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闇より速く、光より深く  作者: なすび
第三章 闇の中のもう一人
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第15話 訓練再開

 訓練場の床は、前と同じように硬かった。


 白い線で区切られた広い空間。

 壁際に並ぶ訓練用の標的。

 天井から降る、まぶしすぎない銀色の光。


 何も変わっていない。


 けれど、そこに立つファイの中だけは、前と同じではなかった。


 ガルム・ヴィンクルム。

 子どもたちの泣き声。

 自分の中から聞こえた、知らない声。


 守れたはずなのに、命も奪ってしまった。


 その重さだけが、胸の奥に残っている。


 訓練場の中央で、ブエンがファイを見る。

 今日は端末も記録用器具もない。腰に剣だけを下げて、まっすぐ立っていた。


「ファイ。今日から訓練を再開する」


 ファイは小さくうなずいた。


 逃げるつもりはなかった。


 自分が戦えなければ、誰かを守れない。

 弱いままなら、また誰かを傷つけてしまうかもしれない。

 あの声に身体を渡してしまえば、今度はもっと多くの人が傷つくかもしれない。


 だから、ここに立っていた。


「今日は中級魔法へ進む。見本を見ろ」


 人型の標的が、青白い光をまとって起動する。


「まずは水属性」


 ブエンが右手をかざした。


「――《アクア・バインド》」


 床を走った水が、標的の足首へ一気に絡みついた。


 ただ濡らすだけではない。細い流れが幾重にも巻きつき、次の一歩を許さない形へ変わっている。


「拘束だ。殺すための魔法ではない。止めるための魔法だ」


 水がほどけ、床へ戻る。


「逃がせば、誰かが傷つく。斬れば、相手が死ぬ。ならば、その間にある手段を持て」


 そこで、ブエンはファイを見る。


「殺さずに止めるために、縛る技術がいる」


 ファイは、すぐには動けなかった。


 殺さずに。


 その言葉が、胸の奥に重く沈む。


 守れた。


 でも、死なせた。


 その二つが同じ場所にあるせいで、指先に集まる魔力までためらっている気がした。


「――《アクア・バインド》」


 足元に滲んだ水が、標的へ向かう。


 けれど、水流と呼ぶにはあまりにも弱かった。


 足首へ届く直前で勢いを失い、床に広がって消える。


 訓練場が静まり返った。


 ブエンは責めなかった。

 ただ、床に残った薄い水を見て言う。


「弱いな」


 ファイは顔を上げなかった。


「……うん……」


「だが、逃げなかった」


 短い一言だった。


 ブエンは標的を見たまま続ける。


「今のお前は、縛ることを恐れている。動きを奪うことが、そのまま傷つけることにつながると思っている」


 ファイは何も言わない。


 否定できなかった。


「それは間違いではない。使い方を誤れば、拘束も暴力になる」


 ブエンの声が、少しだけ低くなる。


「だが、止めなければ守れん時もある」


 標的が一歩進んだ。


「水で足を取れ。前へ進ませるな」


 ファイはもう一度、手を伸ばした。


「――《アクア・バインド》」


 今度は、さっきより形になった。


 細い水流が標的の足首へ届き、ほんの一瞬だけ巻きつく。


 だが、締めるところで止まった。


 強くすれば止められる。


 その一歩手前で、魔力が逃げる。


 水はほどけ、また床へ落ちた。


 その後も訓練は続いた。


 火属性では、ブエンが《フレイム・リング》の見本を見せた。

 炎の輪が標的の周囲へ広がり、進路を塞ぐ。焼き払うためではなく、近づけさせないための火だった。


 ファイも真似をした。

 けれど、輪は閉じ切る直前で細くなり、揺れて消えた。


 《フレイム・バースト》も、火花が散るところまではいく。

 だが、爆ぜる寸前で炎がほどける。


 風属性では、《エアロ・ターン》で訓練弾の軌道を逸らす訓練をした。

 ブエンは軽く逸らしてみせたが、ファイの風は威力が足りず、訓練弾は標的の横をかすめるだけで終わった。


 土属性の《テラ・バインド》も同じだった。

 土は盛り上がる。形にはなる。だが、足に触れてから先へ行けない。


 絡め取る直前で崩れ、ただの小さな塊になって落ちた。


 どれも、まったくできないわけではなかった。


 形にはなる。

 魔力も流れている。


 けれど、相手へ届く直前。

 止める直前。

 傷つけるかもしれない、そのぎりぎりのところで、ファイは必ず手を引いた。


 ブエンはしばらく黙って、それを見ていた。


「通常属性の訓練はここまでだ」


 訓練用の標的が停止する。


 代わりに、訓練場の端で別の標的が起動した。


 今度は攻撃用だ。


 青白い魔力が集まり、低く唸る。


「次は防御魔法だ」


 その言葉だけで、ファイの指先が少し動いた。


「受け止めろ、ファイ」


 標的の前で、魔力弾が光る。


 次の瞬間、一直線に撃ち出された。


 ファイの目に、別のものが浮かんだ。


 泣いていた子どもたち。

 震えて、身を寄せ合っていた小さな背中。

 防護膜の中で、必死にこちらを見ていた顔。


 守れた。


 あの子たちは、守れた。


 ファイの手が動いた。


「――《ガード・ヴェール》」


 透明な膜が、ほとんど反射のような速さで展開される。


 魔力弾がぶつかった。

 鈍い音が訓練場に響く。


 けれど、膜は割れなかった。


 揺れたのは一瞬だけだった。


 ブエンの目が、わずかに細くなる。


 速い。


 迷いがない。


 今までの中級魔法とは、まるで違った。


 だが、それで終わりではなかった。


 ファイの防御膜の正面とは別の角度で、もう一体の標的が起動した。


 斜め後ろ。


 普通なら、最初の壁では守れない位置だった。


 隊員の一人が息を呑む。


 ファイは、壁を出し直さなかった。


 透明な膜が、しなやかに形を変える。


 正面の魔力弾を受け止めたまま、膜の端が伸びた。

 薄い光がファイの横を回り込み、斜め後ろからの攻撃を包むように受け止める。


 二発目の衝撃。


 膜が震える。


 だが、崩れない。


 さらに三体目の標的が、左側から撃った。


 今度の攻撃は、正面から受ければ薄いところが危うい角度だった。


 ファイの膜が、また動く。


 ただ厚くなるのではない。


 斜めに傾いた。


 魔力弾がぶつかる。


 その瞬間、透明な膜は衝撃を真正面から止めなかった。

 受けた力を、表面に沿わせるように流した。


 魔力弾の軌道がずれる。


 弾かれた光は床をかすめ、訓練場の端で小さく散った。


 訓練場に、しんとした静けさが戻る。


 透明な膜は、まだファイの周囲に残っていた。


 小さな体を中心に、丸く、柔らかく、けれど確かに守る形で。


 ブエンはしばらく黙っていた。


 そして、低く言う。


「……今のは、誰に教わった」


 ファイは少し悩んだ顔をした。


「んー……わかんない。子どもたちを守ろうとしただけだよ?」


 訓練場にいた隊員たちが、思わず黙る。


 今の防御が、どれほど高度なものだったのか。

 ファイ本人だけが分かっていない。


 ブエンはすぐには答えなかった。


 正面から受けるだけなら、まだ分かる。

 魔力の出力が高ければ、中級防御でも硬くなることはある。


 だが、今のは違う。


 攻撃の角度に合わせて膜の形を変えた。

 正面を受け止めながら、斜め後ろへ伸ばした。

 左からの攻撃には、硬さではなく角度で受け流した。


 壁ではない。

 盾でもない。


 守るために、状況に合わせて形を変える膜だった。


「……そうか」


 ブエンは短く言った。


 それ以上、すぐには説明しなかった。


 ファイにとって、それは技術ではない。

 守ろうとした結果、自然に出たものだ。


 下手に理屈を並べれば、かえって身体が止まるかもしれない。


 ブエンは手を上げる。


 壁際から、小さな訓練用の人形が三つ、床を滑るように出てきた。


 大人の標的ではない。


 子どもの背丈に近い、小さな人型だった。


「次は、お前自身ではなく、この三体を守れ」


 三体の人形が、ファイから少し離れた位置に並ぶ。


 正面。

 右。

 左後方。


 ブエンの声が、静かに響く。


「守る相手は、いつもお前のそばにいるとは限らん」


 攻撃用の標的が、再び起動する。


「離れた相手も包めるか、ファイ」


「やってみる……!」


 ファイは小さく言って、手を上げた。


「――《ガード・ヴェール》」


 透明な光が、ファイの前に生まれる。


 けれど、それは壁にはならなかった。


 まっすぐ立つ盾ではなく、ゆるく曲がる。


 三体の人形をまとめて抱え込もうとするように、光の膜が弧を描いた。


 完全な球ではない。

 後ろ側は開いている。


 それでも、正面から撃ち込まれた魔力弾は、弧を描いた膜に受け止められた。


 一発目。


 膜が震える。


 二発目。


 右側から撃たれた魔力弾に合わせて、弧の端が少しだけ伸びた。


 三体の人形のうち、右端の一体をかすめそうになった衝撃を、ぎりぎりで包み込む。


 ブエンは黙って見ていた。


 まだ甘い。

 膜の厚みも均一ではない。

 左後方は薄い。


 三発目が来る。


 左後方。


 膜の薄いところを狙うような角度だった。


 正面から受ければ、割れるかもしれない。


 ファイの弧が、遅れて動く。


 膜の端が、ただ厚くなるのではなく、斜めに傾いた。


 魔力弾がぶつかる。


 先ほどと同じように、膜は衝撃をまともに受け止めなかった。


 力を、表面に沿わせるように流す。


 魔力弾の軌道がずれる。


 人形から、ほんの少しだけ外れる。


 弾かれた光は床をかすめ、訓練場の端で小さく散った。


 人形には、当たらなかった。


 攻撃用標的が停止する。


 訓練場に、短い静けさが戻った。


「……守り、切れた……」


 ゆっくりと、防御魔法の光が散っていく。


 ブエンは、剣の柄に添えていた手を離した。


「……今のは、よくできていた」


 ブエンは三体の人形を見たまま続ける。


「ただ受け止めたのではない。力の向きを変えた。膜の薄い場所を、硬さだけで補おうとしなかった」


 隊員たちの視線が、ファイに集まる。


「中級防御魔法で、今の判断をする者は少ない」


 ブエンは、そこでようやくファイを見る。


「誇っていい」


 その声は静かだった。


 甘くはない。だが、確かに認めていた。


「覚えろ。今のお前の魔力の動き、感覚を」


 少しだけ、声が強くなる。


「これは、お前の才能だ。だが、才能のままにするな。守る技術にしろ」


 ファイは、自分の手を見た。


 縛れなかった水。

 止めきれなかった火。

 逸らしきれなかった風。

 掴めなかった土。


 なのに、防御だけは、身体が先に動いた。


 誰かを傷つけるかもしれないと思うと、魔力はほどける。

 誰かを守らなければと思った瞬間だけ、迷うより先に形になる。


 それが良いことなのか、怖いことなのか、ファイにはまだ分からなかった。


 それでも。


「……うん」


 小さく返した声は、さっきより少しだけまっすぐだった。




 その夜。


 ブエンの執務室には、淡い光だけが灯っていた。


 机の上には、一枚の報告書が開かれている。


 ヴィンクルム商会本拠地制圧作戦。

 人質全員生存。

 拉致被害者全員保護。

 首謀者ガルム・ヴィンクルム死亡。


 ブエンは、そこで筆を止めた。


 事実を書かなければならない。


 救ったことも。

 奪ったことも。


 どちらかだけを書けば、ファイを正しく記録したことにはならない。


 ファイは人質を守った子どもだ。


 同時に、制御不能な闇で命を奪った存在でもある。


 危険と書かなければ、嘘になる。

 救ったと書かなければ、不当になる。


 ブエンはしばらく、何も書かずに紙を見つめていた。


 昼の訓練場が脳裏に浮かぶ。


 ためらいながら、それでも逃げなかった姿。

 守る時だけ、迷いより先に身体が動いた姿。


 あの子は、まだ怖がっている。

 まだ傷の中にいる。


 それでも、守ろうとすることだけはやめていない。


 ならば、鍛えるしかない。


 壊さずに。

 逸らさずに。

 だが、甘やかしもせずに。


 ブエンは静かに息を吐き、もう一度だけ白い紙を見下ろした。


 そして、ゆっくりと次の一文を書き加えた。


 発動時、対象者ファイは通常の意識状態になかった可能性が高い。


 筆先が止まる。


 その一文は、ファイを守るための言葉ではない。

 逃がすための言葉でもない。


 ただ、見たものを曲げないための言葉だった。


 ブエンは再び筆を動かした。


 死亡。

 阻止。

 生還。


 どの言葉も、事実だった。


 そのどれか一つだけでは、ファイを記録したことにはならない。


 夜の執務室には、紙を擦る小さな音だけが続いていた。

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