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闇より速く、光より深く  作者: なすび
第三章 闇の中のもう一人
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第20話 侵食と決意

 ファイは、弾かれたように目を開けた。


 息が浅い。喉の奥がひりつき、胸が苦しい。寝具は汗で冷え、背中にぴたりと張りついていた。


 しばらく、何がどこまで夢だったのか分からなかった。


 黒い水面。

 赤い目。

 同じ顔をした、もう一人の自分。


 身体をよこせと迫ってきた声まで、まだすぐ耳のそばに残っている気がした。


「……っ」


 ファイは慌てて自分の腕を見た。


 動く。


 手も、指も、自分のものだった。


 奪われていない。


 その事実に少しだけ息をつき、すぐに別の怖さが押し寄せた。


 勝てたわけじゃない。


 ただ、朝になっただけだ。


 最後まで、防ぐことしかできなかった。


 ファイは勢いよくベッドを降りた。足元がふらつく。それでも止まれなかった。


 洗面台に駆け込み、冷たい水で顔を洗う。それでも頭の奥の熱は引かなかった。濡れた顔を乱暴に拭き、急いで着替える。袖を通す手が、焦りで何度か引っかかった。


 じっとしていたら、またあの闇が追いついてきそうだった。


 部屋を飛び出し、食堂へ向かう。


 廊下を進むうちに、早足はそのまま駆け足になった。曲がり角をいくつも抜け、息が乱れても止まらない。


 食堂の扉を開けた瞬間、中にいた隊員たちが一斉にこちらを振り返った。


 その奥に、ブエンがいた。


 銀河連邦の部隊を率いる隊長として、いつものように背筋を伸ばし、簡素な朝食を前にしている。ファイはそれを見つけるなり、まっすぐそこへ走った。


「ファイ。食堂で走るな」


 短い注意が飛ぶ。


 だが、ファイは止まらなかった。


 そのままブエンに飛びつく。


 小さな身体で、ぎゅっとしがみついた。


 隊長に対する突然の行動に、食堂の空気が一瞬だけ凍りつく。


 ブエンはわずかに目を見開いたが、すぐにファイの背中へ手を回した。ガルムを死なせた夜、崩れ落ちそうになったファイを受け止めた時と同じ、力強く、あたたかい手だった。


「……何があった」


 腕の中で、ファイの肩が震えていた。

 ファイはうまく息を吸えないまま、震える声を絞り出す。


「夢の中で……」

「戦った……」


 その一言で、ブエンの目の色が変わった。


 ブエンは周囲へ視線だけを向ける。


「席を外せ」


 それだけで、近くにいた隊員たちはすぐに立ち上がった。食器の音が小さく鳴り、ざわめきが離れていく。


 ブエンはファイを支えたまま立ち上がる。


「場所を移す」


 近くの待機室に入り、扉が閉まる。外の音が少し遠くなった。


 ブエンはファイと視線を合わせるように、静かに片膝をついた。


「話せるか」


 ファイは小さくうなずいた。


「もう一人の僕が、いた……」

「目が、赤かった……」


 ブエンはすぐには口を挟まなかった。


 ファイは息を整えながら、夢の中で見たことをなるべく順に話した。


 黒い闇の世界だったこと。


 もう一人の自分がいたこと。


 身体を渡せと言われたこと。


 自分では無理だと何度も突きつけられたこと。

 溢れてきた闇を、防御魔法で耐えるので精一杯だったこと。

 最後は勝ったのではなく、「時間切れか」と吐き捨てられて目が覚めただけだったこと。


 話し終えてもなお、ファイの指先は小さく震えていた。


 ブエンは黙ってそれを聞いていた。


「……おそらく」

「お前が見たのは、闇の人格だろう」


 ファイの肩が小さく揺れる。


 ブエンはまっすぐファイを見た。


「以前にも話したが、闇の最上級魔法以上を使った者は、意識を呑まれることがある」

「内側の闇が形を持ち、声を持ち、人格のように術者を押しのける」


 ブエンの声は静かだった。


「身体を奪う。判断を奪う。声を奪う。お前が出会ったのは、おそらくそれだ」


 ファイは何も言えなかった。


 視線を落とし、じっと足元を見つめる。


 闇の人格。


 自分の中にいるもの。


 声を持ち、形を持ち、自分を押しのけようとする存在。


 あの赤い目が、また胸の奥でこちらを見た気がした。


 自分の中に、あんなものがいる。


 その事実が、鉛のように腹の底へ沈んでいく。


 ブエンはそんなファイをしばらく見ていた。


 それから、そっと手を伸ばす。


 大きな手のひらが、ファイの頭に触れた。


「……だが、よく帰ってきた」


 静かな声だった。


 撫で方は穏やかだったが、慰めだけの手ではなかった。無事を確かめるように、そこにいることを伝えるように、ゆっくりと頭を撫でる。


 ファイの肩がわずかに揺れる。


 ブエンはそのまま、部隊を率いる隊長の厳しい表情へと引き締めた。


「ただ、このまま放置するわけにもいかない」

「ファイが戻ってこれたこと自体は才能だ」

「戦う余地がある」


 ファイは黙ったまま、少しだけ顔を上げた。


 ブエンの目には、恐れも、憐れみもなかった。


 あるのは、見極める目と、覚悟を決めた者の強さだけだった。


「本来なら、闇の人格に出会った時点で呑まれて終わる」

「……」

「お前は違った。奪われかけながらも、まだお前のままで戻ってきた」


 ブエンの大きな手が、もう一度だけファイの頭を撫でる。


「戦おう」


 その一言は短く、まっすぐだった。


「私が鍛える」

「お前がお前自身を守るために、戦うんだ」


 ファイの喉が小さく鳴った。


 守る。


 その言葉は、ずっと誰かに向いていた。


 公園で引き離されそうになった蓮を。

 路地裏で泣いていた子どもたちを。

 奪われそうになる命を。


 でも今、ブエンはそれを自分へ向けた。


 お前がお前自身を守るために。


 ファイの目に、涙がにじんだ。


「自分を……守る……」


 こぼれた声は、ひどく頼りなかった。


 それでも、嘘ではなかった。


 ファイは涙を落としながら、小さくうなずく。


「……うん」


 その返事を聞いて、ブエンはファイの小さな肩を両手でしっかりと掴んだ。


「闇を消せとは言わん」

「だが、身体を渡すな」

「うん……」

「お前はお前だ。明け渡す必要などない」


 ファイはもう一度、うなずいた。


 待機室の外では、朝の食堂の気配が遠く続いている。食器の触れ合う音。誰かの足音。いつもの朝だった。


 けれど、ファイの中では、もう昨日までと同じ朝ではなかった。


 逃げるだけでは、いずれ呑まれる。


 怖くても、立たなければならない。


 自分の中の闇に。


 自分を奪おうとする、もう一人の自分に。


 ファイは濡れたまつげのまま、ブエンを見た。


「……戦う」


 小さな声だった。


 けれど、それは確かに、自分で選んだ声だった。

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