第20話 侵食と決意
ファイは、弾かれたように目を開けた。
息が浅い。喉の奥がひりつき、胸が苦しい。寝具は汗で冷え、背中にぴたりと張りついていた。
しばらく、何がどこまで夢だったのか分からなかった。
黒い水面。
赤い目。
同じ顔をした、もう一人の自分。
身体をよこせと迫ってきた声まで、まだすぐ耳のそばに残っている気がした。
「……っ」
ファイは慌てて自分の腕を見た。
動く。
手も、指も、自分のものだった。
奪われていない。
その事実に少しだけ息をつき、すぐに別の怖さが押し寄せた。
勝てたわけじゃない。
ただ、朝になっただけだ。
最後まで、防ぐことしかできなかった。
ファイは勢いよくベッドを降りた。足元がふらつく。それでも止まれなかった。
洗面台に駆け込み、冷たい水で顔を洗う。それでも頭の奥の熱は引かなかった。濡れた顔を乱暴に拭き、急いで着替える。袖を通す手が、焦りで何度か引っかかった。
じっとしていたら、またあの闇が追いついてきそうだった。
部屋を飛び出し、食堂へ向かう。
廊下を進むうちに、早足はそのまま駆け足になった。曲がり角をいくつも抜け、息が乱れても止まらない。
食堂の扉を開けた瞬間、中にいた隊員たちが一斉にこちらを振り返った。
その奥に、ブエンがいた。
銀河連邦の部隊を率いる隊長として、いつものように背筋を伸ばし、簡素な朝食を前にしている。ファイはそれを見つけるなり、まっすぐそこへ走った。
「ファイ。食堂で走るな」
短い注意が飛ぶ。
だが、ファイは止まらなかった。
そのままブエンに飛びつく。
小さな身体で、ぎゅっとしがみついた。
隊長に対する突然の行動に、食堂の空気が一瞬だけ凍りつく。
ブエンはわずかに目を見開いたが、すぐにファイの背中へ手を回した。ガルムを死なせた夜、崩れ落ちそうになったファイを受け止めた時と同じ、力強く、あたたかい手だった。
「……何があった」
腕の中で、ファイの肩が震えていた。
ファイはうまく息を吸えないまま、震える声を絞り出す。
「夢の中で……」
「戦った……」
その一言で、ブエンの目の色が変わった。
ブエンは周囲へ視線だけを向ける。
「席を外せ」
それだけで、近くにいた隊員たちはすぐに立ち上がった。食器の音が小さく鳴り、ざわめきが離れていく。
ブエンはファイを支えたまま立ち上がる。
「場所を移す」
近くの待機室に入り、扉が閉まる。外の音が少し遠くなった。
ブエンはファイと視線を合わせるように、静かに片膝をついた。
「話せるか」
ファイは小さくうなずいた。
「もう一人の僕が、いた……」
「目が、赤かった……」
ブエンはすぐには口を挟まなかった。
ファイは息を整えながら、夢の中で見たことをなるべく順に話した。
黒い闇の世界だったこと。
もう一人の自分がいたこと。
身体を渡せと言われたこと。
自分では無理だと何度も突きつけられたこと。
溢れてきた闇を、防御魔法で耐えるので精一杯だったこと。
最後は勝ったのではなく、「時間切れか」と吐き捨てられて目が覚めただけだったこと。
話し終えてもなお、ファイの指先は小さく震えていた。
ブエンは黙ってそれを聞いていた。
「……おそらく」
「お前が見たのは、闇の人格だろう」
ファイの肩が小さく揺れる。
ブエンはまっすぐファイを見た。
「以前にも話したが、闇の最上級魔法以上を使った者は、意識を呑まれることがある」
「内側の闇が形を持ち、声を持ち、人格のように術者を押しのける」
ブエンの声は静かだった。
「身体を奪う。判断を奪う。声を奪う。お前が出会ったのは、おそらくそれだ」
ファイは何も言えなかった。
視線を落とし、じっと足元を見つめる。
闇の人格。
自分の中にいるもの。
声を持ち、形を持ち、自分を押しのけようとする存在。
あの赤い目が、また胸の奥でこちらを見た気がした。
自分の中に、あんなものがいる。
その事実が、鉛のように腹の底へ沈んでいく。
ブエンはそんなファイをしばらく見ていた。
それから、そっと手を伸ばす。
大きな手のひらが、ファイの頭に触れた。
「……だが、よく帰ってきた」
静かな声だった。
撫で方は穏やかだったが、慰めだけの手ではなかった。無事を確かめるように、そこにいることを伝えるように、ゆっくりと頭を撫でる。
ファイの肩がわずかに揺れる。
ブエンはそのまま、部隊を率いる隊長の厳しい表情へと引き締めた。
「ただ、このまま放置するわけにもいかない」
「ファイが戻ってこれたこと自体は才能だ」
「戦う余地がある」
ファイは黙ったまま、少しだけ顔を上げた。
ブエンの目には、恐れも、憐れみもなかった。
あるのは、見極める目と、覚悟を決めた者の強さだけだった。
「本来なら、闇の人格に出会った時点で呑まれて終わる」
「……」
「お前は違った。奪われかけながらも、まだお前のままで戻ってきた」
ブエンの大きな手が、もう一度だけファイの頭を撫でる。
「戦おう」
その一言は短く、まっすぐだった。
「私が鍛える」
「お前がお前自身を守るために、戦うんだ」
ファイの喉が小さく鳴った。
守る。
その言葉は、ずっと誰かに向いていた。
公園で引き離されそうになった蓮を。
路地裏で泣いていた子どもたちを。
奪われそうになる命を。
でも今、ブエンはそれを自分へ向けた。
お前がお前自身を守るために。
ファイの目に、涙がにじんだ。
「自分を……守る……」
こぼれた声は、ひどく頼りなかった。
それでも、嘘ではなかった。
ファイは涙を落としながら、小さくうなずく。
「……うん」
その返事を聞いて、ブエンはファイの小さな肩を両手でしっかりと掴んだ。
「闇を消せとは言わん」
「だが、身体を渡すな」
「うん……」
「お前はお前だ。明け渡す必要などない」
ファイはもう一度、うなずいた。
待機室の外では、朝の食堂の気配が遠く続いている。食器の触れ合う音。誰かの足音。いつもの朝だった。
けれど、ファイの中では、もう昨日までと同じ朝ではなかった。
逃げるだけでは、いずれ呑まれる。
怖くても、立たなければならない。
自分の中の闇に。
自分を奪おうとする、もう一人の自分に。
ファイは濡れたまつげのまま、ブエンを見た。
「……戦う」
小さな声だった。
けれど、それは確かに、自分で選んだ声だった。




