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闇より速く、光より深く  作者: なすび
第一章 知らない空で呼ばれる名

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第1話 怒らない子

 湊は、怒らない子だった。


 少なくとも、クラスのほとんどはそう思っていた。


 消しゴムを隠されても、上履きに砂を入れられても、机の中にぐしゃぐしゃのプリントを押し込まれても、湊は大きな声を出さなかった。先生に言いつけることも、やり返すことも、ほとんどない。


 ただ少し困ったように笑って、「やめてよ」と言うだけだった。


 だから、面白がるやつがいた。


「なあ、また怒らないの?」


 昼休み、男子の一人が湊の机を指でこつこつ叩いた。


 湊は給食袋を机の横にかけながら、少しだけ顔を上げた。


「怒ってるよ」

「嘘つけ。全然怒ってないじゃん」

「……怒ってるけど」


 その答えに、まわりで小さな笑い声が起きる。


 湊はそれ以上、何も言わなかった。


 本当は嫌だった。胸の奥がぎゅっと縮む感じがした。言い返したい言葉だって、ないわけじゃない。でも、それを口に出そうとすると、喉の奥で何かがつかえてしまう。


 言ったら、何かが変わってしまう気がした。


 自分でもよく分からない、黒くて重たいものが胸の奥でじっと息をひそめているような気がして、湊はいつもそれを触らないようにしていた。


「はい、そこまで」


 横から声がした。


 蓮だった。椅子を引きずって、湊の机の横に来る。


「湊、図書室行こう」

「え、今?」

「今。返す本があるから」


 蓮はそう言って、湊の返事を待たずに机の上の本を一冊持ち上げた。


 さっきまで机を叩いていた男子が、少しつまらなそうに口を曲げる。


「何だよ、蓮。お前、湊の保護者かよ」

「違うよ」

 蓮は振り向きもせずに言った。

「友だち」


 その言い方があまりに普通だったので、男子は一瞬だけ黙った。


 湊は少し遅れて立ち上がる。


 胸の奥にあった重たいものが、ほんの少しだけほどけた気がした。


 図書室は、教室よりずっと静かだった。


 窓際の棚には古い本が並んでいて、紙とほこりの匂いがする。昼休みのざわめきは廊下の向こうで薄くなり、ここではページをめくる音の方が大きく聞こえた。


 蓮は返却カウンターに本を置くと、湊を見た。


「また何かされてた?」

「うん。でも大丈夫」

「大丈夫って言うとき、だいたい大丈夫じゃないよね」


 湊は少し笑った。


「そうかな」

「そうだよ」


 蓮は棚から適当に本を一冊抜き取った。宇宙の図鑑だった。表紙には、青い地球と、光の粒みたいな星が描かれている。


「こういうの好きだったよね」

「うん」


 湊は表紙を見つめた。


 宇宙。


 遠くて、広くて、知らないものばかりの場所。


 でも湊にとってそれは、図鑑の中にあるものだった。テレビや本で見るだけの、手の届かない世界。自分とは関係のない場所。そう思っていた。


「宇宙人って本当にいると思う?」

 蓮が聞いた。

「いるんじゃない?」

「適当だな」

「だって、宇宙って広いし」

「じゃあ、もし会ったらどうする?」


 湊は少し考えた。


「話してみる」

「いきなり?」

「うん。何しに来たのって」


 蓮は笑った。


「湊っぽい」

「そう?」

「うん。怖がる前に聞きそう」


 湊は返事をしなかった。


 怖がらないわけじゃない。たぶん、怖いものは怖い。でも、相手が何を考えているのか分からないまま決めつけるのは、なんとなく嫌だった。


 怖いから悪い。知らないから危ない。


 そういう決め方をされたら、少し悲しい気がした。自分がそう見られているような気がしたからかもしれない。


 五時間目の体育は、運動場でのドッジボールだった。


 湊はあまり前に出なかった。ボールを取るのも投げるのも、得意ではない。正確には、取れないわけではない。でも強く投げようとすると、少し怖かった。


 当たったら痛い。


 痛い思いをさせたくない。


 そう思うと、手の力が抜けてしまう。


「湊、パス!」


 蓮の声がして、湊は転がってきたボールを拾った。


 相手チームの男子が、わざとらしく両手を広げる。


「ほら、投げてみろよ。どうせ弱いけど」


 まわりが笑う。


 湊はボールを持ったまま、相手の顔を見た。


 ほんの一瞬だけ、音が遠くなった。


 運動場の白い線も、土の匂いも、クラスメイトの声も、全部が薄くなっていく。胸の奥で、何かがゆっくり目を開けたような気がした。


 投げれば、当たる。


 避けられないところに。


 なぜか、そう分かった。


 ボールを握る指に力が入る。


 相手の笑い声が、ぴたりと止まった。


「湊?」


 蓮の声で、湊ははっとした。


 手の中のボールが急に重く感じた。湊は力を抜いて、ゆるくボールを投げる。ボールは相手の足元をころころ転がっていき、簡単に拾われた。


「何それ」

「弱っ」


 また笑い声が起きる。


 湊は少しだけうつむいた。


 でも、ほっとしていた。


 今のは、よくなかった。


 何がよくなかったのかは分からない。ただ、あのまま投げていたら、自分でも知らない何かが出てしまった気がした。


 放課後、湊と蓮は並んで帰った。


 春の終わりの風が、道ばたの草を揺らしていた。ランドセルの肩ひもが少し食い込み、靴の中に入った砂が歩くたびに小さくこすれた。


「さっき、どうした?」

 蓮が聞いた。

「さっき?」

「体育。ボール持ったとき」


 湊は少し黙った。


「……分からない」

「怒った?」

「怒っては、いたと思う」

「思う?」

「うん。でも、怒ったらだめな気がした」


 蓮はしばらく何も言わなかった。


 湊は慌てて付け足す。


「別に、我慢してるとかじゃなくて」

「我慢してるだろ」

「……ちょっと」


 蓮はため息をついた。


「怒ってもいいと思うけど」

「うん」

「でも、湊が嫌なら無理に怒らなくてもいい」

「どっち?」

「知らない。湊が決めることだし」


 その雑な言い方に、湊は少し笑った。


 蓮は昔からそうだった。助けてくれるけれど、助けた顔をしない。心配してくれるけれど、心配していると大げさには言わない。


 だから湊は、蓮の横にいると少し息がしやすかった。


 二人が細い路地に差しかかったとき、湊は足を止めた。


 道の先に、見慣れない男が二人立っていた。


 一人は作業着のような服を着て、もう一人は黒い鞄を持っている。近所の工事の人にも、配達の人にも見えなくはなかった。


 けれど、何かが違った。


 服は普通なのに、立ち方だけが妙に静かだった。まるで、そこにいることを誰にも気づかれないように、息の仕方まで整えているみたいだった。


「……あの人たち、誰だろう」

 蓮が小さく言った。

「分からない」


 湊も答えた。


 その瞬間、男の鞄の留め具が、かすかに青く光った。


 本当に一瞬だった。見間違いだと言われれば、そう思えるくらいの光。


 でも、湊の背中にぞわっとしたものが走った。


「蓮」

「何?」

「今日は、遠回りしよう」


 蓮は湊の顔を見た。


 理由を聞こうとして、やめたようだった。


「分かった」


 二人は向きを変えた。


 その背後で、作業着の男がゆっくりと顔を上げた。黒い鞄の中で、何かが低く鳴った。


 湊はその音に気づかなかった。


 ただ、胸の奥で眠っていた黒いものが、ゆっくりと息を吸った。


 まるで、次に目を覚ます時を知っているみたいに。

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