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闇より速く、光より深く  作者: なすび
第三章 闇の中のもう一人
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第19話 守る形

 もう一人のファイは、しばらく動かなかった。


 赤い瞳だけが、ファイの周囲に残る淡い光を見ている。


 《ガード・ヴェール》。


 黒一色の世界で、その透明な膜だけが、かすかな光を持っていた。


 もう一人のファイは、ゆっくり口を開く。


「……まだ、そんな薄皮に縋っているのか」


 さっきまでの、からかうような軽さはなかった。


 低く、冷たい声だった。


 足元の黒い水面が、静かに波打つ。


「なら、潰す」


 もう一人のファイが片手を上げた。


 闇が、その指先へ集まっていく。


 ただ溢れるだけの闇ではない。

 明確な向きと、意思を持った魔力だった。


「――《ノクス・バインド》」


 黒い帯が、水面から一斉に伸び上がった。


 蛇のようにうねりながら、《ガード・ヴェール》の外側へ絡みつく。


 押し潰すのではない。

 割るのでもない。


 縛るための闇。

 動きを奪うための闇。


 黒い帯が、透明な膜を幾重にも締め上げていく。


 ぎしり、と光が歪んだ。


「っ……!」


 ファイは両手に力を込めた。


 魔力を注ぐ。

 膜を厚くする。

 隙間を塞ぐ。


 それでも、闇は止まらない。


 黒い帯は膜の表面を這い、薄い場所を探るように蠢いていた。


 もう一人のファイは近づいてこない。


 ただ、遠くから見ている。


「守るために、立ち止まる」


 黒い帯が、さらに締まる。


「だからお前は、いつも奪われる」


 その言葉が、胸の奥を抉った。


 逃げれば、蓮が残る。

 離れれば、子どもたちが傷つく。

 守るなら、そこにいなければならない。


 分かっている。


 でも、このままでは。


「割られる……!」


 締め上げられる《ガード・ヴェール》の中で、ファイは息を詰めた。


 次に締まれば、膜が砕ける。


 ファイは一瞬だけ目を見開いた。


 そして、《ガード・ヴェール》を解いた。


 透明な膜が消える。


 同時に、外側から締めつけていた闇の帯が、行き場を失って内側へ殺到した。


 黒が迫る。


 腕へ。

 足へ。

 胸元へ。


「――《ウィンド・ステップ》!」


 足元で風が弾けた。


 ファイの体が、斜め上へ跳ねる。


 黒い帯は、ほんの少し遅れて空を掴んだ。


 さっきまでファイがいた場所を、闇がぐしゃりと締め潰す。


 もし、一瞬でも遅れていたら。


 考えるより先に、ファイの体は動いていた。


 風に押し上げられ、黒い世界の中を小さく跳ぶ。


 もう一人のファイが、赤い瞳でそれを追った。


「――《ノクス・ニードル》」


 闇の水面から、細い黒い針が無数に浮かび上がる。


 今度は、大きく押し潰す魔法ではなかった。


 逃げた先を読むように。

 防御を解いた一瞬を狙うように。


 黒い針の先が、空中のファイへ向く。


 無数の闇が、一斉に放たれた。


 ファイは空中で身を縮める。


 避けきれない。


 なら、防ぐしかない。


 けれど、ただ受け止めるだけでは足りない。


「――《ガード・ヴェール》!」


 透明な膜が、ファイの周囲に広がった。


 黒い針が、その表面へ突き刺さる。


 一発目。


 膜が震える。


 二発目。

 三発目。


 細い闇が、次々と食い込んでくる。


 ファイは膜を丸く保ったまま、歯を食いしばった。


 固めるだけじゃだめだ。


 真正面から受け続ければ、また割られる。


 だから。


 透明な膜が、球のように回転した。


 突き刺さろうとしていた黒い針が、角度を失う。


 まっすぐ届くはずだった闇が、膜の表面を滑った。


 弾かれる。

 流される。

 軌道がずれる。


 黒い針は次々と外れ、闇の水面へ落ちていった。


 ぽつ、ぽつ、ぽつ。


 黒い水面に波紋が広がる。


 もう一人のファイは、無言のままそれを見ていた。


 赤い瞳が、回転する《ガード・ヴェール》をじっと追っている。


 ファイの体が、ゆっくり落ち始めた。


 《ウィンド・ステップ》の勢いは、もう切れている。


 足元の闇が近づいてくる。


 もう一人のファイが、静かに片手を下げた。


「――《ノクス・グラーヴェ》」


 闇が重くなった。


 空気ではない。


 この精神世界そのものが、上からファイを押さえつけてくる。


 落下の速度が増す。


 ただ落ちているのではない。


 引きずり落とされている。


 ファイの周囲で回っていた《ガード・ヴェール》が、見えない重圧に押されて歪んだ。


 黒い水面が迫る。


 このまま叩きつけられれば、防御膜ごと潰される。


 ファイは、落下する体を無理に止めようとはしなかった。


 止めきれない。


 だったら、受け止める。


「――《ガード・ヴェール》!」


 今度の膜は、自分を包む形ではなかった。


 落ちる先。


 黒い水面との間に、透明な球が生まれる。


 小さな光の塊のような《ガード・ヴェール》が、ファイの前に浮かんだ。


 次の瞬間、ファイの体がその球へ叩きつけられる。


 透明な球が、大きく歪んだ。


 潰れる。


 けれど、割れない。


 落下の勢いを、球全体が受け止める。


 弾むのではなく、沈み込むように衝撃を吸収する。


 ファイの体は、黒い水面へ直接叩きつけられずに済んだ。


 それでも、衝撃は消えない。


 胸が詰まる。

 腕がしびれる。

 呼吸が、一瞬止まる。


 透明な球は、そのまま黒い水面へ沈みかけた。


 ファイは歯を食いしばる。


 落とされる。

 沈められる。


 でも、潰されてはいない。


 もう一人のファイの赤い瞳が、冷たく見下ろしている。


 黒い水面が、透明な球へまとわりついた。


 下から包み込み、引きずり込もうとしてくる。


「――《ノクス・グラーヴェ》」


 重圧が、さらに増した。


 《ガード・ヴェール》の球が、ぎしりと沈む。


 上からは重圧。

 下からは闇の水面。


 ファイは透明な球の上で、押し潰されそうになっていた。


 逃げる場所はない。


 《ウィンド・ステップ》で跳んでも、また落とされる。

 《ガード・ヴェール》を回しても、この重さまでは流しきれない。

 クッションにしても、沈められる。


 もう一人のファイが、ゆっくり手を握った。


 闇が、その動きに合わせて締まる。


 透明な球に、細い亀裂が走った。


 もう少しで割れる。


 割れたら、呑まれる。


 ファイは震える手を握りしめた。


「――《ガード・ヴェール》!」


 今度は、一枚ではなかった。


 足元。

 背中。

 頭上。

 左右。

 前後。


 ファイを中心に、透明な膜が何重にも広がっていく。


 自分を包む。


 押し潰されないように。

 引きずり込まれないように。

 闇が入り込む隙間を残さないように。


 全方位の《ガード・ヴェール》。


 闇の水面が、外側からそれを覆った。


 上からの重圧が、膜をさらに押し潰す。


 一枚目が歪む。

 二枚目が震える。

 三枚目に亀裂が走る。


 ファイの膝が落ちた。


 息ができない。


 重い。

 怖い。

 苦しい。


 それでも、膜は解かなかった。


 もう一人のファイの声が、闇の向こうから聞こえる。


「渡せ」


 低い声だった。


 闇が、さらに重くなる。


「震えているだけじゃ、誰も守れない」


 一枚、砕けた。


 透明な破片が、光の粒になって闇へ溶ける。


「お前はもう、手にかけている」


 続けて、もう一枚。


「オレなら、ためらわずにすべてを殺す」


 さらに一枚。


「それがお前の言う『守る形』だろ」


 ファイの喉が震えた。


 ガルムを死なせた記憶がよみがえる。


 自分の内側にある、人を殺せる真っ黒な力。


 怖い。


 このまま全部渡してしまえば、楽になるのかもしれない。


 迷わなくていい。

 怖がらなくていい。

 守れない自分を、見なくていい。


 でも。


 それは、嫌だった。


「……やだ……」


 声は、ほとんど息だった。


 それでも、闇の中へ落ちた。


「僕は……僕が決める……」


 残った力を、全部注ぎ込む。


 強く。

 もっと強く。

 隙間なく。


 自分の心まで包み込むように。


 《ガード・ヴェール》の光が、闇の中でかすかに強くなった。


 もう一人のファイの赤い瞳が細くなる。


 闇が、最後の膜を押し潰そうとした。


 光が限界までひしゃげる。


 もう無理だ。


 そう思った瞬間だった。


 闇の上の方に、細い光が差した。


 黒一色だった世界に、白い線が入る。


 もう一人のファイの赤い瞳が、光の方へ動いた。


 光が広がる。


 闇の水面が揺れ、重圧がわずかに緩んだ。


 もう一人のファイは、舌打ちした。


「ちっ」


 赤い瞳が、ファイを睨む。


「時間切れか」


 光が、さらに強くなる。


 闇の世界が崩れていく。


 黒い水面も、重たい空気も、もう一人のファイの姿も、遠ざかっていく。


 最後に聞こえたのは、低く冷たい声だった。


「次は、奪う」


 視界が白く弾けた。


 ファイは、ベッドの上で目を開けた。

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