第16話 報告書
夜の執務室には、端末の淡い光だけが残っていた。
机の上には、ラグナ支部への踏み込みに関する報告書が重ねられている。
人質の数。
救出された子どもたちの状態。
拘束された構成員。
押収された転送装置。
そして、ガルム・ヴィンクルムの死亡記録。
新たに届いた調査資料には、ガルムが施設奥の転送経路を使い、可能な限り多くの子どもたちを連れて離脱しようとしていた形跡が記されていた。
予備転送陣。
非常用の搬出口。
子どもたちを運び出すための拘束具。
追跡を妨害するための偽装記録。
準備は、かなり直前まで進んでいた。
もし、あの時ファイが走り出していなければ。
ガルムは、子どもたちを連れて逃げていたかもしれない。
そうなれば、人質全員を無事に帰すことはできなかった。首謀者であるガルムの追跡も、困難になっていた可能性が高い。
だが、その結果として。
ファイは、ガルムを死なせた。
防御魔法の練度は、事件前とは比べものにならないほど上がっている。
守る力は伸びた。
けれど、その代償のように、ファイの中には深い傷が残った。
扉の外で、短いノックが鳴る。
少し間を置いて、隊員の声がした。
「失礼します。追加調査の資料をお持ちしました」
入ってきた隊員は、机の上の報告書に視線を落とした。
何かを言いかけて、やめる。
それでも、立ち去ろうとはしなかった。
「……隊長」
迷った末に、隊員は口を開いた。
「あの時、ファイを連れて行った判断は……正しかったのでしょうか」
ブエンは、すぐには答えなかった。
端末の光が、机上の報告書を白く照らしている。
「……分からん」
短い答えだった。
隊員は、何も言わなかった。
ブエンは続ける。
「だが、少なくともあの子がいなければ、全員無事では済まなかったかもしれない。首謀者にも逃げられていた可能性がある」
「……はい」
隊員の声は低かった。
「調査班の所見でも、同じです。奥の転送経路は、起動準備がほぼ整っていました。偽装記録も残されていたため、通常の追跡では……おそらく、時間がかかったかと」
隊員はそこで一度、言葉を切った。
報告書の中には、救出者一覧がある。
子どもたちの名前。
搬送時の状態。
保護後の経過。
全員、生存。
その事実だけが、静かに並んでいた。
「ファイが先に子どもたちを見つけ、防護膜を展開したこと。それがなければ、初動は確実に遅れていました」
隊員の声に、責める響きはなかった。
ただ、見たものを確認するように続けていく。
「ですが……」
視線が、ガルム・ヴィンクルムの死亡記録へ移る。
「その初動が、ファイ自身をあの場所へ向かわせました」
「……そうだ」
「ファイは、自分の力を恐れるようになった」
部屋に沈黙が落ちる。
端末の淡い光だけが、二人の影を床に伸ばしていた。
「だが、ファイの守りたいという気持ちは本物だ」
ブエンの声は低かった。
「私は、そこを信じたい」
隊員は黙って聞いていた。
「あの子は、必ず立ち上がる」
すぐに頷くことはできなかった。
だが、否定することもできなかった。
ファイは泣いていた。
目を覚ましたあと、自分が何をしたのかを聞いて、崩れるように泣いていた。
それでも、訓練場に戻ってきた。
弱い水流を何度もほどきながら。
炎の輪を閉じきれずに消しながら。
拘束することに怯えながら。
それでも、逃げなかった。
隊員は静かに視線を落とした。
「……今日の訓練記録も確認しました」
机の端に置かれた別の記録端末が、淡く光る。
「通常属性は、まだ不安定です。特に拘束系と攻撃系は、発動直前で魔力が抜けています」
淡々とした報告だった。
けれど、次の声には、わずかに違う響きが混じった。
「ただ、防御魔法だけは……異常と言っていい伸び方です」
端末に、訓練場の映像が映る。
魔力弾が正面から撃ち込まれる。
ファイの《ガード・ヴェール》が、それを受け止める。
次に、斜め後ろからの攻撃。
防御膜が伸び、包むように回り込む。
さらに、左側からの攻撃。
防御膜が角度を変え、衝撃を流す。
隊員は映像を見たまま言った。
「中級防御魔法の範囲を、超えかけています」
少しだけ、言葉を探す。
「正確には、出力そのものが上級に届いているわけではありません。ですが、形の変化と反応速度が、通常の中級術者とは違います」
訓練映像の中で、透明な膜がファイを包んでいる。
壁ではない。
盾でもない。
小さな体を中心に、守る対象を逃がさないように。
けれど、閉じ込めるのではなく、外から包むように。
隊員は低く続けた。
「ガルムを死なせた闇も、あの子の力です」
その声は重かった。
「ですが、人質を守った防護膜も、同じくあの子の力です」
部屋には、端末の光だけが揺れていた。
「……隊長」
隊員はブエンを見る。
「私たちは、あの子をどう記録すべきなのでしょうか」
ブエンの答えは、短かった。
「そのままを記録しておけ」
隊員が背筋を正す。
「そのまま、ですか」
「隠す必要はない。だが、不用意に広げる必要もない」
ブエンの声は揺れなかった。
「あの子が何をしたのか。何を守ったのか。何を背負ったのか。すべて記録に残せ」
「……承知しました」
隊員は深くうなずいた。
端末に視線を落とし、必要な制限項目を確認する。
閲覧権限。
共有範囲。
機密区分。
医療記録との照合。
訓練記録の添付。
事実を消さない。
だが、広げもしない。
その判断を、隊員は静かに受け取った。
「では、ガルム・ヴィンクルムの死亡経緯、ファイの意識状態、防御魔法の変化、救出結果……すべて記録します。ただし、共有は限定範囲に留めます」
そこで、隊員は少しだけ言葉を止めた。
「……ファイ本人には、どこまで伝えますか」
「必要なことは、すでに私から伝えた」
隊員は一度だけ目を伏せた。
「……承知しました」
短く敬礼し、静かに退室する。
扉が閉まると、執務室には再び端末の淡い光だけが残った。
ブエンは報告書へ向き直る。
空白になっていた項目に、文字を書き込んでいく。
『ガルム・ヴィンクルムは死亡。
ただし、現場調査により、同対象が拉致被害者を伴い、施設奥の転送経路から離脱を試みていた痕跡を確認。
当該離脱の阻止に、ファイが関与。
結果として、拉致被害者は全員生存。重大な外傷なし。』
端末の光が、静かに文字列を照らしていた。
死亡。
阻止。
生還。
どの言葉も、事実だった。
そのどれか一つだけでは、ファイを記録したことにはならない。




