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闇より速く、光より深く  作者: なすび
第一章 知らない空で呼ばれる名

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1/8

プロローグ 迎えに行く夢

 そこには、光がなかった。


 上も下も分からない。空も、地面も、風もない。ただ、底の見えない闇だけが、どこまでも広がっていた。


 湊は、その中を歩いていた。


 どうして歩いているのかは分からない。どこへ向かっているのかも分からない。それでも、足は止まらなかった。


 闇が足首に絡みつく。冷たい手のように、何度も湊を引き止めてくる。


 行くな。


 戻れ。


 そんな声が、どこかから聞こえた気がした。


 湊は少しだけ息を吸った。


「……迎えに来たよ」


 自分の声なのに、自分の声ではないみたいだった。


 闇の奥で、誰かが笑った気がした。怖い声だった。冷たくて、意地悪で、突き放すような声。なのに、なぜか嫌ではなかった。


 ずっと前から知っているような。


 ずっと待たせてしまっていたような。


 そんな声だった。


『遅い』


 そう聞こえた。


 湊は顔を上げる。そこには誰もいない。ただ、深い闇だけがある。手を伸ばしても、何にも届きそうにない。


 それでも湊は、もう一度、闇の奥へ手を伸ばした。


「ごめん」


 闇が揺れた。


 足元が沈む。身体が重くなる。胸の奥まで、黒いものが流れ込んでくる。


 苦しい。怖い。


 それでも、不思議と逃げたいとは思わなかった。


 置いていったままにしたくない。


 その気持ちだけが、湊の中に残っていた。


 もう少しで、指先が何かに触れそうだった。


 その瞬間――


「湊!」


 誰かの声がして、世界が白く弾けた。


挿絵(By みてみん)


 目を開けると、そこは教室だった。


 黒板。机。窓から入る昼前の光。少しだけ湿ったチョークの匂い。


 さっきまでの闇は、どこにもなかった。


「大丈夫?」


 隣の席から、蓮がこちらを覗き込んでいた。


「すごくぼーっとしてたけど」


 湊は、ゆっくり瞬きをした。


 夢を見ていた。たぶん、そうだ。


 でも、どんな夢だったのかは、もうほとんど思い出せない。


 ただ、誰かに謝った気がした。


 それから、誰かを迎えに行こうとした気がした。


「……うん。大丈夫」


 湊はそう答えて、少しだけ笑った。


 蓮はじっと湊の顔を見たあと、ふっと息を吐いた。


「ならいいけど。先生に当てられてたよ」


「えっ」


「気づいてなかったの?」


「……全然」


 蓮は小さく笑った。


「やっぱり大丈夫じゃないじゃん」


 湊は慌てて黒板の方を向いた。


 先生はもう別の生徒を当てていて、教室にはいつものざわめきが戻っている。


 誰かが小さく笑っている。誰かがノートの端に落書きをしている。外では、風に揺れた木の葉が、窓をかすかに叩いている。


 いつも通りの教室だった。


 湊は、机の下でそっと自分の指先を握った。


 まだ少しだけ冷たい。


 まるで、さっきまで本当に、深い闇の中に立っていたみたいに。


 でも、それもすぐに消えるだろうと思った。


 変な夢を見ただけ。


 そう思うことにした。


 湊はノートを開き、シャーペンを握り直した。


 白いページの上に、黒い芯の先が触れる。


 その瞬間、なぜか胸の奥が少しだけ痛んだ。


 けれど湊は、その理由を知らなかった。


 だから何も言わず、いつものように授業の続きを板書した。

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