第18話 もう一人の自分
気がつけばファイは、底知れない闇の中にひとり立っていた。
「えっ……? ここ、どこ……?」
震える声は、返ってこなかった。
上も下も分からない。
右も左もない。
足元には、硬い床を踏んでいるような感覚がある。けれど同時に、どこまでも深い虚空に浮かんでいるようでもあった。
風もない。
匂いもない。
音さえない。
ただ、黒だけがあった。
訓練場の明かりが落ちた時の暗さでも、自室の夜の静けさでもない。
光が届かないのではない。
ここには最初から、光というものが存在していないみたいだった。
足元には、タールのように黒い水面が広がっている。
ファイがおずおずと一歩下がると、ぬらりと波紋が立った。
その波紋の向こうで、闇の一部が盛り上がった。
「……っ」
最初は、不定形の影に見えた。
けれど違う。
影は粘り気のある泥のように立ち上がり、腕を作り、肩を作り、やがて顔を作っていく。
その顔を見た瞬間、ファイは息をのんだ。
そこに立っていたのは、ファイ自身だった。
背丈も、顔つきも、少しくしゃっとした黒い髪も、何もかも同じ。
でも、自分ではなかった。
瞳が赤い。
血のような赤だった。
足元の水面よりも濃い黒を、ぼろ布のように全身へまとっている。髪の先も、服の輪郭も、闇に溶けるように揺れていた。
もう一人のファイは、笑っていた。
同じ顔で。
同じ声を持っているはずの口で。
それなのに、その笑みはファイのものではなかった。
「ようやく会えたなぁ」
赤い瞳が、まっすぐファイを射抜く。
「ファイくん?」
声は、自分の声だった。
けれど、温度が違う。
ねっとりと意地悪で、こちらがいちばん触れられたくない場所を、最初から知っているような声だった。
ファイは何も言えなかった。
目の前にいるのは、自分と同じ顔をした、知らない誰かだ。
赤い瞳。
泥のような闇。
口元に張りついた、楽しそうな笑み。
その全部が、ファイの知っている自分から遠かった。
もう一人のファイは、怯えて黙り込むファイを眺めながら、にやにやと笑い続ける。
「何やら悩んでいるみたいじゃないか」
赤い瞳が細められた。
「オレが解決してやろうか?」
足元の闇が、ゆっくり波打った。
まるで、その言葉に合わせて笑っているみたいだった。
「なんの話……?」
ようやく絞り出した声は、ひどくかすれていた。
もう一人のファイは、ますます楽しそうに口角を上げる。
「防ぐだけじゃ、守れないんだろ?」
ファイの胸が、冷たく縮んだ。
「攻撃が必要なんだろ?」
ブエンの声が、頭の奥でよみがえる。
――防ぐだけでは、守り切れない時がある。
――だから、攻撃が必要になる。
同じ言葉のはずだった。
でも、目の前の彼が口にすると、まるで別の意味に聞こえた。
守るための言葉が、ひどく歪んでいく。
「なら簡単だ」
もう一人のファイは、同じ顔を歪めて笑った。
「壊せば止まる」
足元の黒い水面が、じわじわと広がる。
「殺せば、そいつは二度と誰も傷つけない」
「やだ……」
ファイの声は小さかった。
それでも、拒む言葉はこぼれた。
もう一人のファイは、少しだけ目を細める。
「やだ?」
嘲るような声だった。
「じゃあ、また守れないな」
足元の闇が、不吉に揺れる。
「また誰かが泣く」
「また誰かが連れて行かれる」
「また、お前は何もできずに見てるだけだ」
胸の奥に、蓋をしていた記憶が吹き上がった。
路地裏で泣いていた子どもたち。
助けを求める声。
震えて、身を寄せ合っていた小さな背中。
そして、ガルム・ヴィンクルムの顔。
守れた。
でも、死なせた。
二つのことが、また同じ場所でぶつかる。
ファイの両手が震えた。
怖い。
また誰かを守り損ねるかもしれない。
また誰かが、目の前で傷つくかもしれない。
また自分の力が、誰かの命を奪ってしまうかもしれない。
それが、たまらなく怖かった。
それでも。
「僕は……」
喉が震える。
もう一人のファイは、笑ったまま待っていた。
ファイが折れるのを、楽しみにしているみたいに。
ファイは、震える顎に力を入れた。
顔を上げる。
「僕は、殺したくなんてないんだ!!」
闇の底に、ファイの叫びが響いた。
手足はまだ震えている。
今すぐ逃げたい。
目を閉じて、耳をふさいで、全部なかったことにしたい。
それでも、この言葉だけは飲み込めなかった。
殺したくない。
それだけは、譲れなかった。
その瞬間、もう一人のファイの顔から笑みが消えた。
赤い瞳が、冷たく細まる。
「……そうかよ」
さっきまでの楽しそうな声ではなかった。
低く、冷たい声だった。
「お前じゃ無理だ」
足元の闇が、どろりと大きく揺れる。
「守りたい。傷つけたくない。殺したくない」
彼は吐き捨てるように言った。
「そんなことばっかり言ってるから、何も守れないんだよ」
赤い瞳が、ファイを射抜く。
「その体をオレによこせ」
黒い泥のような闇が、足元から溢れ出した。
「オレがもっと上手く扱ってやるよ」
荒れた水面が大きく波打つ。
闇が触手のように伸び、ファイの足首へ絡みつこうとした。
もう一人のファイの輪郭が、ぐにゃりと歪む。
背後から、膨大な黒い影が翼のように広がった。
闇そのものが無数の腕になって、ファイを飲み込もうとしているみたいだった。
「お前が迷うなら」
赤い瞳が、闇の中で爛々と光る。
「オレが代わってやる」
次の瞬間、漆黒の濁流が押し寄せた。
「っ……!」
考えるより先に、体が動いた。
ファイの全身を包むように、透明な膜が広がる。
「――《ガード・ヴェール》!」
防御膜は、正面だけを守る盾ではなかった。
足元から這い上がる闇。
背後へ回り込む影。
左右から腕や足をつかもうとする黒い手。
そのすべてを遮るように、淡い光を帯びた膜が球状に広がった。
闇の濁流が、防御膜にぶつかる。
大きな音はしなかった。
代わりに、透明な膜の表面を、重たい黒い波が何度も叩いた。
結界が軋む。
その圧力が、術者であるファイの体へ直接のしかかってくる。
「う……っ」
苦しい。
重い。
四方から押し潰されるようだった。
それでも、膜は割れなかった。
ファイは歯を食いしばり、必死に魔力を注ぎ続ける。
怖い。
逃げたい。
もう、何も考えたくない。
でも。
渡さない。
僕の体は、僕のものだ。
僕の心は、僕のものだ。
誰にも渡さない。
ファイの抵抗に苛立ったように、闇がひときわ大きく波打った。
空間そのものを押し潰すような黒い衝撃が、全方位から防御膜へ叩きつけられる。
透明な膜が大きくひしゃげた。
ファイの膝が、がくんと落ちる。
それでも、手は下ろさなかった。
防御膜が、淡く強く光った。
ひしゃげていた膜が、もう一度形を取り戻す。
押し寄せていた闇が、ぎしりと押し返された。
やがて、狂ったように暴れていた黒い波が、潮を引くように退いていく。
ファイは肩で荒く息をしていた。
汗が頬を伝う。
足は震えている。
それでも、倒れなかった。
目の前で、もう一人のファイが赤い瞳を細めている。
さっきまでの余裕の笑みは、もう残っていなかった。
ファイの周囲には、まだ《ガード・ヴェール》の淡い光が残っている。
震える小さな体を包むように。
理不尽な力から、魂まで守るように。
絶対の黒の中で、ファイともう一人のファイは向かい合っていた。
同じ顔で。
同じ声で。
けれど、決して同じものにはならないと告げるように。




