プロローグ 迎えに行く夢
そこには、光がなかった。
上も下も分からない。空も、地面も、風もない。ただ、底の見えない闇だけが、どこまでも広がっていた。
湊は、その中を歩いていた。
どうして歩いているのかは分からない。どこへ向かっているのかも分からない。それでも、足は止まらなかった。
闇が足首に絡みつく。冷たい手のように、何度も湊を引き止めてくる。
行くな。
戻れ。
そんな声が、どこかから聞こえた気がした。
湊は少しだけ息を吸った。
「……迎えに来たよ」
自分の声なのに、自分の声ではないみたいだった。
闇の奥で、誰かが笑った気がした。怖い声だった。冷たくて、意地悪で、突き放すような声。なのに、なぜか嫌ではなかった。
ずっと前から知っているような。
ずっと待たせてしまっていたような。
そんな声だった。
『遅い』
そう聞こえた。
湊は顔を上げる。そこには誰もいない。ただ、深い闇だけがある。手を伸ばしても、何にも届きそうにない。
それでも湊は、もう一度、闇の奥へ手を伸ばした。
「ごめん」
闇が揺れた。
足元が沈む。身体が重くなる。胸の奥まで、黒いものが流れ込んでくる。
苦しい。怖い。
それでも、不思議と逃げたいとは思わなかった。
置いていったままにしたくない。
その気持ちだけが、湊の中に残っていた。
もう少しで、指先が何かに触れそうだった。
その瞬間――
「湊!」
誰かの声がして、世界が白く弾けた。
目を開けると、そこは教室だった。
黒板。机。窓から入る昼前の光。少しだけ湿ったチョークの匂い。
さっきまでの闇は、どこにもなかった。
「大丈夫?」
隣の席から、蓮がこちらを覗き込んでいた。
「すごくぼーっとしてたけど」
湊は、ゆっくり瞬きをした。
夢を見ていた。たぶん、そうだ。
でも、どんな夢だったのかは、もうほとんど思い出せない。
ただ、誰かに謝った気がした。
それから、誰かを迎えに行こうとした気がした。
「……うん。大丈夫」
湊はそう答えて、少しだけ笑った。
蓮はじっと湊の顔を見たあと、ふっと息を吐いた。
「ならいいけど。先生に当てられてたよ」
「えっ」
「気づいてなかったの?」
「……全然」
蓮は小さく笑った。
「やっぱり大丈夫じゃないじゃん」
湊は慌てて黒板の方を向いた。
先生はもう別の生徒を当てていて、教室にはいつものざわめきが戻っている。
誰かが小さく笑っている。誰かがノートの端に落書きをしている。外では、風に揺れた木の葉が、窓をかすかに叩いている。
いつも通りの教室だった。
湊は、机の下でそっと自分の指先を握った。
まだ少しだけ冷たい。
まるで、さっきまで本当に、深い闇の中に立っていたみたいに。
でも、それもすぐに消えるだろうと思った。
変な夢を見ただけ。
そう思うことにした。
湊はノートを開き、シャーペンを握り直した。
白いページの上に、黒い芯の先が触れる。
その瞬間、なぜか胸の奥が少しだけ痛んだ。
けれど湊は、その理由を知らなかった。
だから何も言わず、いつものように授業の続きを板書した。




