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闇より速く、光より深く  作者: なすび
第三章 闇の中のもう一人
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第18話 もう一人の自分

 気がつけばファイは、底知れない闇の中にひとり立っていた。


「えっ……? ここ、どこ……?」


 震える声は、返ってこなかった。


 上も下も分からない。

 右も左もない。


 足元には、硬い床を踏んでいるような感覚がある。けれど同時に、どこまでも深い虚空に浮かんでいるようでもあった。


 風もない。

 匂いもない。

 音さえない。


 ただ、黒だけがあった。


 訓練場の明かりが落ちた時の暗さでも、自室の夜の静けさでもない。

 光が届かないのではない。

 ここには最初から、光というものが存在していないみたいだった。


 足元には、タールのように黒い水面が広がっている。


 ファイがおずおずと一歩下がると、ぬらりと波紋が立った。


 その波紋の向こうで、闇の一部が盛り上がった。


「……っ」


 最初は、不定形の影に見えた。


 けれど違う。


 影は粘り気のある泥のように立ち上がり、腕を作り、肩を作り、やがて顔を作っていく。


 その顔を見た瞬間、ファイは息をのんだ。


 そこに立っていたのは、ファイ自身だった。


 背丈も、顔つきも、少しくしゃっとした黒い髪も、何もかも同じ。


 でも、自分ではなかった。


 瞳が赤い。


 血のような赤だった。


 足元の水面よりも濃い黒を、ぼろ布のように全身へまとっている。髪の先も、服の輪郭も、闇に溶けるように揺れていた。


 もう一人のファイは、笑っていた。


 同じ顔で。

 同じ声を持っているはずの口で。


 それなのに、その笑みはファイのものではなかった。


「ようやく会えたなぁ」


 赤い瞳が、まっすぐファイを射抜く。


「ファイくん?」


 声は、自分の声だった。


 けれど、温度が違う。

 ねっとりと意地悪で、こちらがいちばん触れられたくない場所を、最初から知っているような声だった。


 ファイは何も言えなかった。


 目の前にいるのは、自分と同じ顔をした、知らない誰かだ。


 赤い瞳。

 泥のような闇。

 口元に張りついた、楽しそうな笑み。


 その全部が、ファイの知っている自分から遠かった。


 もう一人のファイは、怯えて黙り込むファイを眺めながら、にやにやと笑い続ける。


「何やら悩んでいるみたいじゃないか」


 赤い瞳が細められた。


「オレが解決してやろうか?」


 足元の闇が、ゆっくり波打った。


 まるで、その言葉に合わせて笑っているみたいだった。


「なんの話……?」


 ようやく絞り出した声は、ひどくかすれていた。


 もう一人のファイは、ますます楽しそうに口角を上げる。


「防ぐだけじゃ、守れないんだろ?」


 ファイの胸が、冷たく縮んだ。


「攻撃が必要なんだろ?」


 ブエンの声が、頭の奥でよみがえる。


 ――防ぐだけでは、守り切れない時がある。


 ――だから、攻撃が必要になる。


 同じ言葉のはずだった。


 でも、目の前の彼が口にすると、まるで別の意味に聞こえた。


 守るための言葉が、ひどく歪んでいく。


「なら簡単だ」


 もう一人のファイは、同じ顔を歪めて笑った。


「壊せば止まる」


 足元の黒い水面が、じわじわと広がる。


「殺せば、そいつは二度と誰も傷つけない」


「やだ……」


 ファイの声は小さかった。


 それでも、拒む言葉はこぼれた。


 もう一人のファイは、少しだけ目を細める。


「やだ?」


 嘲るような声だった。


「じゃあ、また守れないな」


 足元の闇が、不吉に揺れる。


「また誰かが泣く」

「また誰かが連れて行かれる」

「また、お前は何もできずに見てるだけだ」


 胸の奥に、蓋をしていた記憶が吹き上がった。


 路地裏で泣いていた子どもたち。

 助けを求める声。

 震えて、身を寄せ合っていた小さな背中。


 そして、ガルム・ヴィンクルムの顔。


 守れた。


 でも、死なせた。


 二つのことが、また同じ場所でぶつかる。


 ファイの両手が震えた。


 怖い。


 また誰かを守り損ねるかもしれない。

 また誰かが、目の前で傷つくかもしれない。

 また自分の力が、誰かの命を奪ってしまうかもしれない。


 それが、たまらなく怖かった。


 それでも。


「僕は……」


 喉が震える。


 もう一人のファイは、笑ったまま待っていた。

 ファイが折れるのを、楽しみにしているみたいに。


 ファイは、震える顎に力を入れた。


 顔を上げる。


「僕は、殺したくなんてないんだ!!」


 闇の底に、ファイの叫びが響いた。


 手足はまだ震えている。

 今すぐ逃げたい。

 目を閉じて、耳をふさいで、全部なかったことにしたい。


 それでも、この言葉だけは飲み込めなかった。


 殺したくない。


 それだけは、譲れなかった。


 その瞬間、もう一人のファイの顔から笑みが消えた。


 赤い瞳が、冷たく細まる。


「……そうかよ」


 さっきまでの楽しそうな声ではなかった。


 低く、冷たい声だった。


「お前じゃ無理だ」


 足元の闇が、どろりと大きく揺れる。


「守りたい。傷つけたくない。殺したくない」


 彼は吐き捨てるように言った。


「そんなことばっかり言ってるから、何も守れないんだよ」


 赤い瞳が、ファイを射抜く。


「その体をオレによこせ」


 黒い泥のような闇が、足元から溢れ出した。


「オレがもっと上手く扱ってやるよ」


 荒れた水面が大きく波打つ。

 闇が触手のように伸び、ファイの足首へ絡みつこうとした。


 もう一人のファイの輪郭が、ぐにゃりと歪む。


 背後から、膨大な黒い影が翼のように広がった。

 闇そのものが無数の腕になって、ファイを飲み込もうとしているみたいだった。


「お前が迷うなら」


 赤い瞳が、闇の中で爛々と光る。


「オレが代わってやる」


 次の瞬間、漆黒の濁流が押し寄せた。


「っ……!」


 考えるより先に、体が動いた。


 ファイの全身を包むように、透明な膜が広がる。


「――《ガード・ヴェール》!」


 防御膜は、正面だけを守る盾ではなかった。


 足元から這い上がる闇。

 背後へ回り込む影。

 左右から腕や足をつかもうとする黒い手。


 そのすべてを遮るように、淡い光を帯びた膜が球状に広がった。


 闇の濁流が、防御膜にぶつかる。


 大きな音はしなかった。


 代わりに、透明な膜の表面を、重たい黒い波が何度も叩いた。

 結界が軋む。

 その圧力が、術者であるファイの体へ直接のしかかってくる。


「う……っ」


 苦しい。


 重い。


 四方から押し潰されるようだった。


 それでも、膜は割れなかった。


 ファイは歯を食いしばり、必死に魔力を注ぎ続ける。


 怖い。

 逃げたい。

 もう、何も考えたくない。


 でも。


 渡さない。


 僕の体は、僕のものだ。

 僕の心は、僕のものだ。


 誰にも渡さない。


 ファイの抵抗に苛立ったように、闇がひときわ大きく波打った。


 空間そのものを押し潰すような黒い衝撃が、全方位から防御膜へ叩きつけられる。


 透明な膜が大きくひしゃげた。


 ファイの膝が、がくんと落ちる。


 それでも、手は下ろさなかった。


 防御膜が、淡く強く光った。


 ひしゃげていた膜が、もう一度形を取り戻す。

 押し寄せていた闇が、ぎしりと押し返された。


 やがて、狂ったように暴れていた黒い波が、潮を引くように退いていく。


 ファイは肩で荒く息をしていた。


 汗が頬を伝う。

 足は震えている。

 それでも、倒れなかった。


 目の前で、もう一人のファイが赤い瞳を細めている。


 さっきまでの余裕の笑みは、もう残っていなかった。


 ファイの周囲には、まだ《ガード・ヴェール》の淡い光が残っている。


 震える小さな体を包むように。

 理不尽な力から、魂まで守るように。


 絶対の黒の中で、ファイともう一人のファイは向かい合っていた。


 同じ顔で。

 同じ声で。


 けれど、決して同じものにはならないと告げるように。

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