えるな!」
ブエンの声が飛ぶ。
標的は止まっていない。もう一体の胸元が光り、魔力弾が一直線に飛んでくる。
ファイはとっさにしゃがんだ。
魔力弾が頭上をかすめ、後ろの床で弾ける。
しゃがんだまま、右手を前へ向けた。
「――《フレイム・ショット》!」
小さな火球が走る。
低い軌道で滑り込むように飛んだ炎が、標的の胴体を捉えた。
胸元の光が消え、一体が床へ沈む。
倒した。
そう思った瞬間、残った最後の一体が、すでに次の魔力弾を撃ち出していた。
「――っ!」
避けきれない。
とっさに腕を上げる。
青白い光が左肩に直撃した。
衝撃。
「ァっ……!」
身体が横へ吹き飛び、硬い床へ転がった。
肩に熱い痛みが走る。
息が乱れ、視界が揺れた。
それでも、標的は止まらない。
胸元の光が、再び強くなる。
次が来る。
ファイは歯を食いしばり、痛みを押して床に手をついた。
いつもなら、ここでためらっていた。
相手の動きを縛れば、傷つけてしまうかもしれないと。
けれど今は、迷っている余裕なんてなかった。
壊すためじゃない。止めるために!
「――《アクア・バインド》!」
床を走るように水が広がった。
細い水流が標的の足元へ絡みつく。
一重。二重。三重。
ためらいのない魔力は、そこから一気に伸び上がった。
腰へ。腕へ。胸元へ。
何本もの水流が、標的の全身を強く縛り上げる。
胸元で光っていた魔力弾の照準が、大きくぶれた。
撃ち出された青白い光は、訓練場の床を斜めにかすめて弾ける。
水の拘束が、さらに締まる。
金属の関節が軋む音。
標的は拘束を振りほどこうと小さく震えたが、ファイは床に手をついたまま魔力を流し続けた。
やがて。
胸元の光がふっと消え、標的の身体が完全に停止した。
訓練場が、静かになった。




